ここ数年、「マインドフルネス」という言葉を見かけることが増えました。以前からマインドフルネスを取り入れていたGoogleをはじめとする、アメリカのテック企業の影響もあり、日本でもビジネスパーソンを中心に広まりつつあります。
しかし、本来マインドフルネスは、単なるビジネスのための道具ではないはずです。マインドフルネス本来の思想、そして現代における実践のあり方について、現代仏教僧の松本紹圭さんに寄稿してもらいました。資本主義システムとのかかわりに目配せしながら、「わたし」の能力開発ツールとしてのマインドフルネス・ブームの背景と、今後向かうべき「わたしたちのマインドフルネス」の可能性を考察します。
マインドフルネスの倫理と資本主義の精神──いま改めて考えたい、その思想と実践のかたち|松本紹圭
結論を先に言う。資本主義もマインドフルネスも、これまで共に「わたし」に閉じてしまっていたものが、相互にはたらき合いながら、両者は今、「わたしたち」の地平へと開けつつあるのではないか。それが私の見立てだ。
マインドフルネスとはなんだったか
マインドフルネスの由来を尋ねれば、仏教の禅でいうところの身心脱落、つまり、自らを縛る自我(「わたし」)から解放された無我の体得に辿りつく。パーリ語の「気づき」を表す「サティ」の訳語としてのマインドフルネス、その源流ともいえるティク・ナット・ハン師は「人間存在(human-being)は、間的存在(inter-being)、つまり関係性から立ちあらわれてくる存在である」と説いた。大乗仏教において、私とは縁の上にはじめてあらわれるものであり、私そのものは「空」であると認識する。変化し続ける縁の上にある「わたし」とは「わたしたち」のうちにあり、あらゆる現象は「わたしたち」の地平に立ち現れてくる。
高度経済成長を経て、心のどこかで資本主義の限界を感じながらも、更新され続ける未来の夢に急き立てられて、私たちは際限なく豊かさを求めて生きてきた。そのことに一部の人々が違和感を抱き始めた1990年代後半、企業や学校でのメンタルヘルスケアが社会的な課題になると、医学的、心理学的アプローチのみならず、社会の仕組みから一定の距離を置くことを望む人々が、ヨガや瞑想といった精神世界に少しずつ関心を寄せはじめた。2000年代には、ヨガやスピリチュアルはより親しみやすい形をもって広まり、一つのブームともなった。消費社会の疲弊を癒すものとして、哲学や精神性もまた消費対象となって大衆文化に浸透していった。
時を同じくして、国内外では仏教や禅への関心が高まる一方で、1990年代にオウム真理教やその他のカルト的な新興宗教がもたらした「宗教」への不信感や嫌悪感は拭いきれず、他宗教を信仰する欧米の人々にとってみてもまた、「宗教」の枠組みは壁でもあった。まして、資本主義の最前線たるビジネスの世界では、かつて以上に科学的なエビデンスが重視されるようになっていたから、ヨガやスピリチュアルとの文化的な距離は大きかった。
そんな中、マサチューセッツ大学医学大学院教授のジョン・カバット・ジン氏が仏教の禅の思想や修行から「宗教色」を取り除き、西洋科学と統合して提示したのが「マインドフルネス」という概念だ。こうしてスマートに翻訳、アレンジされた能力開発・メンタルケアツールとしての「マインドフルネス」は知識層を中心にビジネス世界へと一気に広まり、もともと坐禅など仏教の文化が根付いていたはずの日本にも、その流れが「逆輸入」されることとなった。
「わたし」の能力開発ツールとしてのマインドフルネス・ブームと、「わたし」の肥大化を求める資本主義の精神
ここで導入されるマインドフルネスは、接し方、使い方によっては身心脱落とは逆のありように向かい兼ねないことを言及しておきたい。ビジネス世界には、個人の評価基準や競争原理が強くはたらいている。マインドフルネスが「個人の能力開発」の文脈で用いられる時、2,500年にわたって受け継がれてきたこの世界観が、「宗教色」と共に抜け落ちることがあっても、おかしくはないだろう。
2007年には、Google社が社内の人材開発プログラムにマインドフルネスを導入したのが注目を集め、以降、GAFAやマッキンゼーといった欧米の大手企業は次々に社員のパフォーマンス向上を目的にマインドフルネスを採用した。今では、心身を整え高いパフォーマンスを発揮するための優れたツールとして、あらゆる分野に取り込まれている。
これまでも、仏教やヨガなどの東洋哲学に関心のある人々は一定数いたとはいえ、先進国でこれほどまでも一斉にマインドフルネスが取り入れられた背景とは、いったい何なのか。
資本主義のシステムにおいて、資本は時間と共に増殖し、価値は時間をテコにディスカウンティングすることが前提にある。人も「人材」として常に評価され消費されゆく世界において、個々人は生き抜くために自らの価値を高め続ける必要がある。そうして世界はそれぞれに競争を繰り広げながら、しかし一丸となって未来の見えない幸福を目指し続ける。自我の拡大こそが、資本主義を成り立たせているというカラクリの中に生きている。私たちは、「わたし」を肥大化させることに、絶えず急き立てられるシステムの内側にいる。
戦後の私たちの日常は、当たり前の消費、当たり前の比較、当たり前の競争に溢れ、優位性の選択と同時にそうではないものの不採用と廃棄を行ってきた。多くの人が、世界に対して意味や価値の有無を問いながら、自らの意味や価値の有無を問われる不安に晒されてきた。社会的な肩書きや経歴、任務、所得、税金、言動、振る舞い──私たちは、個人(又は家)に割り当てられたそれらを未来にわたるまで「わたし」が背負い続ける人生を生き、そこでは常に個人としての責任を問われ、常に、更なる向上を目指すことになっている。誰もが「わたし」の価値に不安を覚えながら、その意味と価値を拡充しようともがいてきたのだ。資本主義で敷き詰められた地面の下に湧く行き場のない「わたし」たちが、精神的な充足や存在の確かさを求めて彷徨うのは当然のことだろう。
2021年現在、資本主義という均質化した世界観が、世界の国々の個々人の意識を覆っている。それを支えるのが、競争し合う個人であり、個人の存在価値を少しでも高めようとする「わたし」だ。戦後、平和で自由になったはずの世界にあって、多くの人がこうした社会の仕組みからこぼれ落ちてきた。社会のあり方を問い、自らの存在の不確かさを克服しようとした多くの若者たちが、かつてオウム真理教に答えを求め、自らの居場所を見出そうとした。その時社会は、彼らを、洗脳され狂気を帯びた個人の集団として片付け、一連の現象を直視してその背景を充分に問うことをしなかった。
「わたしたちの資本主義」がマインドフルネスにも影響を与える
しかし今、そうした資本主義そのものが岐路に立っている。
2020年4月、「米企業、株主第一主義が大幅に軌道修正」という一文が、Covid-19関連で埋め尽くされるニュースの見出しに混じっていた。株主である資本家への利益還元ではなく、そこで働く社員やその家族はもとより、事業に関わるすべての利害関係者を考慮して振舞う「ステークホルダー資本主義」へと世界の企業は舵を切りつつある。ビジネスを中心とする人間活動が地球環境に与える影響が肥大化した結果、ビジネスはビジネスだけを考えていればよい時代は終わった。国際金融の第一人者である識者によると、世界の金融界も脱炭素へと大きく舵を切っているという。無限に拡大可能という前提に立ったスクラップ&ビルドの経済が終わり、有限な資源を上手にメンテナンスしながら活用するサステナブルな経済、サーキュラーエコノミーへと社会は移行しつつある。その担い手として先頭を切るのは、グレタさんをはじめとする若い世代だ。
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