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ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
前回に続き、21世紀に入ってから連載されたボクシング漫画『KATSU!』を取り上げますが、本作からは従来のあだち作品にはない家族像の変化が読み取れます。漫画家・あだち充の「父」的存在であり連載中に他界した兄・勉と、平成不況による家族構造の変化は物語にどのような影響を与えたのでしょうか?

碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第19回 ② 「ダメおやじ」の原型となった兄・あだち勉と父親の視線をめぐる物語としての『KATSU!』

あだち充作品における「父」の原型となった実父と兄

初めてボクシングをメインにした漫画『KATSU!』がそれまでのあだち充作品と違うのは、主人公の活樹とヒロインの香月の父親が共に元プロボクサーだったという部分だろう。活樹の父親は結婚前にはボクサーを辞めていてサラリーマンとして働いており、香月の父親はプロ引退後に自らボクシングジムを経営していた。
『タッチ』や『H2』では主人公の父親が会社をさぼって球場に応援にくるというお決まりのパターンがあった。また、あだち充作品の主人公の家庭は大抵の場合は父親がサラリーマンで母親が専業主婦、家は一戸建てでペットを飼っているというかつてのサラリーマン家庭だった。それは郊外の核家族を描いた代表作ともいえる『クレヨンしんちゃん』の野原家と同じである。しかし、『クレヨンしんちゃん』のアニメが始まった1992年時点ではまだありふれたものだった郊外のサラリーマン家庭は、時代を経ていくとともに若者が欲しくとも手に入らないものとなっていく。そのくらいに「失われた30年」で日本は貧しくなっていったのだ。

阪神・淡路大震災やオウムの地下鉄サリン事件が起きた戦後50年目となる1995年は、日本にとって大きな転換期となった。世紀末にノストラダムスの大予言は当たらなかったものの、ゼロ年代以降にはバブル崩壊後の就職氷河期世代が「ロスト・ジェネレーション」(1975-1979年生まれ)と呼ばれるようになった。その世代はバブル崩壊の余波や社会的な環境の変化も大きく影響し正社員になれずに契約社員になった者も多かった。その後、2010年代後期になってから内閣官房による就職支援プログラムなどが始まったが、遅きに失している印象がある。なにもかもが遅すぎた。

新世紀が始まった2001年にはアメリカで同時多発テロが起きたことによりイラク戦争が始まり、2008年には「リーマン・ショック」が起きて連鎖的に世界規模の金融危機が起きた。もちろん日本もその影響を大きく受けることになった。そのことで契約社員やバイトだったロスト・ジェネレーションの世代の人間はそのままの雇用形態が続くことになり、低賃金であったり年齢的に親の介護問題なども出てきたりしたことで、結婚や出産を諦める者も増えていく。そうした背景に加え、ゼロ年代初頭の堀江貴文のライブドア事件などで起業して新しいイノベーションを起こそうという気概が失われたことも影響してか、彼らの下の世代以降では正社員となって定年になるまで同じ会社で働きたいという願望が上の世代よりも強くなり、かつての「昭和」的なサラリーマン家庭への願望が強くなっていく傾向もみられた。

こうした経緯によって、ゼロ年代、10年代も過ぎた2021年現在では、野原家のような家庭環境はありふれたものではなく、ある種、憧れの対象に変わってしまったのである。そして、同様にあだちが描き続けてきたのは戦後の復興後の「昭和」的なサラリーマン家庭がベースになっており、あだち作品における主人公の家庭環境の描写はある時期を除いては大きく変わっていない。あだち充作品を代表するそれぞれのディケイドの野球漫画を例にあげてみよう。

1980年代の『タッチ』ではサラリーマンの父と専業主婦の母、一戸建てに住んでいて犬のペット(パンチ)を飼っている。
1990年代の『H2』ではサラリーマンの父と専業主婦の母、一戸建てに住んでいて犬のペット(パンチ)を飼っている。
ゼロ年代の『クロスゲーム』ではスポーツ用品店を経営する父と店を手伝う母、店舗兼住宅に住んでいてペットは飼ってない。
2010年代の『MIX』では再婚同士のサラリーマンの父と専業主婦の母、一戸建てに住んでいて犬のペット(パンチ)を飼っている。

このように4つの代表作を並べてみるとゼロ年代の『クロスゲーム』だけが他の作品と違う設定になっているのがわかる。『クロスゲーム』のひとつ前の連載作品だった『KATSU!』は先程書いたように、主人公の父親はサラリーマンだったが、ヒロインの父親はボクシングジムの経営者という設定だった。
ゼロ年代という新しい世紀に入ってから、それまでの「昭和」的な価値観や社会システムが崩れていく中であだち充の漫画もそれを反映するかのように、この時期は「昭和」的なサラリーマン家庭の設定が揺らぎ始めていた。
次作『クロスゲーム』では主人公もヒロインの両親も共に店を自営している設定になり、サラリーマン家庭ではなくなった。また、『KATSU!』の主人公の父親である里山八五郎は勤めていた会社の社長が夜逃げによって会社が倒産したことで、息子の活樹の高校ボクシング部の顧問を引き受けることになった。この時点ではすでに「昭和」的なサラリーマン家庭を描くことを一度諦めている。
だが、2012年から連載が始まった『MIX』では『タッチ』や『H2』といった昭和後期と平成前期にはまだ一般的だった「昭和」的サラリーマン家庭を復活させている。『MIX』がタイトルのようにあだち充作品のリミックスであり集大成となる最後の「少年漫画」だからだ。そのため、あだち充作品と言えば多くの読者が思い浮かべる「昭和」的なサラリーマン家庭を描くことになったのだろう。そこには年長世代にとってのかつての原風景やノスタルジーを換気させるものがあり、同時に若い世代が抱く憧れとしての家庭環境にもなっている。
若い女性が専業主婦になって夫やパートナーに養われたいという願望が以前よりも強くなっているとニュースや記事を見ることがあるが、実際には正社員であっても男女の賃金格差があり、女性の非正規雇用の割合が高いという現実がある。正確には専業主婦になりたいというよりも、日本社会における男女の雇用問題がかつての「昭和」的なサラリーマン家庭がモデルのままで大部分では続いてしまっているため、女性の自立を妨げているという背景がある。そして、「平成」を通して続いた不況の影響とその変わらない社会構造への諦めも含めた専業主婦願望の高まりがあるのではないだろうか。

話を戻すとあだち充は「少年漫画」の書き手として読者の大多数が当てはまりやすい「昭和」的なサラリーマン家庭を描くことで読者を増やしていった部分がある。そのほうが物語に没入しやすいからだ。そこにはあだち充自身の家庭環境は反映されていない。反映されているのは酒飲みでダメな親父という部分ぐらいであり、彼自身は安定したサラリーマン家庭で育ったわけではなかった。あだち充自身の家庭環境がどうだったかと言うと、インタビューで実父についてこのように語っている。

群馬県人って、幕末でさえ何もやってないですから。時代を変えようって人が出てこない土地柄なんです。とりあえず賽の目暮らしが性に合ってるから、あそこで天下を語る人なんかいないでしょう。男はとりあえず博打。だから女房が働いてる家が多かった。だいたいがカカア天下で、奥さんがちゃんとしていないと家が潰れてしまう。〔参考文献1〕
 親父の甲斐性がなくてやたらと引っ越してたから、生まれた家の記憶はほとんどないんだよね。
(中略)
 親父はその頃は会社に勤めてたけど、勤める会社がいつも潰れてた気がする。詳しい話は聞いたことないんだけど。
 だからおふくろも和裁の仕事とか、いろんなことをやってましたね。でも周りもみんな貧乏だったから、まったく気にしてなかった。〔参考文献1〕

このことからあだち充作品に出てくるサラリーマン家庭は実際の安達家とはほど遠いものであったことがわかる。そこに描かれていたのは、当時の漫画雑誌を読んでいる子供たちの典型的な家庭だったと言えるだろう。
安達家が一般的なサラリーマン家庭とはかなり違った環境だったことは、あだち充のインタビューや、兄の勉の描いた『実録あだち充物語』や勉の弟子だったありま猛による『あだち勉物語』にも描かれている。

充「あんちゃん、おれ…もうマンガかく自信なくしちゃった…」
勉「あにいうだ、充!! こんなことでくじけてどうすんだ!! ここでやめたら一生負け犬で終わっちまうんだぞ!!」
充「やだ! そんな人生やだよ!!」
勉「さあ、いつもの“いましめの言葉”を大声で叫ぼう!!」
勉&充「父ちゃんみたいになっちゃうぞ!!」〔参考文献2〕
証言・その2 偉大なマンガ家を二人も息子にもつ安達恵喜蔵
そりゃあ、おめ…なんだよ。父親つうのは、子供たちの鏡でなきゃいかんべよ。
勉にタケノコのかっぱらい方を教えてやったのも、このワシよ。
充に「人の家を訪ねる時はメシ時をねらえ!!」と教えたのも、このワシだ。
今じゃ、二人ともえらくなったもんで、ワシも鼻が高いで!! (談)〔参考文献2〕

安達家の子供たちは四人の兄弟で、出来の良かった長男の欣一は母のきよの姉が嫁いだ小山家に養子に出され、その下に次男の勉、長女の恵子、三男の充がいた。
小学五年生の充、中二の勉、二十歳の欣一、五十歳の恵喜蔵の四人で家族麻雀をさせられたことで無理やり麻雀を覚えさせられたというエピソードが『あだち勉物語』に描かれており、そのこともあって上京して漫画家になったあだち兄弟は赤塚プロなどの漫画家やアシスタントや編集者たちと麻雀をしても、とんでもなく強かったとありま猛に回想されている。兄の勉が師匠の赤塚不二夫と立川談志の立川流「芸能コース」で弟子入りした際につけられた名前は「立川雀鬼」だったというのもそれに由来している。
以前にも書いたように、あだち充はフリージャズ的な手法で漫画を描いているが、麻雀というツキと流れをたのしむゲームに幼い頃から慣れ親しんでいたことが、漫画家としての資質や物語展開にも影響を及ぼしているように思える。
『タッチ』における原田正平はとりえあえず出してみただけのキャラクターだったが、物語が進むたびに達也を鼓舞し、ナビゲーター的な役割を果たしていく重要な存在になったあたりは、麻雀でたまたま手元に来た牌を捨てずにそれを使って役を作っていく感じにも似ている。同様に手元にあっても使えないとなるとすぐに捨てるというのも出したキャラクターが使えないと次第に出なくなっていくことを彷彿させる。

あだち兄弟から漫画のネタにされる父は家ではいつも冷酒(ひや)を飲んでいて、家族で麻雀をしていていたようだ。だが、勉と充が大きくなっていくと彼らが同級生を家に連れてきて麻雀をするようになったことで、安達家は兄弟の友達のたまり場となっていく。父は彼らと一緒に麻雀をやりたがったが、ゲーム代を支払わなかったことで次第にハブられるようになっていったという。その辺りを聞くとあだち兄弟はわりと金銭にはシビアだったことが伺える。
父とは対照的な母のきよは、家庭が裕福でなかったものの毎月のように月刊誌『ぼくら』と『冒険王』を欠かさずに買ってきてくれていた。このことがあだち兄弟を漫画家にする大きな要因となった。昭和四十年代は学校などで「マンガなんか読んでるとバカになる」などと普通に言われていた時代であり、母の存在がなければ兄弟は漫画に触れ合う機会は少なくなっていただろう。それもあってか高校生になった頃には兄の勉は貸本漫画家としてデビューしていた。

高校生の勉は麻雀のたまったツケ代わりに全額出すからと同級生を東京へ連れていったが、平日だったこともあり補導されて浅草署に連れていかれた。その際に勉が当時の警察官の給料の何倍もの現金を持っていたので犯罪絡みかとも疑われたが、それは貸本漫画の原稿料として出版社から受け取っていたものだった。
このように安達家では、すでに高校生の勉が自分の手でしっかりと金を稼いでおり、勉のアシスタントをしていた充もアシスタント料としてお金をもらっていたので小遣いには不自由な思いをしなかった。その意味でもあだち充の一番最初の師匠は兄のあだち勉であり、その環境がデビュー時に「描きたいもの」がなく、「何でも」描けてしまう漫画家のあだち充を生み出していくことになったと言える。
あだち充が実際に自分の描きたいものを見つけて、手応えを感じるようになるのは「少年サンデー」を放逐されて、「少女コミック」に活動の場所を移してからとなる。その時も焦らずに漫画を描いていたのは、いい流れが来るのを待っていればいいという考えがあったからかもしれない。


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