今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。いよいよ本編第一章に入る今回は、萩尾望都による3作品に焦点を当てます。母娘問題を描いた作品として代表的な『イグアナの娘』、母と娘の愛着を描いた『由良の門を』そして「弱い母」による呪いを描いた『残酷な神が支配する』。萩尾望都が「母の呪い」をどう描いてきたのかに迫ります。
三宅香帆 母と娘の物語
第一章 萩尾望都──ゆるしたい娘
1.『イグアナの娘』と共有されるコンプレックス
萩尾望都の「母と娘」の物語といえば、真っ先に挙げられるのは『イグアナの娘』(1992、小学館)かもしれない。
わずか50ページの短編漫画なのだが、おそらく今も日本の母娘について語るとしたら真っ先に挙げられる作品だろう。
物語は、「イグアナの姫」が魔法使いのもとを訪ねる場面から始まる。イグアナ姫は、人間の王子様に恋をしたので、自分を人間の女の子にしてほしいと頼む。魔法使いはそれを受諾し、「ただし……」と呟く。
そして舞台は日本の病院に。そこで母親が産んだ娘は、人間の赤ちゃんではなく、なんとイグアナの姿をしていた。
どうやら周囲の人々には普通の赤ちゃんに見えるのだが、母親にはイグアナにしか見えない。叫び声をあげ、母親は「こんなトカゲにしか見えない子が自分の娘なんて」「神様、普通の女の子を授けて!」と願う。
第二子は願いどおり、ちゃんと可愛い人間の娘が産まれてきた。
母親にだけイグアナに見える長女リカと、かわいらしい女の子に育った妹マミ。ふたりを比べリカを卑下する母の影響で、リカもまた、卑屈な想いを抱えて育つ。ある日「あの子はガラパゴスのイグアナだ」と母が言うのを聞いたリカは、「あたしイグアナだからみにくいの?」と言うようになる。
母に全く褒められずに育ったリカは成長し、美人で勉強もできる娘に育つ。そして信頼できる男性に出会い、大学卒業とともに結婚する。
母と離れて暮らし、リカは娘を産む。産まれた娘は、イグアナの自分とは違って人間の姿をしており、そしてどことなく母と似ていた。その事実にリカは少しぞっとする。
そんな折、突然、母の訃報が届いた。
リカはちっとも悲しくならない自分にショックを受けるが、さらに驚いたのが、亡くなった母の顔がイグアナそのものだったことだ。「自分にそっくりだ」と驚くリカに、あなたとお母さんはよく似ていたのよと親戚は諭す。
そしてリカはある夢を見る。
夢の中で、イグアナの姫が魔法使いに「人間にして」と頼んでいる。魔法使いは「王子様がおまえをイグアナだと気づいたら、おまえのもとを去っていくよ」と忠告する。イグアナの姫は微笑む。
「わたし絶対気づかれないわ イグアナだったことなんて忘れて 人間として生きるわ」
リカはそれが、母の姿だと気づく。そして思う。イグアナから人間になって幸福だったはずのお母さんは、絶対に正体を知られたくなかっただろうに、自分が産まれたときどう思ったのだろうか、と。
「お母さん わたしを産んで愛せなかったでしょ 愛せなくて苦しかったでしょ」
夢から覚めたリカは、そう気づき、涙を流す。
「あたしもまた苦しかった 母に好かれたくて……でも嫌われて…… 母を愛したくて……でも愛せなくて……」
この物語について、斎藤環(2008)は「正面から日本の母を取り上げた作品で、ある意味最も成功した母殺しにして、母を赦す話でもあります」[1]と述べる。
しかし、はたして本当にリカは母殺しに成功しているのだろうか?
たしかに『イグアナの娘』を読んで、「娘が母と和解した(=母を殺すことに成功した)話」と思う人は多いかもしれない。しかしこの物語が、もし本当に娘と母の和解話ならば、たとえばリカの見た夢は「母が夢の中で現れ、『あなたがイグアナなんて嘘よ、イグアナなんて呪いをかけてごめんなさい』と謝る」くらいのものになりそうではないだろうか。つまり、母からかけられた「自分はイグアナだ」という呪いは、解かれて終わるべきではないか。
しかし、最後までリカはイグアナだ。母のことを赦したように見えるラストシーンすら、リカも、そして母もまた、イグアナの姿なのである。
ラストシーンのコマにおいて、リカの姿は人間のシルエットになる。しかしそれでも、彼女は自分のことをイグアナだと思ったままだ。そして川のなかを泳いでいる小さなイグアナは、母の姿だろう。母もリカも、自分の「本当の姿」がイグアナであるという認識は、物語の最後まで変わらないのだ。
ここに、萩尾望都が描いた母娘問題の葛藤が見える。
つまり、たとえ母が死んでも、本当の意味での母殺しは難しい。母からかけられたコンプレックスの呪いを、娘はまったく手放せていないからだ。
「イグアナであること」は、何かしらのコンプレックスの比喩だ。『イグアナの娘』とは、娘が母から投影されたコンプレックスを手放せないまま、「母もまた自分と同じコンプレックスを持っていたが抑圧しており、それゆえに自分を愛さなかったのだ」と理解することで、母をゆるそうとする物語である。娘は、母と「イグアナという困難」を共有することで、母をゆるしてしまう。
イグアナという比喩が指すコンプレックスの正体は、姉リカと妹マミが比べられていたものを見れば一目瞭然だ。ピンクが似合うこと、声がかわいいこと、学校の準備がささっとできること、お手伝いをちゃんとできること。それは「王子様から好かれるため」に必要な容姿であり、女らしさのことである。
しかし難しいのは、リカもリカの母も、幸せな結婚をして異性から愛されても、容姿へのコンプレックスが消えないことだ。むしろ結婚した母は、普段は忘れようと抑圧している分、余計にそれを思い出させる娘を嫌悪する。
だとするとやはり、リカが「自分はイグアナではない」と言うことが、そのコンプレックスの投影を断ち切ることが、本当の母殺しではないだろうか。
萩尾望都の『イグアナの娘』は、こんなにも卓越した物語でありながら、「自分はイグアナである」というそのスタート地点をまったく疑っていないところが、特徴的ですらある。
イグアナなんて、母に植え付けられた嘘なのである。それは、損ねられた自己肯定感と言ってもいい。
斎藤氏の言うように本当に母殺しが達成されるならば、本編のようにイグアナという傷を共有することで横並びに立つのではなく。イグアナという傷を捨て、母からの呪いを断つべきだろう。娘は「もう、私はイグアナじゃない」と言っていいのだ。
しかし、『イグアナの娘』はその方向性を描かない。
ただ母は娘にイグアナという傷を分け与える。その傷の呪いがかかったまま、娘は母をゆるす。それが、萩尾望都の描く母娘の葛藤の終着点だった。
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