アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第22回。
前回の『もののけ姫』に続き、宮崎駿監督の新境地を見せた国民的ヒット作『千と千尋の神隠し』を振り返ります。長らく日本での映画興行収入記録のトップを誇り続けた本作が開花させた「ポストモダン」ならではの解放とは?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法
第22回 「ポストモダン」が生んだ想像力 -『千と千尋の神隠し』
今回は前回に引き続き、宮崎御大の作品を取り上げようと思う。彼個人の中での「モダニズム」から「ポストモダン」への移行にさらに注目し、細かく読み解けば、アニメの現状を打開する策があるかも、と思ったからだ。
かつ、前回はかなりネガティブな締め方をしてしまい、このままでは僕自身がアニメそのものに希望を見失ってしまう、そんな危機感を抱き、そういう意味でも、アニメ界において大きな分水嶺となった『もののけ姫』(1997)の次に生み出されたこの『千と千尋の神隠し』(2001)はどういう意味があるのか、改めてじっくり考えてみようと思う。
実はこの作品、僕は計3回ほどしか観ていない。『もののけ姫』は卒論を書くためもあるが、封切直後劇場に通っただけでも13回を数えるのに、だ。それくらい、ある意味本作を軽視し続けていたことは確かだ。
さて、議論を前回と接続するため、アニメの「モダニズム」崩壊の契機と僕が推測した、制作現場のガバナンス・マネジメントの問題から切り込んでいこう。
『もののけ姫』を作り終えたスタジオジブリは、続いてすぐさま『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)の制作を開始した。しかし、これがとんでもなかった。
高畑勲の要求に現場が耐え切れず、悲鳴を上げたのだ。
「お金もかかりますし、締め切りを守らないということもありますが、問題は作り方。まわりの人間を尊重するということがない人なんで、スタッフがみんなボロボロになる」「おまけに、ジブリはこうやって作るんだという、これまで培ってきたスタイルにまで手をつける。自分で作った方法論を否定して、新たに作り直す。創造と破壊と再生。スタッフは次々に倒れ、消えていきました」
それを知った宮崎駿氏は「鈴木さん、どうなってるんだ!」と激怒していたという。(文春オンライン「『なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか』──鈴木敏夫が語る高畑勲#1」)
思えば高畑も、宮崎同様に時代の節目を感じていたように思える。二人は共に東映動画の労働運動を戦った仲であり、共産主義者であった。故にソ連崩壊は高畑にとっても相当堪えたに違いない。
そんな彼はこの頃から、セルアニメの否定を盛んに口にし出している。
詳しくは叶精二氏の「『かぐや姫の物語』作品論 「弁証法の人」高畑勲監督の到達点」(参照)などを参照にしてもらいたいのだが、ここに来て、高畑に一種の踏ん切りができたのではないかと思えるのだ。
「もう共産主義は泡と消えた。ならば、宮さん(宮崎)と自分主導でずっと共産主義的コミュニティとしてやってきたスタジオジブリがなくなるのも時間の問題だろう、じゃあもういい、好き勝手やらせてもらおうじゃないか!」
そんな思いが高畑の胸を過ぎったかどうかは確かめようがないが、僕はさもありなんだと思う。
つまりもう、ヤケだったのだ。
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