国際コンサルタントの佐藤翔さんによる連載「インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち」。新興国や周縁国に暮らす人々の経済活動を支える場である非正規市場(インフォーマルマーケット)の実態を地域ごとにリポートしながら、グローバル資本主義のもうひとつの姿を浮き彫りにしていきます。
今回は、有史以来さまざまな文化圏が交錯してきた地中海の東側・イスラエルのITスタートアップたちが跳梁するオンラインの非合法市場「ダウンロード・バレー」と、西側・モロッコ最大のインフォーマルマーケット「デルブガレフ」を紹介します。片やハイテク中のハイテクでグローバルビジネスを展開、片やローテクの掘っ立て小屋で北アフリカのIT産業の裾野を広げている二つの「バレー」の実態に迫ります。
佐藤翔 インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち
第4回 イスラエルのダウンロード・バレーとモロッコのデルブガレフ・バレー 地中海インフォーマル経済とイノベーション|佐藤翔
地中海におけるヒト・モノ・カネの移動
ヨーロッパ大陸とアジア・アフリカ大陸に挟まれた地中海。前近代にはバルバリア海賊が幅を利かせていたこともある海です。16世紀には当時の「後進国」イギリス商人が、スペインやイタリアのような当時の「先進国」の商品と偽るために偽物の焼き印(ブランド)などを使って、自国の低品質な商品をマーケットに流す「海賊版ビジネス」を行っていました。現代では国ごとの役回りが変わりこそすれども、地中海がインフォーマルな経済の舞台となっていることに変わりはありません。
現代においては、北岸のヨーロッパ大陸と南岸・東岸のアジア・アフリカ大陸との間に大きな経済格差があります。そのため、ボートや粗末な船を用いてアフリカや中近東からヨーロッパへ密航しようとする人々が後を絶たない状況になっています。このことは、シリアやリビアの政情不安に伴う難民増加により、世界的にもよく知られるようになりました。
一方、ヨーロッパで売られている最新の商品は、アフリカや中近東で暮らす人々にとって魅力的なものであり、北から南に多くの商品が正規・非正規を問わず、人知れず様々な形で流入しています。ヒトは南から北に、モノは北から南に、というのが現代地中海のインフォーマルビジネスの大まかな構造と言えるように思います。
もっとも、これはあくまで単純な図式化に過ぎません。実際には、アフリカにおいてもショッピングモールに代表されるようなフォーマルマーケットが一定の機能を果たしているように、西ヨーロッパの「先進国」にもインフォーマルマーケットはあります。西ヨーロッパでも色々な地域、とりわけ国境沿いなどにおいては、インフォーマルマーケットは現代でも見えにくい形で存在するのです。
フランス・パリ北東部にはサントゥーアンやモントルイユという著名な蚤市があります。この蚤市は許可証をもらってビジネスをしているフリーマーケットが中心部にある一方で、その周辺には許可証を持たずに警察の目などを避けて流動的に商売をしている、よりインフォーマルな商人もおり、フランスでは“biffins(日本語で言えば「くず屋」)”と呼ばれています。彼らは独自の組合を作り、社会的認知の向上のために色々な活動をしているようです。
▲パリのインフォーマルマーケット商人連盟、Ameliorの公式ページに掲載されている写真。(出典)
また、スペインのカタルーニャ州ジローナ県のフランスとの国境沿いにあるEls Limitsという村は、アメリカ通商代表部の悪質市場リスト2019年版まで掲載されていました。スペイン政府当局の努力ゆえか、はたまたコロナにより国境沿いの街から客足が遠のいただけか、2020年版ではリストから削除されました。
他にも、イタリア南部のシチリア島東岸では、アラブ起源の隊商文化が馬などから車に形を変えて残っており、スーパーなど近代小売が発達している現代においても、地元の主婦の日用品購入に欠かせない存在になっているとされています。これらの例が示すように、現代において、西ヨーロッパのような「先進国」においてさえも、インフォーマルマーケットの存在を消し去ることができないのは興味深い事実です。
ただそうは言っても、21世紀において、インフォーマルマーケットがより生々しく、より人々の生活に即した形で力強く存在するのは地中海のヨーロッパ側よりもアジア・アフリカ側です。チュニジアのブマンディル・マーケット、レバノンのミンゲイ・マーケット、トルコのシリア国境近く、ガジアンテップにあるイラニアン・バザールなどなど、多種多様なインフォーマルマーケットが花咲いています。その中でも強烈な存在感を誇るのがモロッコのデルブガレフです。
また、オンラインのインフォーマルマーケットという点で見ると、イスラエルの起業家たちの「活躍」が目につきます。そこで今回は地中海に数あるインフォーマルマーケットの中でも、東側、イスラエルにおけるオンラインのインフォーマルマーケットと、地中海の西側、モロッコにおけるオフラインのインフォーマルマーケットを順番に見ていきたいと思います。
イスラエル軍OBがアラブ人スタートアップを支援?
イスラエルのIT産業には近年世界的な注目が集まっています。イスラエルのIT産業隆盛の一因として、イスラエルの徴兵制度と、それによって築かれた人脈の存在がしばしば挙げられます。軍隊時代の先輩が後輩を自分の作ったスタートアップに芋づる式に採用し、軍人時代に培ったチームワークを元に企業を成長させていった、というわけです。特に元8200部隊やタルピオットなど、エリート部隊のネットワークはイスラエルIT産業のインナーサークルの中で重要な役割を果たしていると言われています。
最近では、こうした起業家ネットワークを生かして、ユダヤ人だけではなくイスラエルのマイノリティであるアラブ系にもIT起業を広げる試みがなされています。例えば、イスラエルに住むアラブ人の起業したカジュアルゲームの会社で、Obscure Gamesという会社があります。彼らが作っているのは、最近イスラエルでも多く出てきたハイパーカジュアルゲーム、つまりデジタル広告のネットワーク(アドテク)を前提にしたきわめてシンプルなゲーム内容のゲームです。
▲Obscure gamesの公式サイトより。(出典)
この会社はHybridというイスラエルのアクセラレーター(インキュベーションプログラムの一種)によって支援を受けていますが、このHybridはウェブページにはっきりと書かれている通り、イスラエル軍の著名な諜報機関である、8200部隊所属経験者がアラブ系スタートアップの育成を目的として創設したものです。イスラエルでは労働を拒否するユダヤ教超正統派とともに、アラブ系(主にパレスチナ人)の就業率の低さが課題となっており、一方でイスラエルにおけるIT人材の人件費高騰の中、人材のパイを少しでも広げていくことを目的にアラブ系の起業支援にも目を向け始めているということなのでしょう。
▲アクセラレーションプログラム、Hybridのページ上に掲載されている8200部隊所属経験者同窓会のマーク。(出典)
ただ、イスラエルという国の性格上、軍事活動や諜報活動の重要性が強いとはいえ、軍隊の仕組みや諜報活動だけがイスラエルのスタートアップ隆盛の原因ではありません。軍事・諜報活動だけがスタートアップ隆盛の主因であるならば、先軍政治を掲げる北朝鮮がIT先進国であっても良さそうなものです。昔はアルファ碁が出てくるまで世界最強だった囲碁AIソフト、最近では仮想通貨取引所のハッキング、ゲーム業界で言えば欧州ゲームタイトルの外注など、興味深い活動がまったくないとは言いませんが、北朝鮮が全体で見てIT産業で進んでいる国とはちょっと言えませんよね。
一国における産業の発達には、様々な要因が絡んでいます。産業が成長する中では、フォーマルな部分とインフォーマルな部分の境目を突っ切るかたちで成長を目指そうとする企業が多数出てきますが、イスラエルのIT産業はそうした意味でも興味深い要素を持っています。本稿では、インフォーマルビジネスの観点から、イスラエルのIT産業の発達の要因を考えたいと思います。
シリコン・ワディとダウンロード・バレー
イスラエルのIT産業が1990年代に急速に発展していく重要な要因となったのが、冷戦終了にともなう東側諸国からの移民増加です。ソ連崩壊に伴い、旧ソ連圏からロシア系ユダヤ人が100万人近くイスラエルに移住してきました。ユダヤ系でありさえすれば、アメリカのような国よりも移住が容易だったからです。新しい移民のため、イスラエル政府は失業対策を進めざるを得なくなりました。その結果として、当時世界的な市場規模が拡大しつつあったIT産業の起業振興が急速に推し進められたのです。1993年には、官民出資のベンチャーキャピタル、ヨズマが創設され、イスラエルのスタートアップへの出資体制が整えられました。ロシア系ユダヤ人の多くはソ連で優れた工学教育を受けており、3人に1人が科学者、エンジニアもしくは技術職に就いていましたが、こうした政策は彼らの持っている知識や技能によくマッチしました。
イスラエルのビジネスの特徴は産業面・市場面双方における国際性の高さです。イスラエルの人口は少ないため、グローバル市場を念頭においたITサービスが発展していきました。企業が成長すると、投資家が集中するアメリカに本社を移し、イスラエルにはR&Dセンターだけを置く、という会社が多く出てきました。アメリカのベイエリアのIT起業と話をする際に、社長がイスラエルのテルアビブ出身、というパターンを、私もこれまでかなりの数目にしてきました。
さらに、イスラエルでエンジニアの人件費が高騰するようになると、開発をロシアやウクライナ、ベラルーシといった旧ソ連圏に外注するようになりました。この地域からの移民を多く受け入れたイスラエルの企業にとっては、人的ネットワークの深耕が容易な地域であり、また時差が少ないため一緒に仕事をしやすいのも彼らにとって利点となっています。このような起業環境において、アメリカやヨーロッパのIT企業が進出していないニッチな分野で大きな成功を収める企業が多数登場するようになり、イスラエルは中東版シリコンバレー、「シリコン・ワディ」と呼ばれるようになったのです(ワディとは中東で良く見られる枯れ川のこと)。
▲シリコン・ワディを紹介するポスター。(出典)
ゲーム業界に近いところで言えば、アイテム課金型のカジノゲームであるソーシャルカジノなどの分野で、Playtikaなどの有力企業が多く登場しています。他にもサイバーセキュリティや自動運転などの分野でアメリカなどの投資家の出資を受け、成長する企業がいくつも出てきています。
このような華々しい成果を上げる企業が続出する一方で、テルアビブのIT産業はもう一つの異名を持っていました。それは「ダウンロード・バレー」です。イスラエルでは2000年代まで、ブラウザ・ハイジャッカーやアドウェアなどのマルウェアにより、ネットユーザーを特定サイトに誘導することで、視聴数やダウンロード数を稼ぎ、大きな広告収入を得るビジネスが大きく発達したのです。その中でも有名だったのがツールバービジネスです。
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