今朝のメルマガは、現在先行発売中の成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けします。今回は本書の表紙を飾る女優・のんさん主演の2013年の作品『あまちゃん』をめぐる論考の一部を特別無料公開!
クドカン初の朝ドラであり、社会現象を巻き起こした本作は「震災」という厳しい現実に対して、時に不謹慎だと言われかねない「笑い」を巧みに折り込み、虚構の力で打ち勝とうとした力作でした。
2013年の『あまちゃん』
連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『あまちゃん』は、宮藤がはじめてNHKで手掛けたドラマだ。チーフ演出は井上剛、チーフ・プロデューサーは訓覇圭。後に『いだてん』を手掛けるスーパーチームの第1作である。
伝統ある朝ドラで、ドラマの王道を目指してみたい。明るく朝が迎えられる喜劇はどうか。作為的に笑わせるのではなく、自然に笑えて楽しい気持ちになれる、たとえば「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」のような古きよき喜劇を──(1)
そんなコンセプトを考えた訓覇は、直感的にひらめき、宮藤に脚本執筆を依頼。構想を聞いた宮藤は関心を示し、「地方を描きたい。方言を書いてみたい」と語ったのが『あまちゃん』が生まれるきっかけだった。
▲『あまちゃん』
『あまちゃん』は、宮藤にとってはもちろん、日本のテレビドラマ史、そして2010年代のカルチャーシーンにおいて、最も重要な作品である。
放送当時、本作は多くの雑誌やウェブメディアで取り上げられ、Twitter等のSNSで多くの人々によって語られた。
批評の対象になりにくい(それは宮藤の作品とて例外ではない)テレビドラマにおいては例外的に、もっとも多くの日本人が饒舌に語った作品であることは間違いないだろう。
一つの映像作品がここまで多くの人々に語られ、熱狂的に消費されたカルチャームーブメントは、贔屓目に見てもアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)以来のことだろう。
『エヴァ』がその後、様々なカルチャーに多大な影響を与え、アニメの地位向上に貢献したように『あまちゃん』もまた、同じような文化運動としてドラマ史に名を残すだろうと当時は思っていた。
筆者がリアルタイムで『あまちゃん』をどのように受け止めたかについては『あまちゃん』放送と同じ年に出版された拙著『キャラクタードラマの誕生』の中で大きく取り上げているので、そちらを参照いただきたい。そもそも、同書の企画が通ったこと自体が『あまちゃん』ブームの産物であり、放送当時の盛り上がりがなければ、ドラマ評論家としての今の自分はなかっただろう。その意味でも思い入れの深い作品で、その魅力については語り出したらキリがないのだが、2020年現在、この作品を振り返ることは、とても苦しい。
物語を背負っていない主人公・天野アキ
岩手県にある架空の町・北三陸市。2008年に42歳の天野春子(小泉今日子)が娘のアキ(能年玲奈)を連れて帰省するところから物語ははじまる。
春子はアイドルになるために1984年に家出をして東京に向かい、そこで夢に破れた後もタクシー運転手の黒川正宗(尾美としのり)と結婚して東京で暮らしていた。しかし会話のない家庭と暗い娘にうんざりして離婚しようとしていた。そんな時に地元で駅員として働く幼馴染の大向大吉(杉本哲太)から、夏ばっぱこと、母の天野夏(宮本信子)が倒れたとメールが届き、24年ぶりに帰省することとなったのだ。
しかし、夏ばっぱは元気。メールは大吉の嘘で、春子を後継者不足に悩む「北の海女」として復帰させるために仕組んだことだった。怒った春子は、東京に帰ろうとするのだが、電車は一時間に一本しかなく、最終電車にも乗り遅れてしまう。行く場所もなく狭い町をぐるぐると彷徨う春子。一方、アキは夏ばっぱたち北三陸の人々と仲良くなり、やがて海女の仕事をやってみたいと思うようになる。
第1週を見返して驚くのは、主人公のアキの存在感のなさだ。
物語の中心にあるのは明らかに春子と夏の関係と、彼らを取り巻く北三陸の人々で、今までのクドカンドラマ同様、濃密かつ辛辣である。
春子が帰ってきたことはすぐに町中に知れ渡るのだが、誰もが春子がアイドルとして挫折したことや夏と不仲であることを知っている。
一方、大吉は北三陸の惨状を以下のように語る。
大吉「見でみろ、人っこ一人歩いてねえべ、車ぁびゅんびゅん走ってんのによ、これがモータリゼーションの実情よ」
アキ「も、もーたり?」
大吉「モータリゼーション、車があれば電車だの要らねって考え方な、おがげでほれ、商店街は廃れでシャッター通りだ。みんな郊外の大型店さ行ぐがら。マイカーでな。……ほれ!(指差し)あそごに100円ショップあったべ?」
春子「知らない」
大吉「春ちゃんが高校生の頃ぁまだジーンズショップだったが(笑)潰れでカラオケボックスになって、それも潰れでビデオ屋になって、まだ潰れで回転寿司になって潰れで100円ショップになって潰れだ……(しみじみ)100円ショップが潰れだらぁ、町はおしまいだじゃ〜」(2)
北川悦吏子が脚本を担当した朝ドラ『半分、青い。』(NHK、2018年)で、漫画家の夢に破れたヒロインの楡野鈴愛(永野芽郁)が、28歳でフリーターになった時に働いていたのが100円ショップだった。時代は1999年。バブル崩壊後に到来したデフレ時代の幕開けを100円ショップに象徴させた見せ方だったが、『あまちゃん』の舞台である北三陸は2008年の時点で100円ショップが潰れるほど廃れていた。
これまで宮藤が描いてきたのは、東京や千葉県の木更津といった郊外で、北三陸のような田舎のうらぶれた風景は、『熊沢パンキース』や『鈍獣』といった舞台劇で描いていたものだ。
この2作には宮藤の中にある田舎に対する愛憎や、東京と地方の落差に対する鬱屈が強く現れている。『木更津』は、同じモチーフを扱っていてもテレビで放送されるアイドルドラマという枠組みゆえに、ややマイルドな表現となっていた。
対して『あまちゃん』は「明るく楽しい朝ドラ」という外枠がしっかりしているからこそ、宮藤の中にある田舎に対する愛憎が強く現れており、シナリオで読むとかなり辛辣だ。
その意味でも、春子と北三陸の人々とのやりとりは、今までのクドカンドラマの流れを汲むものだが、主人公のアキだけが異色の存在である。
アキは、海女として潜っている夏ばっぱの姿を見て、海女になりたいと思うようになる。序盤はそんなアキが、海女になってウニを取れるようになるまでの姿を丁寧に描いている。
やがて夏休みが終わり、海に潜れなくなると南部もぐりに興味を持って潜水土木科へ編入。かと思うとアイドルを目指す足立ユイ(橋本愛)といっしょにアイドルユニット・潮騒のメモリーズを結成し、二人でアイドルになるために東京に向かおうとするが、ユイの父・功(平泉成)が倒れたため、アキは一人で東京に向かうことになる。紆余曲折の末、アキは東京でアイドルとして成功しかけるのだが、2011年3月11日の震災をきっかけに、地元に戻ることを選択する。
アキの夢や目標はその場その場で変化し、その度に母親の春子から説教されるのだが、この行き当たりばったりでその場その場で変わっていく自分のない姿こそを宮藤は肯定的に描いていた。
北三陸で海女になる前のアキは、私立高校に通っていたが、あまりの存在感のなさにクラスでは名前すらも覚えてもらえず、いじめられるほどの個性も存在感もなかった。
春子はアキのことを「地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もないパッとしない子」と言うのだが、そんなアキが夏ばっぱやユイに憧れ、模倣することで明るくなり、存在感が増していく姿を、本作は繰り返し描いていく。
そもそも、アキの物語自体が、母親の春子が辿った道をなぞっているという側面がある。冒頭の海女になるというのも春子の代わりであり、第13週以降の東京編もアキが合宿所で揉まれながらアイドルを目指す姿と、1984年に東京に向かった若き日の春子(有村架純)の物語が回想シーンとして同時進行で描かれる。
また、東京編では、上京しようとする度にトラブルに見舞われてしまうために心が折れて、アイドルの夢を諦め不良になってしまうユイの姿も描かれるのだが、強い物語性を感じるのは明らかにユイの方だ。
父親の介護に疲れた母親のよしえ(八木亜希子)が失踪したことで、ユイは不良になるのだが、そんなユイに寄り添ったのは(かつて同じように不良で、アイドルの夢に破れた)春子であり、この二人の方が、アキと春子よりも似ている。
その意味でアキ自身の内実に迫った物語は、ほとんど描かれておらず、後から身につけたインチキ方言と同様に、彼女自身のキャラクターや物語は、すべて誰かの物語を真似た借り物に見えてしまう。もちろん、先輩の種市浩一(福士蒼汰)との恋愛なども描かれてはいるのだが、振り返ってみると、その時の印象は淡白で、むしろユイとアキの関係の方が濃密なつながりとして描かれている。
アキの薄さは、春子や女優の鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)といった大人のキャラクターたちが背負っている物語があまりに濃すぎるからということもあるのだが、基本的にクドカンドラマが俳優に対するあて書きで作られていることと無関係ではないだろう。
特に芸能界が舞台となる『あまちゃん』はその傾向が顕著で、ユイを演じる橋本愛も映画『告白』(2010)以降、彼女が積み上げてきた人形のようなクールな美少女というイメージが投影されている。
後半は、そんなユイのキャラクターが崩れていく姿を見せることで、ユイの面白さ(と、ユイを演じる橋本愛の役者としての成長劇)を演出していたのだが、オーディションでアキに選ばれた能年玲奈には、そういったバックボーンが視聴者の側と共有されていなかったこともあり、無色透明なキャラクターとなったのだろう。
アキについて宮藤は以下のように語っている。
アキのことは、書き始めたときからずっと、誰かが演じる役としてではなく、実際にこういう女の子がいるんだという気持ちで書いているんです。今でも、僕は能年さん自身のことをよく知らないわけですが、最後まで知らないままでいいかも、と思っています。
お互い相談したりしないで、自然にアキという女の子ができ上がっていけば面白いと思います。(3)
アキは(宮藤には珍しく)あて書きではなかった。だが当時、バラエティ番組等で観た能年は声も小さくおっとりとしており、東京の高校に通っていた頃のアキのようであり、結果的に、あて書きに近いものになっていったように感じる。
能年は宮藤との会話で一番覚えているのは「心がない」と言われたことだと答えており、ラジオ番組で、もしも大人計画に能年が入るなら「能年空洞」だ、と言われたことを『NHK連続テレビ小説「あまちゃん」完全シナリオ集 第2部』(KADOKAWA)のあとがき「大人になっていく」の中で語っている。
「そんなことを言う宮藤さんの方が心がない!」と思ったと、能年は笑いながら答えているが、おそらく宮藤は「空っぽの器=アイドル」という意味で空洞という言葉を使ったのだろう。
また「心がない」というのは、確固たる自分がないからこそ(演技を通して)何者にでもなれると言っているようにも聞こえる。それはそのまま、成長しないヒロイン・アキの姿と重なる。
その意味でアキはRPG(ロールプレイングゲーム)の主人公のような、中身が空洞ゆえに視聴者が同一化できるキャラクターでもあり、彼女の目線を通して複雑怪奇なクドカンワールドに入っていくという構造を最初に打ち出せたからこそ『あまちゃん』は、今までのクドカンドラマとは違う幅広い層に受け入れられたと言えるだろう。
現実との答え合わせ
『あまちゃん』は過去のクドカンドラマの手法を踏襲しているのだが、以前よりも厚みを増したのは映像のリアリティだ。
極力、現実にある固有名詞や風景を用いるという手法はチーフ演出の井上剛を筆頭とするNHKのドラマスタッフの制作手法と相性がよく、1980年代の映像などは過去のアーカイブを使いやすいこともあってか、松田聖子や吉川晃司といったアイドルが実名で続々と登場し、台詞にも「聖子ちゃん」や「百恵ちゃん」といった言葉が何度も登場する。
逆に東京に舞台が移った2008年以降になると、登場するアイドルはアメ横女学院(以下、アメ女)やGMT48といった架空の存在になっていく。これも最初はAKB48を筆頭とする現在活躍するアイドルのパロディなのかと思いきや、台詞にはAKB48、モーニング娘。といった名前が登場するため、「え? 存在するの」と混乱してしまう。しかしこれは確信犯だと次第にわかってくる。
例えば、アメ女のプロデューサーの太巻こと荒巻太一(古田新太)は、登場した当初は秋元康のパロディに思えたが、劇中のナレーションで「秋元康にあこがれ、数々のアイドルを輩出する辣腕プロデューサー」とはっきり語られる。
つまり『あまちゃん』の世界には、太巻やアメ女と同じ時間軸で秋元康が存在するのだ。
GMTが北三陸を訪問した際にAKBと間違われる場面が台詞であったため、おそらくAKB48も存在するのだろう。このあたりは考えだしたらキリがないのだが、アメ女が国民投票を開催している時に、AKBも選抜総選挙を行っていたとすれば、太巻たちの芸能界における存在感はどのくらいのものなのか? という問題が浮上するのだが、このあたりの虚実の混濁もまた『あまちゃん』の重要なテーマだったのだろう。
シャドウとしての『あまちゃん』
『あまちゃん』には「影武者」と「シャドウ」というキーワードが繰り返し登場する。影武者とは、ウニがとれないアキの代わりにあんべちゃんこと、安部小百合(片桐はいり)がウニを取る姿を指して言われたもの(アキは落ち武者と間違えていたが)。
一方、シャドウとは、アメ女の正規メンバーがケガや急な体調不良、あるいはテレビの仕事が入って休む時の代わりに踊る「代役」のことだ。
アキはアメ女のセンターのマメりんこと有馬めぐ(足立梨花)のシャドウになるため、歌の振り付けを覚えることになるのだが、このシャドウ(影、偽者、身代わり)というモチーフが『あまちゃん』では繰り返し描かれる。
その最たるものが鈴鹿ひろ美の「潮騒のメモリー」を、実は春子が歌っていたという過去のエピソードだろう。
つまり春子は鈴鹿ひろ美のシャドウだったために、アイドルとしてデビューできなかったのだが、その呪い(のようなもの)を解くため、アキが母と同じ道を歩むという構造になっている。
言うまでもなくここでのアキは春子(そしてユイ)のシャドウである。そして劇中で描かれる架空のアイドル史の表には、AKB48、ももいろクローバーZ、Perfumeといった本物のアイドルたちが存在するのだ。
そもそもフィクション自体が、現実に対するシャドウだと言ってもいいのだが、『あまちゃん』はそのことに、とても自覚的な作品である。
これは宮藤だけでなく、チーフ演出の井上剛の資質によるところも大きいだろう。
2010年に井上は、阪神淡路大震災の時に子どもだった男女(演じるのは実際に当時、神戸市で被災した森山未來と佐藤江梨子)が15年後の震災の日に神戸で出会うドラマ『その街のこども』(脚本:渡辺あや)をNHK大阪で制作している。
本作はドキュメンタリータッチの単発ドラマだったが、その前年に井上は、森山未來を中心とした震災を題材にしたドキュメンタリー×ドラマ『未来は今 10years old,14years after』を手掛けている。つまり元々、井上はドキュメンタリー作家としての側面が強い演出家なのである。
ここに『サラリーマンNEO』(2006〜11年)等のコントバラエティを手掛けていた吉田照幸が参加し、大友良英の音楽が加わることで「ドキュメンタリー+コントバラエティ+歌謡ショー=朝ドラ」とでもいうような方程式で作られたドラマが『あまちゃん』だった。
実話を元にした作品を多く手掛ける井上は、映像を本物に近づけようと現実の風景を取り込むことに腐心し、細部を丁寧に作り込んでいった。その結果、アキというシャドウ(虚構)が、疲弊した田舎、アイドル、インターネット、テレビそして震災といった現実に立ち向かうという構造が『あまちゃん』に生まれた。
だからこそアイドルブーム真っ只中の2013年に、本物のアイドルに匹敵する熱狂を生んだのだろう。
ただ、現実に近いディテールが受けたことは、『あまちゃん』や後の朝ドラ、あるいはテレビドラマにとっては若干、不幸だったのではないかとも思う。
井上剛が得意とする現実の風景や商品を極力実名で登場させ忠実に再現していく手法は、最終的に視聴者を「現実との答え合わせ」を誘発する方向へと向かわせてしまったのだ。
『あまちゃん』においては、アイドルや震災の描写においてそれが起きたのだが、筆者も当時は『あまちゃん』におけるアイドルシーンの描写、ファンの描かれ方やライブハウスの盛り上がりの見せ方、CDや映画といった作品のメディア展開、そしてインターネットや動画メディアの使われ方が、どれだけ現実(のアイドルシーン)に近いかをチェックすることに血なまこになってしまい「現実とのズレ」を見つけると「ここはおかしい」と思って、話に入り込めないということが何度かあった。
こういった現実との誤差を指摘する視聴者は、他の朝ドラや大河ドラマにおける歴史解釈において頻繁に登場し、そのたびにSNSで話題となる。
実写作品も興味がない事柄に関しては、ドラマの素材だと割り切り、そこまでこだわらないのだが、ある程度知っているジャンルだと、どうしても目が厳しくなってしまう。
同じことは朝ドラの『なつぞら』(NHK、2019年)におけるアニメ史の描き方にも感じたのだが、〝現実の再現〞というアプローチは、あくまでドラマを支える一要素でしかないはずなのに、現在のドラマは、そこが物語以上に注目されてしまい、作品の評価と大きく直結してしまう。
その傾向はSNS時代になってより加速しており、その決定打となってしまったのが『あまちゃん』だったように感じる。
物語だからこそできること
おそらく『あまちゃん』は、シャドウ(虚構)が本物(現実)に勝つ、あるいは本体とシャドウが融和する姿をドラマの中で描こうとしていたのだろう。
その意味でシャドウとは、ユング心理学における人間の集合的無意識の中に見られる元型(アーキタイプ)の一つで、ありえたかもしれない半生や自分にとって許しがたい嫌な人間を表す「影」(シャドウ)という意味も含まれるのではないかと思う。
それがもっとも強く現れているのが、劇中に登場する若き日の春子、通称・ヤング春子である。
第101回。当初、回想シーンにのみ登場していたヤング春子だったが、アキがGMTをクビになりストレスがピークに達した時、夢の中に現れアキに語りかける。
『モテキ』の監督として知られる映像ディレクターの大根仁は、この場面を『あまちゃん』のベストシーンとして挙げている。
春子は死んでるわけじゃないんだけど、アキや太巻や鈴鹿ひろ美にとって若い春子はある種の亡霊というか生霊なんですよね。聖子ちゃんカットに赤いオープンシャツっていうのも絶妙ですよね。あのですね…岡田有希子なんですよね若い春子って。(4)
岡田有希子とは、1986年に飛び降り自殺をして亡くなったアイドルのことだが、この解釈は、あながち間違っていないのではないかと思う。
ヤング春子は『11人もいる!』におけるメグミのような存在だが、春子は生きているため幽霊ではない。強いて言えば大根の言うように生霊、もしくはアイドルになりたかった春子の残留思念のようなもので、願いが叶わなかったアイドルたちの夢の集合体だろう。
あるいは劇中で引用される映画『ゴーストバスターズ』風に言うと、アイドルの姿をした1980年代の亡霊と言えるかもしれない。
太巻にとってのヤング春子は罪悪感の象徴で、だからアキの中に彼女の幻影を見てしまう。大人になった春子や鈴鹿ひろ美も同じ体験を共有しており、だから最終的に鈴鹿ひろ美が「潮騒のメモリー」を自分の声で歌うことでそれぞれの罪悪感が浄化され、姿が見えなくなるのだ。
シャドウを筆頭に、今までのクドカンドラマにはなかったユング心理学で読み解きたくなるような神話的アプローチが多いことも『あまちゃん』の特徴だろう。
死と隣り合わせの海に潜ることでアキが新しい自分に生まれ変わる姿(1回目は夏ばっぱに押されて、2回目は自分で飛び込む)や、北三陸から出ようとするたびにトラブルが起きて地元から出られないユイといった反復されるモチーフはきわめて神話的で、物語を骨太なものとしている。
東京に向かった春子やアキが、最終的に北三陸に戻ってくるという構造もJ・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』(1937年)のサブタイトルにもある「ゆきて帰りし物語」を忠実になぞっている。「ゆきて帰りし物語」は、ファンタジー小説を筆頭とする冒険物語の基本構造で『スター・ウォーズ』(1977年〜)や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)といった映画や宮崎駿のアニメ映画『千と千尋の神隠し』(2001年)などにも反映されているものだ。
その意味でも歴代のクドカンドラマの中ではもっとも物語性が強く、普遍的な構造を獲得したと言えるだろう。
とはいえ、ここには宮藤なりのひねりも加えられている。東京生まれのアキにとっての北三陸は自分の意思で選択した田舎であり、ユイは逆に東京には行かない、ここから一歩も出ないと決めて「私に会いたければ、みんな北三陸に来ればいいんだもん!」と思うようになる。その後、GMTのアイドルや太巻、鈴鹿ひろ美といった東京にいた人たちが続々と北三陸に集結するようになる。このあたりは実に考え抜かれたバランス感覚であり、単純な東京批判、田舎(地元)賛美に陥っていないのが『あまちゃん』の強さである。
『あまちゃん』の中で描かれた震災
2008年からはじまり、1980年代と2000〜10年代を交差させながら進んできた『あまちゃん』だが、9月2日に放送された第133回で、2011年3月11日を迎え、やがて東日本大震災が起こる。
現実の再現に尽力してきた『あまちゃん』だが、震災を描く際には津波や原発事故のニュース映像は使用せず、あくまで東京にいるアキと北三陸にいるユイたちの日常風景の延長線上の出来事として描かれた。
代わりに効果的に使われたのが、第1回から登場していた北三陸のジオラマだ。地震でジオラマが崩れ、水が流れ込む姿を見せることで、視聴者に被害を想像させるものとなっていた。トンネルに閉じ込められたユイが大吉とともに見た風景も描かれず、逆にユイがショックを受ける顔のアップによって悲劇性が強調された。
このあたりの配慮は、視聴者にとって震災の記憶がまだまだ生々しかったことと無縁ではないだろう。逆に強調されるのは、震災以降に起きた空気の変化だ。
春子N(引用者注:ナレーション)「それからひと月余り経った4月29日、東北新幹線が運転を再開しました。耳慣れない言葉が飛び交っていました。節電。デモ。風評被害。自粛。就任。解任。そして絆」(5)
震災後、アキの主演映画「潮騒のメモリー」は、公開1週間で打ち切りとなる、レコーディングした同タイトルの主題歌もひっそりと売られていたが「よせては返す波のように」という歌詞が問題となり宣伝は自粛、アキの出演していた子ども向け番組も「見つけてこわそう」が不謹慎ということで「じぇじぇじぇのぎょぎょぎょ!」というタイトルに変わる。
節電営業をしているコンビニの店内でアキはなんとなく義援金ボックスにおつりを入れる。
そこに「世の中が、すっかり変わってしまった。3月10日まで、日々どんな気分で暮らしていたか、みな思い出せなくなっていました」というナレーションが入る。
種市に北三陸に帰りたいのか? と聞かれたアキは「わがんね」と答えた後、「帰ったがらってオラに何が出来るわげでねえし。なんも出来ねえのに帰っても迷惑だべ」と言った後「何しろ…被災地だもん」と口にする。
その後「テレビのニュースばっか見でるど、たまんなぐなる。なんだが北三陸で過ごした一年ちょっとの、楽しがったオラの思い出が、記憶が薄れで行ぐっていうが、塗り替えられで行ぐっていうが」と答えるのだが、アキが北三陸を「被災地」と言うことで、記憶が塗り替わりつつあるのがよくわかる場面だ。
悩んだ末に岩手に戻ったアキは地震の生々しい傷跡が残る町を見てショックを受ける。そして、誰も乗っていない電車の中で、もうあの日々は二度と戻らないんだと思う。
しかし、袖ヶ浜駅に到着すると駅のホームには溢れんばかりの人たちがいて、大吉たち北三陸の人々はアキを温かく向かえる。
久しぶりに会ったみんなを前にして、アキはこう思う。
春子N「みんなちっとも変わらない…そうアキは言いましたが、本当はちょっと変ったな、と思いました。うまく言えないけど、強さと明るさが増したというか、みな呑気に笑っているのではなく…笑っていられる事が嬉しくてたまらない、そんな笑顔でした」(6)
震災の描き方について、宮藤は雑誌「Cut No.325『あまちゃん』が日本の朝を変えてしまった」(2013年8月号)でのインタビューで、以下のように答えている。
東北でやると決まった時点で、『震災後を書きますか? 震災が来ない世界を書きますか? それとも震災を経て、人々がどうするかっていう話にしますか?』って、そのどれかを選ばなきゃいけなくて。
その時と今では、まったく気持ちが違うんですよ。最初は、やっぱりそれを書かないのは嘘だから、腹を決めて書くことにして(7)。
『あまちゃん』で震災の場面を書いたことで、震災に対する受け止め方はこの1年で大きく変わったと宮藤は語っている。そして震災の場面まで積み上げてきたキャラクターや物語が、自分が思っていたよりも揺るぎなかったと語る。
「週刊文春」のエッセイでも、このインタビューでも、宮藤は被災した宮城の友人たちが見せた愉快なエピソードを繰り返し語っている。こちらの心配をよそにたくましく生きる地元の友人たちの姿は、そのまま北三陸の人々の描写に反映されている。
宮藤は被災した同級生たちの姿を見て「意外と地震前とあんまり変ってないな」と思ったという。
なんかこう、重すぎない、軽すぎない。もちろん地震のことは、みんなの中に確実に残っていて、それをみんなでいる時には出さないんだけど、ふとした瞬間にその話になっちゃう、という感じで。だから、今の我々が日常で抱えている、背負っている、心の中にしこりとして残ってる、沈殿してるみたいな気分っていうのが、一番近いのかなって思いましたね。(8)
作家としての宮藤にとって、震災を描くことにはどのような意味があったのだろうか?
震災後に被災地に行き、ボランティアに参加したり、メッセージを作品に込めるということは「80年代に10代を過ごして、ビートたけしの洗礼を受けた人種にとって、本来もっとも不得意じゃないですか」「そんな宮藤官九郎ですら、被災地に行かざるを得なかったし、自分の作品に反映させざるを得なかった。っていう時の「これだけは避けてきたのに」って気分を、どう克服したのか知りたいんです」という質問に対して、宮藤は「そこに立ち向かって、それを題材に書いても、そこにも意地でもギャグ入れてやろう、っていう気持ちがあったかもわかんないですね」と答えている。
宮藤は、震災から1週間もしないうちに見にいった、立川志らくの独演会の時の経験を、以下のように語っている。
終わったあとに志らくさんが、『それではみなさんの身体が放射能に慣れた頃にまたやります』って言ったんですよ。お客さん、一瞬で緊張から開放されてドワッて笑ったんです。志らくさん、お客さんの、このタフさ、すごいなと思って。それはたぶん、立川談志、ビートたけしに心酔していた人たちの感覚ですよね。笑うように鍛えられてきたし、不謹慎だって言わないのもマナーだと教わって生きてきた。その感覚は絶対自分にもあるから。(9)
今までとは違うNHKの朝ドラという舞台で、時に不謹慎だと言われかねない笑いを日本中の視聴者に認めてもらうというハードルの高さに、ビビらなかったのか? という質問に対して「ビビってますよ、今も」と言いながらも、宮藤はこう答えている。
でも、そういう中で『あまちゃん』で何か言えることがあるとしたら……それでも人は笑いを求めるというか、それでも人は救いを求めるというか、希望を求める。それは時として不謹慎な言葉になったりすることがあっても、それでもやっぱり笑いたい、笑って元気になりたいんだよ、っていうことは、言えるんじゃないかなっていうか、言わなきゃいけないんじゃないかなって思って。(10)
改めて『あまちゃん』を観返して驚くのは、アキや春子の口の悪さで、ババアやブスといった言葉が何度も登場し、春子がアキを叩く場面もある。
当時は朝ドラということもあり、過去のクドカンドラマに比べるとマイルドな表現に抑えていると思っていたが、2020年の感覚で見ると、若干キツい表現である。
無論、こういったコミュニケーションは春子たちの親密さと信頼関係の裏返しだとわかるのだが、そういった感覚は年々通じなくなっているのが表現全般に感じることだ。
これは震災以前は問題なかった言葉が、不謹慎だと言われるようになっていく変化とも、シンクロしている。
言葉の裏側にある文脈がないがしろにされて自主規制へと向かう状況に宮藤は常に敏感で、だからこそ『あまちゃん』以降の作品では、ハラスメントや言葉の問題と向き合わざるをえなくなっていったのだろう。
(続く)
(1)『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 あまちゃんPart1』(NHK出版)「目指すはドラマの王道 古き良き人情喜劇 チーフ・プロデューサー 訓覇圭」(2)宮藤官九郎『NHK連続テレビ小説「あまちゃん」完全シナリオ集 第1部』(KADOKAWA)「第1回」より
(3)『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 あまちゃんPart1』(NHK出版)「宮藤官九郎インタビュー」(取材・文:上原章江)
(4)「テレビブロス 2013年9月14日号」(東京ニュース通信社)「あまちゃん総力特集!」
(5)宮藤官九郎『NHK連続テレビ小説「あまちゃん」完全シナリオ集 第2部』(KADOKAWA)「第134回」より
(6)同書「第137回」より
(7)(8)(9)(10)「Cut No.325『あまちゃん』が日本の朝を変えてしまった」(2013年8月号)「宮藤官九郎、決意の作品『あまちゃん』を語る、それでもやっぱり、笑って元気になりたいんだよ、っていうことは、言わないといけないんじゃないかなと思って」(テキスト:兵庫慎司)
▼プロフィール
成馬零一(なりま・れいいち)
1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて、リアルサウンド等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)、『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)がある。
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