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ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
前回につづき、国民的ヒット作『タッチ』以来の本格野球漫画となる『H2』の読み解きです。今回は、『北斗の拳』原作者・武論尊をして「初めて悪役を描いた」と言わしめた、あだち充作品きってのアンチヒーロー・広田勝利のドラマにスポットを当てていきます。

碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第16回(2) アンチヒーロー(悪役)だった広田勝利の挫折と再生を描いた『H2』

甲子園大会で唯一の敗北を喫した原因は比呂のやさしさだった

『H2』は国見比呂と橘英雄という二人のヒーローと、古賀春華と雨宮ひかりという二人のヒロインの四角関係をあだち流の野球×ラブコメで描いた青春群像だった。あだち充は比呂と英雄の二人のヒーローの対決を甲子園で決着をつける形で描こうと考えていた。
また、前作の野球漫画『タッチ』は甲子園出場を目指すことが物語を動かす大きな動力となっていたが、今作では甲子園での戦いを描くことが最初から決められていたため、比呂や英雄以外の超高校生級選手が数多く登場することになった。

高校二年の夏の甲子園大会では、比呂率いる千川高校野球部があと1勝すれば、三回で英雄率いる明和第一高校との直接対決が実現するはずだった。しかし、二回戦で戦うことになった伊羽商業高校との試合に千川高校は敗れてしまい、高校二年の夏では比呂と英雄の直接対決は叶わなかった。
そして、試合の翌朝に宿舎から抜け出した比呂と眠れずに散歩に出掛けたひかりが海岸でばったり出会い、比呂はそれまで決して伝えることのなかったひかりへ初恋をしていたという想いを告げることになる。そうやって、物語は比呂と英雄と春華とひかりのいびつな四角関係として進み始め、終盤の比呂と英雄の直接対決への大きな伏線となっていった。

雨宮ひかりの叔父であり、新聞記者の雨宮高明は千川高校と伊羽商業高校の試合前に姪のひかりにお世辞を抜きに新聞記者として、今年の優勝校の予想を聞かれた際にこんな発言をしていた。

高明「予想? ──ま、周りの評判を聞いても、明和一が一番人気であることにはまちがいないよ。」
ひかり「周りじゃなくて、叔父さんの予想を聞いてるのよ。」
高明「伊羽商業──」
ひかり「千川と二回戦で当たる?」
高明「ああ。4番の志水と、エースの月形。飛び抜けた才能を持ったこの二人は、同じ中学出身の親友同士なんだよ。根っからの野球好きで、監督が止めなければぶっ倒れるまでやめない練習好き。 ──しかも、人の意見に耳を貸さない思い上がった天才ではなく、乾いたスポンジの吸収力を持った、柔軟で素直な性格── 比呂くんと橘くんが、一緒のチームにいるんだよ。伊羽商業(あそこ)には── 今年の選抜では、明和一を優勝候補に挙げていたんだ。」
ひかり「え。」
高明「心配しなくても、おれの予想は当たらんことで有名だ。」〔『H2』コミックス20巻/「なんの話?」より〕

自分以外のピッチャーでは初めてカッコいいと比呂のことを感じ、研究ではなくファンとして比呂のピッチングのビデオを何度も繰り返して見ていたエースピッチャーの月形耕平、「右の橘、左の志水」と称されるほどのスラッガーであり、四番打者の志水仁。伊羽商業高校のこの二人は中学からのチームメイトで親友であり、比呂と橘が「もし、同じ明和一野球部に入っていたら」という可能性を感じさせるコンビだった。

甲子園大会二回戦における千川高校対伊羽商業高校戦の延長十回表、打者の比呂が一塁に向かった際に、月形がヘッドスライディングしながらグローブを前に突き出してベースタッチしようとした。
月形はタイミング的にも自分のグローブが比呂のスパイクで踏まれると思い、その刹那、目を閉じた。しかし、痛みはやってこずにアウトカウントが審判によってコールされた。比呂は月形のグローグをスパイクすることを躊躇し、そのせいでアウトになったばかりでなく、足を挫くかたちとなってしまう。
比呂はそのことを誰にも悟らせずに、延長10回裏に志水に甲子園大会で初のヒットを打たれる。志水の前に凡退していた月形は監督に「送りバントならピッチャーの前がいいですよ」と助言する。
志水の次の打者はバントするもののサードにさばかれ、2アウトになるが、伊羽商業の監督は次の打者にも国見の前に転がせとバントを指示する。意表をつかれた比呂は取れずに、ランナー一塁三塁、伊羽商業監督がポツリと「左足か」とつぶやく。次の打球で、一塁ランナーが盗塁し、延長十回裏、1点差を追う伊羽商業高校は2アウトながらも、二塁三塁とした。
マウンド上の比呂は口端から血をわずかに流していた。テレビを見ていた明和一の選手たちは口の中を切ったのかもしれないと判断していたが、比呂が歯を食いしばりながら残った力でなんとか投球していることには気づかなかった。また、英雄は「大事なのは次の試合なんだぜ」と心配そうなひかりに告げるが、最後の打者がバントし、比呂の前に転がっていく。誰しもがこれで千川の勝利だと思ったファーストへの比呂が投げた球は、長身の大竹がジャンプしても届かない上の方へ向かっていき、そして逆転のランナーがホームを踏んだ。千川高校は伊羽商業高校に敗れてしまった。

記者たち「足?」
比呂「──ああ、そうスね。ものすごく痛いです、負けたいいわけにしといてください。」
記者たち「10回表一塁に走った時だね、ベースタッチに行った月形くんの手をかばって、足の踏み出しをおかしくしたように見えたけど──」
比呂「なんでもなかったんです、とっさによけとけば。一瞬、そのまま踏んじゃったほうが得かな、なんて考えたもんだから、その分、反応が遅れて、空足になったんです。」
記者たち「またまた。そのまま書いちゃうよ。」
比呂「いいスよ。」
反対側でインタビューを受けている月形と比呂の視線が重なる。月形が頭を下げる。記者たちのうしろで壁に背中をあずけるように話を聞いている高明の姿を見つける比呂。〔『H2』コミックス22巻/「えらいよな」より〕

ここでも、普段はガサツだが他人に気を遣う部分が比呂の性格が出ている。比呂はあえて自分から言い出すことで月形に残るかもしれない罪悪感を少しでもなくそうとしていたのだろう。おそらく、ここで比呂が言わなかったら月形だけではなく伊羽商業監督ももし明和一に勝ち、その後、優勝できたとしてもずっと心にしこりを残してしまうことになったはずだ。
甲子園で敗退して東京に帰り、明和第一高校と伊羽商業高校の試合当日の朝に比呂が起きると、野田が勝手に国見家に上がり込んで飯を食べていた。

比呂「心配すんな。」
野田「ん。」
比呂「おまえが思うほど、落ちこんじゃいないよ。」
野田「見事だったよ。おれにも気づかせなかったもんな、その足。まったく、おまえらしい負け方をしてくれるよ。」
比呂「悪かったな、ドジで──」
野田「おまえはプロには行かねえほうがいいな、あそこで月形の手を踏めないようじゃ──な。本当に手に入れたいものがあるのなら、だれかを踏みつけてでも進むべきだ。」
比呂「こらっ、てめえ! おれの分がなくなるだろ!」
野田「踏みつけてでも進むんだ!」
比呂「食うな!」〔『H2』コミックス22巻/「悪かったな、ドジで──」より〕

甲子園大会三回戦で明和第一高校は伊羽商業高校に勝利する。その後も勝ち進み夏季甲子園大会で優勝を果たすことになった。春華は明和一か伊羽商業の勝者のどちらかが今年の優勝校だと言い、それが当たることになった。それは千川が伊羽商業に勝っていれば、明和一にも勝利し、千川高校が優勝していたはずだという気持ちの現れのようにもみえる。
ちなみに『H2』での千川高校が出場した夏季&春季甲子園大会において作中で描かれている限りでは、千川高校が負けた唯一の相手校は伊羽商業高校となっている。

比呂が月形のグローブをスパイクで踏みつけなかったというこの行為は、実はある人物と比べると非常に対照的なものとしても捉えることができる。それが千川高校と同じ北東京ブロックにおいて最大の敵となった、栄京学園高校の広田勝利である。
広田はそれまでのあだち充作品に出てきたキャラクターの中でも、もっとも悪役らしい悪役だった。また、『タッチ』におけるダークサイドに落ちて明青学園高校野球部に復讐を果たそうとした柏葉英二郎に近い存在(亜種)としても考えることができるだろう。
柏葉英二郎に関しては、なぜ彼が野球部に復讐をしようとしたのかや過去の事情について、上杉達也と浅倉南という主要キャラが知ることになり、読者も彼を完全な悪としては見ることができないという構図があった。しかし、この広田に関してはそのバックグラウンドは親戚筋であり、千川高校野球部にスパイとして送り込まれた島オサムと大竹文雄、そして中学時代に広田によって野球部から追い出された佐川周二といった脇役たちによって語られる。そのため、読者の視点においても、柏葉英二郎に対して感じた同情のようなものは、ほとんど感じることができなかった。広田は自らの持てる力を行使し、弱いものを徹底的に痛めつけるという非道さを見せていくからだ。

あだち充作品史上最も悪役≒アンチヒーローだった広田勝利

比呂たち4人のメインキャラたちのドラマに対するアンチテーゼとして広田勝利が劇中に登場するのは、コミックス6巻の「何が?」の回からの高校一年の秋季大会決勝戦での明和一高校戦からとなる。それまでの展開では、英雄の幼なじみである佐川周二が少し悪い(グレた)奴という感じで描かれていた。しかし、その佐川がグレてしまったのは、実の兄の死だけではなく、中学時代に野球部を追い出されたことが原因となっており、その張本人が広田であった。
佐川は英雄やひかり、そして比呂と触れ合っていくうちに真面目に勉強して、千川高校へ入学することを決める。佐川が野球で広田に復讐するためには、英雄がいる明和一高校ではブロックが違い、甲子園大会予選では対決することができなかったという理由もあった。また、比呂のピッチングを目の当たりにした佐川は、広田を倒せるとしたら比呂しかいないと確信したからだった。

英雄たち明和一との秋季大会から姿を現した広田勝利。その顔は、ちょっと精悍な柳守道(千川高校野球で比呂のチームメイトの二塁手であり、校長の息子。広田と同じく父と息子の関係が物語の前半で描かれることになった)といった印象だ。英雄の第一打席は三振だったが、もっとも試合を観にきていた比呂たちに衝撃を与えたのは、予告三振で英雄を三振に打ち取ったということだった。
一度帽子をさわって手を上げる。そんなふざけた真似であるものの、その一連の動きをした際には打者を実際に三振にとっていた。しかし、明和一だけではなく、秋季大会の毎試合でそれが続くため、本人は否定していても周りや観客は、いやでもその仕草による予告三振を期待するようになっていた。
広田は試合中にサードの選手の出足が遅れたことについて、「スタート遅いんじゃないすか先輩。レギュラーは大事にしてくださいよ。一年にいいサードの控えがいるんですよ」とわざと言って年上の先輩を恐縮させていた。そうやって他のナインが自分の支配下にあること、逆らえない立場であることが数コマで示唆された。


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