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分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第12回。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発する直前、統一科学国際会議への出席のために渡米したタルスキ。もはや帰国もかなわず、アメリカの研究機関に職を求めて東西海岸を流転した大数学者の足跡が、分析哲学という知の端緒になったほか、フォン・ノイマンのそれと競うかたちで、「幻のコンピューター構想」を生み落とします。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第12回 アメリカでのタルスキ〜幻の「タルスキ型」コンピューター

1939年、マンハッタン

 前回はマンハッタンのユダヤ人哲学者の話だった。若きアシモフが初めてマンハッタンに足を踏み入れてから4年後の1939年の8月、別のユダヤ人が初めてマンハッタンに足を踏み入れる。タルスキである。今回は、アメリカにやってきた後のタルスキに焦点を当てたい。
 その前に、本連載でこれまでに見てきたタルスキの足跡を振り返ろう。タルスキはゲーデルと並ぶ20世紀最大とも呼ばれるほどの大論理学者である。また、哲学でも、分析哲学を学んだものならその名を知らないものはいないと言ってよいほどの知名度を誇る。なぜなら、分析哲学では「意味論(Semantics)」というものがあちこちで登場するのだが、それは普通、「タルスキ型意味論(Tarskian Semantics)」と呼ばれるものであり、タルスキの業績に由来するものだからである。

 タルスキはゲーデルにとって、数少ない親友の一人でもあった。彼ら二人が初めて出会ったのは1930年のウィーンだ。タルスキは1918年、生まれ故郷のワルシャワ大学に進学し、若くして数学の天才として知られるようになるのだが、1929年にウィーン学団の先輩数学者であるカール・メンガーが父親の出身地であるポーランドを訪問した際にタルスキと出会い、ウィーンに招待したのだ(本連載第1回)。
 それ以降、タルスキはウィーン学団、およびウィーン学団が推進する統一科学運動に関わることになる。タルスキが渡米するのも、アメリカ・ハーバード大学で開催される第5回統一科学国際会議に参加するためだった。友人であり分析哲学を代表するアメリカ人哲学者クワインの強い勧めがあったからだ。だが、タルスキがポーランドを発ってすぐ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。無事アメリカについたものの、戦乱に陥った祖国、そしてそこに残してきた家族や友人たちを案じることで頭がいっぱいだったタルスキの前に現れたのは、ベルリン・グループと呼ばれるドイツの科学哲学者(本連載第5回)の一人、カール・グスタフ・ヘンペルと、フォン・ノイマンだった(本連載第6回)。

ニューヨークのポーランド人〜渡米直後のタルスキの奮闘と様々な出会い

 ヘンペルは以前の統一科学国際会議でタルスキと面識があり、また先にアメリカという土地にやってきたヨーロッパ人ということもあり、様々な不安を抱えるタルスキを安心させようとニューヨークを案内した。また、ヘンペルは、彼と同じくナチスの迫害を受けドイツからアメリカへと渡ってきた論理学者のオラフ・ヘルマーをタルスキに紹介している。ヘンペルもヘルマーも、アメリカに来たはいいものの職を探すのに苦労していた。当時のアメリカは、彼らと同じくナチスの手を逃れて移住したヨーロッパからの知識人で溢れていたからだ。幸い彼ら二人にはあてがあった。ロックフェラー財団だ。ロックフェラー財団は、フォン・ノイマンのゲッティンゲン留学を支援し(本連載第6回)、またタルスキのウィーン滞在も支援するなど(本連載第1回)、科学哲学や論理学を積極的に支援していた。ヘンペルとヘルマーはフォン・ノイマンやタルスキほどの知名度はなかったが、ニューヨークにあるロックフェラー財団本部の恩恵を受け、一足先にアメリカへと移住し、シカゴ大学の哲学教授になっていたウィーン学団の科学哲学者カルナップのアシスタントをして糊口を凌いでいたのである。

 だが、タルスキには、彼ら二人のドイツ人とのんびりニューヨークを観光している時間はなかった。統一科学国際会議のために、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ボストンにすぐさま移動しなければならなかったからだ。そして会議にも戦争が暗い影を落としていた。大会プログラムを見ると、氏名の後に「?」がついた発表者が少なからずいる。これは、戦争により参加できるかどうかが不明になったヨーロッパからの参加者を表すしるしである。タルスキの名前にもそのしるしがあった。タルスキは幸運にも発表することができたが、ベルリン・グループの論理学者クルト・グレーリンクは、もはやアメリカへ行く船がなくなっていたドイツからベルギー、フランス、スペインと大陸を移動し、スペインから渡米しようとしたが、結局果たせなかった(本連載第5回)。また、タルスキとルヴフ大学論理学教授の席を争ったレオン・フヴィステクや、タルスキの教え子のアドルフ・リンデンバウム、その妻であり同じく論理学者のヤニーナといったタルスキの近しいポーランド人も、会議に姿を現すことがなかった。

 会議終了後もタルスキにはすべきことがあった。まず、そもそも彼は会議の参加だけのための短期ビザでアメリカに入国しており、そのままでは帰国しなければならなかった。ナチス・ドイツに占領されたポーランドにユダヤ人のタルスキが戻ることは、当然ながら死を意味する。それを避けるにはアメリカの永住権が必要だ。クワインやカルナップ、ラッセルらの尽力により、タルスキは無事に永住権を手に入れることができたが(そのために一度キューバまで行かなくてはいけなかったのだが)、次の問題は職だ。タルスキの知名度はヘンペルやヘルマーより上だったが、ヨーロッパから逃げ延びてきた知識人であふれていたアメリカで、高い名声を持つ大学の教授職を得るのは容易ではなかった。第5回統一科学国際会議開催に関わったハーバード大学の面々の尽力により、ハーバード大学での非常勤研究員のポストは確保できたものの、給与はわずかであり、他の収入源が必要だった。結局タルスキは、ニューヨーク市立カレッジ(シティ・カレッジ)での半年間だけの教授職に就くことになる。こうしてタルスキは、またマンハッタンに戻ることになるのである。1940年のことだった。


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