会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。
ジョージ秋山の訃報から随想する「明るいニヒリズム」の喪失、BLM運動の騒乱、GoToキャンペーンの迷走など、コロナ禍の軋みが社会の空気を鬱屈させていく中で、大政翼賛会プロパガンダに遡る昭和メディアミックス史の探求をはじめ、淡々と読書は捗ります。
大見崇晴 読書のつづき
[二〇二〇年六月上旬] 「明るいニヒリズム」の喪われた国で
六月一日
このコロナで騒ぐ時世に電車を乗り継いで出勤。人混みを避けるように普段より早く出掛けたが日本中が同じように行動しているらしく、品川駅に着いてみるとテレビで見ていたように人でごった返していた。
大河ドラマの『麒麟がくる』[1]を毎週愉しんで見ているのだが、どうも本当に明智光秀を天海僧正[2]とする説を採用するような画作りになっているように思えてならない。もし、私の思い込み通りであれば、斎藤道三と明智光秀が関わり合いを持つシーンが多いことも合点がいく。本来なら浮世を離れ僧職にある人間が俗世の危機に際しては還俗して泰平に駆け付けるというドラマである。
ジョージ秋山[3]死去。昭和を代表する「明るいニヒリズム」の持ち主だった。代表作となった『浮浪雲』[4]も、それをパスティーシュした『銀魂』[5]も共に連載自体は終了してしまっている。平成も遠くになりにけり、だ。
『浮浪雲』が平成の終わり頃に連載を閉じたときは、ニュース番組でも放送され、大きな話題となった。今日日の若者は『浮浪雲』が連載されていた「ビッグコミックオリジナル」[6]という雑誌の性格を知らないだろうから念の為書くが、「ビッグコミックオリジナル」というのは勤労男性が日常をやり過ごすために読まれていた雑誌である。あの雑誌で描かれていたのは、泰平な社会でうだつが上がらない大の大人が、日常の破れ目を探しては日常の有り難みを確認して、泰平な世の中(あちら側からは娑婆と呼ばれる)に回帰するための物語である。そのような処方箋としてマンガが連載されていたのだ。
『浮浪雲』の主人公・浮浪が幕府転覆の陰謀を察知して未然に防ごうとも、『三丁目の夕日』[7]で登場人物がふとしたきっかけで異界を覗き込んでも、『あぶさん』[8]でアルコール中毒(としか思えない)の景浦[9]が代打で燻っても、景浦の所属する南海ホークスがダイエーに買収されても、景浦の所属するダイエーがソフトバンクに買収されても、景浦が不惑を超えても、景浦がDH制度があるパシフィック・リーグにも関わらず投手として登板することになっても、不惑を過ぎて正選手となっても、平成唯一人の三冠王となった松中[10]を退けて四番打者として景浦が君臨しても、王貞治監督重病のため景浦がヘッドコーチを兼任することになったとしても、日本中のほとんどのひとが関知しない日陰者たちの物語であって、自分は日向の側にいると思っている(か信じたがっている)多くの人々が盲信的に愛しているのは「永遠に不滅」の巨人軍と高度成長期の日本であって、たまさか退屈に思えて倦み飽きたとしても、その豊かさを手放してはならないと気づくために「ビッグコミックオリジナル」は存在し機能してきたのだ。泰平であることに、それ故に娑婆で這い上がるチャンスに巡り会えないなどと、大の大人が嘯くこともないように、「ビッグコミックオリジナル」はそこにあり続けた。「明るいニヒリズム」とは、何をしても世の中が変わらないような泰平の世で、そこから脱落することを恐れるものの諦念である。
しかし、そうしてみると日本という国が、かつて福田赳夫[11]が「昭和元禄」[12]と揶揄したような自由と豊かさを手放しつつある現在、「ビッグコミックオリジナル」のようなコンセプトの雑誌が成立するか否か。そのような不信を携えて日々私は生き始めている気もする。そうと知っているひとも案外にいないかもしれないが、『総務部総務課山口六平太』[13]は作画担当の高井研一郎の病死によって四年前に連載を終了しているのである。
三省堂有楽町店で飯田隆『分析哲学 これからとこれまで』[14]を買う。
ロラン・バルト『S/Z』、『エッセ・クリティック』を注文。
リリアン・ロス『パパがニューヨークにやってきた』と小野田博一『13歳からの作文・小論文ノート』が届く。
[1]『麒麟がくる』 二〇二〇年一月一九日から放送されているNHK大河ドラマ。明智光秀を主人公に据え、戦国時代を描く。主演は長谷川博己。光秀の主君である織田信長の正室・帰蝶を演じる予定だった沢尻エリカが違法薬物の使用によって逮捕されたことで放送開始が延期された。代演は川口春奈。新型コロナウイルス感染症の流行から放送を一時中止していた。『ウルトラセブン』を強く意識したサブタイトルが毎回採用されていることで話題を呼んでいる。[2]天海僧正 安土桃山時代・江戸時代の僧侶。徳川家康の参謀を務めたとされる。前半生の経歴が不明瞭なため、明智光秀など武将が出家して名乗ったという説が残っている。これらの説は史実とはされていないが、多くのフィクションで採用されている。
[3]ジョージ秋山 一九四三年生、二〇二〇年五月一二日没。日本の漫画家。戦後の貸本漫画時代から活動した。丸い絵柄を生かした子供向けの作風だったが、劇画ブームと相前後して、『銭ゲバ』、『アシュラ』、『ザ・ムーン』と問題作を次々と発表。同時期に『浮浪雲』の連載を開始し、四十四年間の長期連載となった。
[4]『浮浪雲』 一九七三年から二〇一七年まで「ビッグコミックオリジナル」に連載されたジョージ秋山のマンガ。幕末を舞台に、元武士の問屋の日常を描く。徳川慶喜や新選組と交流を持っているという設定などは、影響下で執筆された空知秀秋『銀魂』にも流用されている。渡哲也やビートたけしを主演とした実写ドラマ化がなされている。
[5]『銀魂』 空知秀秋のSF日常マンガで、二〇〇四年から二〇一八年まで「週刊少年ジャンプ」で連載され、二〇一九年に専用アプリで完結した。アニメは人気となり、何度となく制作され、放送された。実写映画化もされた。長期連載ということもあり、BL二次創作の需要が長命だった。
[6]「ビッグコミックオリジナル」 一九七二年に創刊。月二回発行する小学館のマンガ雑誌。「右手に朝日ジャーナル、左手に週刊少年マガジン」という言葉が生まれたように、週刊少年誌が青年層も読者として掴んだ六〇年代後半を承けて、小学館が刊行した青年マンガ雑誌。一九六八年に刊行を開始した「ビッグコミック」の増刊誌という位置づけだった。
[7]『三丁目の夕日』 西岸良平のマンガ。一九七四年から連載を開始。二〇一三年からは月一回の連載へと切り替わった。架空の街である夕日町を舞台にしている。絵柄に比して暗めの物語であるため若年層からは存在はそれほど知られていなかった。長期連載となり連載を知る世代が増えた九〇年代にアニメ化、二〇〇〇年代になって実写映画化された。
[8]『あぶさん』 水島新司の野球マンガ。一九七三年から二〇一四年まで「ビッグコミックオリジナル」で連載された。酒豪の大打者・景浦安武を主人公にしている。実際のプロ野球選手が登場する野球マンガであるが、いわゆる水島マンガと呼ばれる固有の世界で野球の物語は進行している。作者が愛してやまないホークスのシーズンを描いた大河マンガ。主人公・景浦は、『野球狂の詩』などのマンガでも重要な役割を担う岩田鉄五郎(作者水島を投影した人物)のスカウトで、野球界に入る。一九七三年に高校卒の選手として入団したため、景浦は選手として脂が乗った一九九〇年代には三〇代後半だった。連載当初は『野球狂の詩』と同様に、野球にまつわるヒューマンドラマが描かれることが多く、そのためもあってか、景浦は大酒飲みの代打専門の選手として描かれた。走攻守にわたって万能で、人格も優れ、ビートたけしが水島新司に史上最高の野球選手を尋ねた際に「景浦」と答えたとされている。現実と虚構の境目がなくなっていく水島新司作品らしいエピソードである。
[9]景浦 『あぶさん』の主人公、景浦安武。一九七三年から二〇〇九年までホークス一筋の野球選手だった。大酒飲みの自己管理ができない野球選手という設定は、連載前半までで、後半になるにつれ万能選手という位置づけがなされていく。一九九〇年から一九九三年まで三季連続の三冠王に輝いている。
[10]松中 松中信彦。一九七三年生の野球選手。平成唯一(二〇〇四年)の三冠王に輝くなど、平成を代表する大打者。ホークスを退団した二〇一五年以後、自由契約となるが契約を結ぶプロ野球球団がなく、現役を引退した。
[11]福田赳夫 一九〇五年生、一九九五年没。日本の政治家。大蔵省の官僚であったが、一九四八年に戦後を代表する疑獄事件の一つ、昭電疑獄で逮捕される。一九五二年に衆議院選挙に当選し、政治家となる。一九五三年に自由党に入党。自由党の議員らによって自民党が結党された際には、これに参加。一九六〇年に主流派から外れそうになっていた岸派を糾合する形で党風刷新運動を始める。いわゆる派閥解消を掲げているが、実際には新たな派閥運動であった。佐藤栄作政権下では、保利茂・田中角栄とともに政権の要石となる。岸信介は自派閥を継承した福田に政権の禅譲を促したが、絶頂期にあった佐藤はみすみす機会を失ってしまう。この結果、福田は田中に総裁選で破れる。福田が田中角栄よりも十歳以上年長であったことを考えると、この時期の敗北は政権奪取の途が閉ざされる可能性があった。人口に膾炙するキャッチコピーを生むことが多く、「昭和元禄」やインフレ・デフレを名指した「狂乱物価」などがある。タカ派が多いイメージの旧岸派にあって平和主義を唱え、日本赤軍がハイジャックをした際には、人質交渉など過酷な出来事があったが、「人命は地球よりも重い」という言葉を残している。福田の派閥である清和会は平和主義と旧岸派のタカ派政治が主義として混在している、対外的には奇妙な派閥である(福田の息子である福田康夫は、A級戦犯合祀を回避するため靖国神社に替わる国立追悼施設の創設を支持するなど、イデオロギー的に派閥が一枚岩ではない)。田中角栄がロッキード事件によって首相を辞任したのち、大平正芳と密約を結んで福田が先に首相に就いたが、のちに総裁選で二人は争うことになる(大福戦争)。この権力闘争の中、現役の首相のまま大平正芳が急死し、福田は党内でも微妙な立場になる。党内抗争が一息ついた一九八〇年代になると、昭和の黄門を名乗るようになり、日本テレビなどで放映された元首相を囲む会などで、現役最長齢の元総理として怪気炎を上げていた。息子はのちに首相となった福田康夫、孫は衆議院議員の福田達夫である。
[12] 「昭和元禄」 好景気に浮かれている状況を諭した福田赳夫の造語である。
[13]『総務部総務課山口六平太』 「ビッグコミックオリジナル」で連載された凄腕の総務課社員を描いたマンガ。原作は林律雄、作画は高井研一郎。一九八六年から二〇一六年の三〇年間連載が続いたが、作画の高井が死去したため、連載を終了した。[14]飯田隆『分析哲学 これからとこれまで』 二〇世紀の英米圏で主流となった哲学を分析哲学と呼ぶことが多いが、その潮流の過去と現在について触れた(哲学論文と比すれば)軽めのエッセイをまとめた書籍。分析哲学のイメージからは従来遠かった文学や美学で成果を収めたスタンリー・カヴェルについてのエッセイなど、碩学ならではの文章を読むことができる。出版社が設けた『分析哲学 これからとこれまで』読者のための分析哲学ブックリストには日本の研究者による分析哲学の重要な著作が集められている。
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