会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく新連載「読書のつづき」。COVID-19の大規模感染がまたたく間に人々の日常を蝕んでいった世界の変貌をよそに、老舗学術出版社の廃業や故・坪内祐三氏ら、逝きしものたちの足跡に思いを馳せる、反時代の本読みがとらえた令和二年の弥生とは──。
大見崇晴 読書のつづき
[二〇二〇年三月前半] 逝きしものたちの足跡
はじめに
この連載で書かれるのは私の読書日記めいたものである。「私」は誰かと言うと大見崇晴という人物だ。男性である。独身である。一九七八年の生まれなので今年で齢四十二歳となる。会社員であるが偶に記事を書く。記事の主だったものは読書の感想だ。
文章を書くことには慣れている。だがほとんどが仕事文だ。それを読まなくては仕事にならないからと決めてかかって読む人に向けて書いている。そうした文章ならではの苦労はある。だが、好き好んで手に取られるような文章ではない。書き手も読み手も仕事と割り切っている。読者の期待を裏切る場合には、仕事の役に立たぬ、実利的でないためだ。遊興娯楽や精神修養、自己啓発といった主体的に読まれる種類の文章ではない。そういう類のものは、もうしばらく書いていない。
以前は誰に求められるもなく長文を下ろすことがあった。いまでもそうだが私が買ったり読んだりしている本は仕事と関係がないものが全体の九割を占める。当時は読んだものを頭の中に溜めておくのがしんどくなっていたのだ。そうした文章がきっかけで宇野さんとも相知ることになった。宇野さんは干支を一回りしたような人物が現れると思っていたらしい。実際には私と宇野さんは同年齢である。けれども文章が抹香臭かった。若い頃から私は老人になりたがっていた。
そんな私も不惑を過ぎた。いまだ何事につけても迷ってばかりだが、反面いい加減にして記録に残さなければならないと思うことも多々あった。年下の知人も、兄事する先輩も、この数年に亡くなった。そのひとたちのことを何らかのかたちで記録に残せればと思った。こうした事情であるから、この日記はむかしを思い出しながらのものとなるが、湿っぽいものにはしないように心がけるつもりである。とりあえずは年寄り気取りの繰り言だと思って読んでいただきたい。
3月x日 寂しい知らせ
おうふう[1]が廃業したという情報をツイッターで見つけた。母校國學院大學の日本文学・国語学などの教科書を一手に引き受けていたようなかんじだったので、これからどうしたものだろう。昨年の院友会報[2]にも、おうふうの電話番号が掲載されていた記憶があるのだが。複雑な気持ちが入り混じり過ぎて言葉にならない。
[1] おうふう 旧社名は桜楓社。学術出版社。國學院大學の講義で用いられるテキストを多く出版した。令和の元号を提案した中西進や、折口信夫門下生の書籍を多く手掛けた。Twitterで倒産の報を伝えたのは勤務経験があった、ひつじ書房の創業者松本功。
[2] 院友会報 國學院大學卒業生(院友)たちにも届けられる会報。季刊。
3月×日 ゼロ年代の神保町
早々に仕事を切り上げた。帰途、東京丸善本店に寄って「本の雑誌」(二〇二〇年四月号)を買う。坪内祐三追悼号であったからだ。
坪内祐三[3]氏の姿が見える風景とは、ゼロ年代前半の神田神保町のように思われる。私もまた、それを眺め、風景の一部に紛れ込んでいた一人だった。坪内氏以外にも、ちょうど氏と同年代の書き手を多く見かけたのが当時の神保町だった。坪内氏の対談連載のパートナーをつとめた福田和也[4]氏は、コラムで本人が戯画化して文章にしていたように、三省堂本店で編集者を荷物持ちにしてカゴいっぱいに新刊を積み込んで、レジに楽しそうに向かっているのを、よく見かけた。そんな福田氏を見かけることが多かった三省堂四階の人文書コーナーは、宮台由美子[5]さんが担当されていた。書店での頒布物を作り始められたころで、その存在がにわかに知られはじめていた。リオタールの『経験の殺戮』[6]が本店である神保町店にだけ在庫があると知って買いにでかけたら、対応してくださったことを思い出す。開架されていなかったようで、倉庫の奥から探し出されたようだった。
いまもたまに見かけるのが、大塚英志[7]氏で、日本文学専門の古書店で見かけた。両手に古書でいっぱいの紙袋を携えて店から出てくるのに遭遇したこともある。
文壇論壇が崩壊したと言われて久しい[8]が、あのころの神田神保町にはまだそうした気風が残されていた。
坪内祐三氏は、その姿を東京堂書店[9]で多く見かけた。いまはダイソーとなっている場所は、かつて東京堂の支店だった。ふくろう店という名前で、その一角は「紀田順一郎文庫」と名づけられていた。ビブリオマニア(愛書家)として知られる紀田順一郎[10]氏は、当然のことながら古書収集家として著名で、神保町を題材とした小説や随筆も数多くある。そんな紀田氏のコレクションが若干量ながら放出されたのは、二〇〇四年ごろのことだった。
古書の値付けというのは、そう簡単にできるわけではない。といって、難しくもないのだが、勘所を心得ているひとはいるようで、いない。紀田氏は処分をしようとしているのだから、それを第一義とするなら只同然で市場に放出すれば済むことである。道理ではそうである。が、実際には、そうは簡単にはいかない。というか愛書家たるものは、手放す際にチリ紙同然に手放すことはできない。かといって、そのような面倒事を進んで引き請けるひとは、そうはない。
当時、この任に当たっていたと思われるのが、中堅の評論家となっていた坪内祐三氏だった。野坂昭如[11]が解説を寄せた『靖国』ぐらいしか、文庫本になっていなかったころだ。坪内氏が値付けされた本を摑んで、自動ドア近くの一角にある書棚へ本を並べている氏のことを、私は思い出す(これらの経緯は坪内氏の『本日記』という著作に仔細書いてあるそうだが、手元にないので確認できない)。
ちょうど『古くさいぞ私は』か『ストリート・ワイズ』を読んでいたころだったから、文章の整理の見事さに、書き手は手堅くで穏やかなひとだと私は思いこんでいた。実際には、酔漢にからまれて半死半生の目にあったのが「噂の真相」[12]で報じられたから、当時の私は表層的にしか理解していなかったのだろう。激情家としての氏を知らないでいたのだ。だいたい、早稲田を代表する文人である坪内氏を、もっと保守的な大学の出身と誤解していたぐらいだった。そうでもなければ、引退同然の福田恆存と若年の坪内氏が交流を持つことはないだろうという、私の先入観があってのことだったが。
閑話休題(それはともかく)。
「本の雑誌」を開いてみると坪内祐三氏の本棚が撮影され掲載されている。保守派論客として知られていたから保田與重郎[13]の全集があるだろうことは予期していたが、それは仕事部屋全体においては、あまり目立たない。それよりもバーリン[14]選集や柳田國男[15]全集が揃っていることが目につく。折口信夫[16]の著作も思っていたより目立つ場所に置かれている。手にとりやすさ重視しての配置なのだろう。
注目するのは山口瞳[17]の『男性自身』の並べ方だ。ソフトカバーで刊行されたものと、文庫になったもの、両方が棚にある。それも目立つところに。
『男性自身 年金老人奮戦日記』などは、つい最近まで参照されていたらしい置かれ方をしていることが写真から見て取れる。棚に戻し切れていないのだ。この本は、山口瞳が「男性自身」でコラム形式を捨て、日記形式を採用した時期のもので、その中でも白眉である。私の部屋にも二冊以上は置いてあるはずだ(ただ、よく手に取る一冊しか見当たらない)。
巷間されるように、雑誌「女性自身」になぞられて名付けられた「男性自身」というコラムのタイトルは、編集者斎藤十一[18]が「週刊新潮」のために決めたもので、山口瞳はこれを嫌っていたという。けれども山口瞳は最晩年には、この連載に集中していた。小説の執筆をほとんどしなくなっていた。この日記形式のコラムを読むと、田島陽子[19]がマスコミを騒がしだしたころや、競馬ブームが再燃したころなどが平成の初頭の出来事であったのだと知らされる。三十年以上に渉って書き続けていた週刊誌コラムを、山口瞳は戦後の生活誌として、一代の事業として取り組んでいたのだろう。柳田國男の『明治大正史世相篇』に似た書物を、平成の生活誌をまとめることを計画していたという坪内氏が愛読していたのも、むべなるかな。
[3] 坪内祐三 一九五八年五月、東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。一九六〇年代まで文壇論壇をリードし、戯曲家であった福田恆存と若い頃に知遇を得る。「東京人」編集者ののち、一九九〇年に評論家に転じる。編集者時代に社長であり、日本の保守文壇のキーパーソンでありつづけた粕谷一希と交流を持つ。編集者辞職後、作家でも批評家でもなく評論家を名乗ることについては、『21世紀 文学の創造 8 批評の創造性』(岩波書店、二〇〇二年二月)に寄稿した「一九七九年のバニシング・ポイント」に詳しい。同年に写真家神蔵美子と結婚。一九九三年から目白学園女子短期大学非常勤講師。一九九六年から「週刊文春」で「文庫本を狙え!」の連載を開始。初の単著『ストリート・ワイズ』(一九九七年四月、晶文社)を刊行。編集は元べ兵連の中川六平。東京外骨語大学(宮武外骨の研究会)などを通じ山口昌男や松田哲夫などと親しくなる。二〇〇〇年九月から編集を担当した筑摩書房の『明治の文学』が配本される。このころ暴漢との喧嘩により重傷を負う。「噂の真相」で、その旨が報じられた。二〇〇一年から早稲田大学非常勤講師。マガジンハウスの文藝誌「鳩よ!」で連載していた『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』で講談社エッセイ賞を受賞。二〇〇三年から「文藝春秋」で「人声天語」の連載を開始。雑誌を何誌も変えながら日記を連載。『酒中日記』(二〇一〇年二月、講談社)は二〇一五年に映画化された。二〇一〇年代に入り、コラムやエッセイといった雑文をまとめた著作よりも、テーマが一貫した作品が増える。二〇〇八年に本の雑誌社が「本の雑誌」にて初代編集長だった椎名誠が編集後記にて倒産間近であることが書かれ話題となったが、その際に雑誌の支援に協力した一人(『書中日記』二〇〇八年十二月の日記題名は「浜本さん百万円までならなんとかするぜ」だ。浜本氏は学生時代に配本部隊の一員となり、現在は「本の雑誌」の発行人となった、本の雑誌社一筋の編集者である)。ラジオでは開店したばかりの代官山蔦屋書店についてキャスターの森本毅郎と意気投合を見せるなど、東京人らしい気の合い方を見せた。政治の党派性を超えて人付き合いをしたところなどは、日本の中道を象徴していた往年の中央公論のごときであった(福田恆存は中央公論社主嶋中鵬二のブレーンであり、編集者として師にあたる粕谷一希は中央公論を代表する編集者の一人だった)。二〇二〇年一月十三日死去。[4] 福田和也 一九六〇年十月九日、東京生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。慶應義塾大学教授。文芸批評家。『奇妙な廃墟―フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』(国書刊行会、一九八九年一二月)が第一冊目の単著。一九九三年に三島由紀夫賞を『日本の家郷』(新潮社)で受賞。九〇年代に活動を始めた代表的な批評家だが、雑誌「リトルモア」(Vol.9、一九九九年七月)に掲載された「禅譲1?」と題された対談で、その当時日本文学の代表的な文芸批評家だった柄谷行人から「まあよろしくたのむよ」と後継指名をされる。二〇〇〇年からは三島賞の審査員となる。二〇〇〇年には『作家の値打ち』(飛鳥新社)を著す。点数式の作品批評自体は、中上健次などの前例があり目新しいわけではなかったが、その党派的な記述が、失われたと思われていた「文壇」的な雰囲気を醸し出すものとして、話題となった。二〇〇二年からは「SPA!」にて坪内祐三との対談が連載開始される。二〇〇三年からは扶桑社から文藝誌「en-taxi」を刊行。編集同人となる。他の同人メンバーは坪内祐三、柳美里、リリー・フランキー(のち、柳美里が抜け、重松清が参加)。リリー・フランキー『東京タワー』(扶桑社、二〇〇五年六月)がヒット作となる。二〇一六年ごろに各賞の審査員を辞任。二〇一八年に坪内祐三との対談が連載終了。未完の連載をまとめ、『ヨーロッパの死』(青土社)として刊行。デッド・ケネディーズはアメリカのハードコア・パンクパンド。駆け出しだったころの福田和也は彼らと交流を持っていたと肩書に記していた。福田がパンク右翼を名乗っていた当時は青二才サヨクと呼ばれていた島田雅彦をカウンターパートにした企画が多かった。
[5] 宮台由美子 三省堂でゼロ年代の書店イベント、小冊子の頒布を多く手掛ける。旧姓佐伯。宮台真司夫人。
[6] ジャン=フランソワ・リオタール 一九二四年八月一〇日生、一九九八年四月二一日死去。フランスの哲学者。フランクフルト学派からの影響を受けた。「ポストモダン」という言葉を広めた著作『ポスト・モダンの条件』(一九七九)はカナダのケベック州からの委託によって執筆された。
[7] 大塚英志 一九五八年、東京生まれ。中学生時代に作画グループ(みなもと次郎、聖悠紀などが参加したマンガ家同人)に入会。一九八一年筑波大学卒。教官だった宮田登の助言に従い編集者に就いたと言われる。徳間書店のマンガ雑誌編集、自販機雑誌などの編集を手掛けながら、評論家としての活動でも著名になる。宮崎勤の連続殺人事件への傍聴はライフワークとなった。オタクに関する論争に参加する他、原作を担当した『魍魎戦記MADARA』などで角川書店のマルチメディア事業を推進した。雑誌「新現実」を刊行するなど、二〇〇〇年代に純文学における主要な論争をリード。二〇一〇年代からは学術的な仕事に集中する。二〇一三年から国際日本文化研究センター研究部教授。大映徳間角川と続いた日本映画における呼び屋文化を知る一人。
[8] 文壇崩壊論 社会学者である日高六郎が文壇が一部の人間にしか開かれていないことを「文壇ギルド」と呼び批判したことを受け、文藝批評家・十返肇が「『文壇』の崩壊」(「中央公論」昭和三十一年一二月号所収)で、すでに文壇というものは崩壊していると反論した。
[9] 東京堂書店 戦前の出版界を代表する出版社・博文館の小売部門として開業。取次・出版事業にも拡大する。取次部門は第2次世界大戦中に日本出版配給に統合され、戦後GHQにより解体され、東京出版販売(現:トーハン)として出直すことになる。小売部門は東京堂書店として再起することになった。神田すずらん通りにある神田神保町店が旗艦店として知られている。
[10] 紀田順一郎 一九三五年、神奈川県生まれ。慶応大学在学中に推理小説同好会に参加。同会でメンバー(大伴昌司、草森紳一)ら後にも著名な愛書家たちと交流。商社に勤めながら活発な同人活動を行う。雑誌「幻想と怪奇」に荒俣宏らと関わる。伝説の雑誌とされたが今年二〇二〇年に復活。評論活動だけでなく推理小説家としての仕事も著名。大衆小説の戦後の代表的な研究者でもあり、『蔵書一代』には資料の散逸を嘆く学究ならではの苦難が綴られている。
[11] 野坂昭如 一九三〇年生、二〇一五年没。戦後を代表する作詞家、放送作家。また作家でもあった。作詞家としての仕事は「おもちゃのチャチャチャ」など。映像化された小説『火垂るの墓』はあまりにも著名だが、映像と小説における文体とかかけ離れていることが知られる。野坂は江戸戯作から織田作之助に通じる饒舌体の文体で知られていたが、アニメで監督を担当した高畑勲は東大仏文科出身であり、エリュアールの訳詩集を刊行する詩情を持っていたことが大きいと思われる。現在では死語となったコマソン(コマーシャル・ソングの略)での活躍はハトヤホテルの作詞などでも知られるが、本人が歌手として登場したサントリーのCM(「ソ・ソ・ソクラテス」)が映像で見ていた世代には鮮明だろう。文筆活動で認められる際には三島由紀夫からの評価が高かったことに始まるが、それらについては著書『文壇』(二〇〇二年、文藝春秋)に詳しい。タレント活動も含め、ある種の絶頂期に見えた一九七〇年代に松田哲夫が手がけた雑誌「終末から」(一九七三~一九七四、筑摩書房)に論評を寄稿。一九八三年にはロッキード事件で逮捕されたものの選挙に立候補した田中角栄の対抗馬として新潟選挙区に立候補し落選。二〇〇〇年代前半までは旺盛の活動を継続し、クレイジー・ケン・バンドを率いたライブも行った。二〇〇三年に脳梗塞で倒れる。盟友である永六輔とは三木鶏郎門下の構成作家として働いていたころからの仲であり、病床の野坂の口述筆記したコラムは永六輔のラジオでたびたび読み上げられていた。自称していた焼け跡派らしい活動を生涯止まなかった。
[12]「噂の真相」 岡留安則を発行人とした雑誌。前身となる「マスコミ評論」から離脱する形で「噂の真相」を創刊。作家としてだけでなくトップ屋(一面記事になるスクープ記事を記者)として知られていた梶山季之の雑誌「噂」(一九七一~一九七四)を想起させる雑誌名だが、作家の遊び場が銀座を中心とした梶山世代と対立するように、ゴールデン街にたむろした世代を象徴するような雑誌となった(後年、雑誌の裏表紙にテキストエディタソフト「Vzエディタ」の広告が掲載されていたが、広告には馳星周などゴールデン街と雑誌に馴染み深い人物が起用されていた)。マスコミの評論誌としてはマガジンハウスから発行されていた「ダカーポ」(一九八一~二〇〇七)が他にあり、書き手も一部重複していた。九〇年代後半ごろから、文藝誌における評論がテクニカルな方向へ進んだ中、従来どおりの文壇動向を伝える媒体が「ウワサの真相」一誌に集約化されたことを背景に、「噂の真相」までが文藝批評の範囲だという議論がなされたこともある。スクープ記事に対する訴訟が嵩んでいたが、発行部数が十万部を切らぬうちに終刊。
[13] 保田與重郎 一九一〇(明治四三)年四月二三日生まれ、一九八一(昭和五六)年一〇月四日死去。奈良生まれ。東大美学科。中国文学研究者の竹内好と高校時代の同級生。在学中より「コギト」、「日本浪漫派」などの同人に参加。「近代の終焉」など、シュペングラー『西洋の没落』(一九一八)などヨーロッパの相対的な地位低下を踏まえた評論を著した。農本主義的な田舎の牧歌的な生活を肯定する文章が多い。しかし至って近代的な価値観に立ち、阿部次郎『三太郎の日記』などの大正教養主義を土台にしていたことは今日知られるところである。隠者の生活を評価しながらも、自身は工業化され資本経済が行き渡った社会に根ざした生活だったことは今日問われるべきであろう。一九四八年に公職追放。回想には同志が離脱したことが少なからず綴られている点が着目される。戦後の彼に同調する反動的な読者には、保田が主宰した雑誌「浪漫」の投稿者であった富岡幸一郎などがいる。「日本人のやることとは思われない」といったニュアンスの文章で持って外国人へのヘイトスピーチ的な文章を多く書いたこともあり、政治的なレトリックを真に受けることが多い人達には全くもって薦められない。レトリカルかつ若者を惹きつけた文章を知るなら中河与一『天の夕顔』(新潮文庫)の解説文だろう。
[14] アイザイア・バーリン 一九〇九年ラトビア生、一九九七年没。二〇世紀を代表する政治哲学者とされることもあるが、思想史家である。その文章はエッセイに近いものであり、理論家というよりはカーライルやマコーレー、メーストルシラー、ゲルツェンといった「長い一九世紀」(ホブズボーム)を継承した語り部のようである。理論においてはジョン・L・オースティンら日常言語学派に親しんだ。また、観念史学派を形成したアーサー・O・ラブジョイに近く、"Dictionary of the History of Ideas"(邦訳:平凡社『西洋思想大事典』)の編集委員を務めた。
[15] 柳田國男 一八七五年兵庫県生、一九六二年没。日本における民俗学の開祖。島崎藤村ら自然文学者と交流し、文壇などで名前が知られるようになるが、官僚としての道に進む。『遠野物語』、『蝸牛考』、『明治大正世相史』などで知られる。弟子に折口信夫がおり、彼が死去した際には國學院大學での講義を代理で引き受けた。
[16] 折口信夫 一八八六年大阪生、一九五三年没。民俗学者・日本文学者。詩人としては釈迢空として知られる。歌人であり彼の弟子は歌会始撰者を務めた岡野弘彦がいる。他にも五博士と彼が名付けた弟子、ラジオやテレビの黎明期に活躍した作家・伊馬春部などが門人にいた。若い頃にコカインを使用したことや、ゲイセクシャリティであることが、彼の死後に文学的な題材として取り扱われることも多い。小説は寡作ながら『死者の書』、『身毒丸』といった翻案されることが多い作品がある。
[17] 山口瞳 一九二六年東京生、一九九五年没。國學院大學卒。卒論の題材は森鴎外。一時期早稲田大学院中退を肩書にしていたが、院友からの批判があり、現在では「國學院大學卒」と履歴に記されることが多い。若年の鎌倉在住期に川端康成の知遇を得る。編集者として職に就くが失業していたころに、広告部にありながら文筆稼業に慌ただしくなっていた開高健の穴埋めとして請われる形で寿屋(現:サントリー)に入社。トリスのキャッチコピーを担当する。のちに毎年四月ごろにサントリーが打つ「新入社員諸君へ」という広告の文章を山口が担当したのは、こうした所以による。一九六三年に『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞。川端康成にして芥川賞でも受賞ができたと評し、三島由紀夫ら戦中派を感涙せしめた小説だった。一九六三年から死ぬ直前まで「週刊新潮」でコラム「男性自身」を執筆。今日では「男性自身」は高度成長期から平成までを辿る生活誌として知られている。
[18] 斎藤十一 一九一四年北海道生、二〇〇〇年没。戦後日本を代表する編集者。新潮社社主・佐藤亮一の右腕として辣腕をふるい、「新潮」、「週刊新潮」、「FOCUS」、「新潮45+」といった雑誌の立ち上げに関わる。「新潮社の天皇」と呼ばれるほどだったが、TBSテレビ「ブロードキャスター」の番組後半に自身の映像が流れた翌日に死去。
[19] 田島陽子 一九四一年岡山生。日本を代表するフェミニスト。一九八〇年代後半からのテレビ出演で著名となり、二〇〇一年から二〇〇三年までの期間は参議院議員となった(所属政党は社民党)。メディアへの露出が多く、フェミニストとして矢面に立つことがしばしばだったが、二〇一九年には雑誌「エトセトラ」(Vol.2)で特集されたこともあり、近年再評価されている。
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