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僕たちはもっともっと深く潜ることができる『あまちゃん』| 宇野常寛

2020/05/18 07:00 投稿

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今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは2013年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』です。
『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』等で「地元」や「家族」のイメージを一新し続けてきた宮藤官九郎が、初めて朝ドラ脚本を手がけ、社会現象を巻き起こした本作。2010年代の朝ドラ再生の起爆剤となった歴史的作品で、クドカンは何を描き、何を描けなかったのか? ヒロイン・アキの体現する「アマチュアリズム」の可能性の中心を探ります。
※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。

宇野常寛コレクション vol.20
僕たちはもっともっと深く潜ることができる『あまちゃん』

 社会現象にまで発展したNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が去る9月28日についに完結した。ご存知の読者も多いだろうが、僕は本作を担当した脚本家の宮藤官九郎の大ファンであり、デビュー作の『ゼロ年代の想像力』では、宮藤を同時代で最も重要な作家として位置づけた。当時の宮藤はまだジャニーズ事務所所属の美少年タレントを主役に据えた若者向けのテレビドラマでカルトな人気を博していた存在だった。(お陰で、当時年長の批評家やその読者からは、馬鹿じゃないのかとさんざん罵られた。)
 同時に、僕はいわゆるこの「朝ドラ」のマニアの一人であり、たとえば2007~8年放映の『ちりとてちん』については放映3年後に自分の雑誌(『PLANETS』)で特集を組んだほどだ。(今年の正月にNHKで放送された『テレビ60年 連続テレビ小説“あなたの朝ドラって何!”』にも、若い朝ドラファンの代表として出演している。)
 要するに僕はクドカンと朝ドラ、双方の大ファンであり、この『あまちゃん』という企画は言ってみれば盆と正月が一緒に来たようなものだった。放送中は毎回かじりつくように、ほぼリアルタイムで視聴していたし、主宰する雑誌では『あまちゃん』特集の別冊まで出した。
 実際、『あまちゃん』は素晴らしい作品だったと思う。仮にこの作品を「採点」するのなら、100点満点で90点をつけるだろう。スタッフにキャスト、そしてそれを支えたファンコミュニティも含めて、かかわったすべての人々に心から敬意を表したいと思う。しかし勇気を出して書くとその高い完成度とは裏腹に、僕は最後までこの作品に強く心を動かされることはなかった。

 劇団「大人計画」所属の作家兼俳優である宮藤官九郎は、当時同劇団の若手としてカルトな人気を博していた。個人的には90年代の小劇場ブームにあまり関心を持てなかったこともあり、僕は宮藤の存在をほぼ知らなかった。そんな宮藤を最初に意識したのは、2000年放映のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』だった。そこには、石田衣良の同名原作に描かれていたカラーギャングなど90年代のストリートカルチャーの(やや遅れてきたがゆえに可能だった)批評的な取り込みがあり、堤幸彦が小劇場やアニメからテレビドラマに持ち込んだ実験的な演出があった。しかし僕が一番心惹かれたのは、クドカン一流の「地元」への視線だった。
 
 クドカンが描く「地元」は、それこそ多くの「朝ドラ」が描いてきたような「消費社会で忘れ去られようとしている人間の温かみのある歴史と伝統の街」とは明らかに一線を画していた。むしろそんな「物語」がもはやまったく通用しないという前提から出発したと言っても過言ではない。
 たとえば2002年放映の『木更津キャッツアイ』の舞台は当初は同じ千葉県の柏が想定されていたと言われている。要するに、東京からキャストとスタッフがロケに通うことのできる郊外都市ならば「どこでもよかった」のだ。ここで言う「郊外都市」の要件とは何か。それはかつて三浦展が「ファスト風土」と名付けた、消費社会の進行とともに画一化していった風景を持つことだ。北は北海道から南は九州・沖縄までロードサイドにファミレスとパチンコ屋とマクドナルドとブックオフと、そしてイオンのショッピングセンターが並ぶ……。主に左派論壇で否定的に扱われるこうした光景を、(少なくとも)宮藤は決して否定的には捉えなかった。当時『木更津キャッツアイ』で描かれたのは、そんな歴史や伝統と切断されたフラットな空間に、同世代のサブカルチャーや内輪受けの「ネタ」を投入することで、自分たちが生きている街を、何もない街を、自分たちのコミットで自分たちの歴史(偽史)をもつ自分たちの街に変えていく、というアプローチだった。(たとえばクドカンの描く池袋や木更津には、川㟢麻世や哀川翔、そして氣志團などが本人役で登場し、物語に関わっていく。)
 2003年放映の『マンハッタンラブストーリー』では、六本木のテレビ局の関係者が集う喫茶店「純喫茶マンハッタン」での恋愛模様が描かれた。タイトルに含まれるニューヨークの地名はまったく物語に関係せず、「マンハッタン」とは主人公たちのたむろする六本木の喫茶店の名称に過ぎない。それどころか、彼らのコミュニティと、六本木という土地の歴史と物語との関係はほぼ存在しない。主にテレビ局関係者が占める彼ら登場人物のコミュニケーションはテレビや芸能界、懐メロを中心としたサブカルチャーのデータベースの共有によって成り立っている。(ちなみに、本作の登場人物たちはロマンチック・ラブ・イデオロギーをかたくなに信仰しながらも、次々と気持ちに変化が訪れてパートナーをとっかえひっかえし、家族もどんどん流動化していく。同作は、土地にも歴史にも家族にも根拠がなくなってしまい、誰もが信じたいものを信じるしかなくなった流動化しきった世界を限界まで追求した作品に他ならない。)
 あるいは2005年の『タイガー&ドラゴン』はどうだったか。同作の舞台となるのは浅草という古い、歴史と伝統の強く作用する街だ。そこに現れた孤児の青年・虎児が落語家の大家族と出会うことで、そこに居場所を見つけていく。おそらく『あまちゃん』の基本モチーフの由来の一つがここにある。

 同作では、浅草に根付いた(比較的に)伝統ある落語家の大家族=「土地」や「家族」といった既に古びた概念を、これまで培ってきたノウハウを駆使して(たとえばサブカルチャーのデータベースとの戯れと、それに支えられた血縁を伴わない疑似家族的共同体への期待、など)再生し、その概念を拡張する。『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』で培った新しい「地元」への視線を交えることで、「歴史」と「伝統」に支えられた古い「地元」を再生していくのだ。今どきの「地元アイドル」によって過疎の地元が再生していく『あまちゃん』と同作の構造は相似形を成していく。一見何もない「地元」でも、自分たちの力で歴史をつくり、文脈をつくり「潜る」ことができる。『あまちゃん』のルーツは間違いなくここにある。東京では「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華もないパッとしない」子だったヒロイン=アキが、祖母の住む北三陸に赴くことで、生まれ変わる。付け焼刃の東北弁を操り、ミーハーな思い付きから海女としてデビューすることで居場所を見つけていくのだ。

 近年のクドカンはこうした既存の概念(地元、家族)の新しい想像力による「拡張」という手法を、もっぱら「家族」というテーマで展開してきたように思える。
 たとえば東野圭吾による有名原作を大胆にアレンジした『流星の絆』について考えてみよう。同作では、主人公兄弟が血のつながらない妹に抱く疑似近親姦的な愛情や、主人公と昔なじみの刑事との疑似的な父子関係がクローズアップされる。(これはほとんど東野原作では追求されていない要素だ。)そして同作は、過去の犯罪で家族を失った主人公たちがこうした要素を乗り越えて/用いて、いかに「家族」のイメージを拡大していくのか、伝統的共同体や家父長制的イデオロギーを超えた多様であたらしいイメージの家族に拡張していくのか、を描いていく。
 また、2011年の末に放映された『11人もいる!』では、東京近郊の大家族が、叔父や祖父はもちろん、最終的には新妻の元彼や死んだ前妻の幽霊まで包摂し、無限拡張してゆく「拡張家族」のイメージを提出した。(また、本作は震災後にクドカンがはじめて手がけた連続ドラマで、劇中では震災をテーマにしたエピソードも存在する。)

 それではここで『あまちゃん』を考える上でクドカンと並ぶもう一つのファクター「朝ドラ」の過去と現在について考えてみよう。


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