ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉――あだち充と戦後日本の青春」。『陽あたり良好!』の第二部で、あだち節ともいえる独自の作風を確立したあだち充。その背景にあるのは、日活ロマンポルノ、ジャズといった70年代サブカルチャーから得た、即興性と抵抗物によって物語の魅力を引き出す独自の方法論でした。
日活ロマンポルノと「未亡人下宿もの」
あだち充の『陽あたり良好!』と同時期に連載され、大ヒット作となった作品に、高橋留美子『めぞん一刻』がある。この両者には「未亡人下宿もの」という共通点があるが、下宿というシステムがほぼなくなった現在からすると、なぜあだちと高橋が同時期に「下宿もの」を書いたのか、イマイチわかりづらい部分がある。少しだけ時代を遡って、その経緯を振り返ってみたい。
日活は戦前から続く映画会社で、戦後まもなく石原裕次郎などの人気俳優を擁して人気を博したが、1960年代になるとワンマン社長の放漫経営などで業績下降に直面。1971年には、ほとんどの専属俳優がフリーとなってテレビや他社へと移っていった。また、同年には「撮影所システム」と言われる旧来の製作システムが衰退し、日活と配給契約を組んでいた大映が倒産。五社協定が崩壊した[1]。
そんな中、会社存続のために打った大胆な策が、ポルノ路線への転換だった。1971年11月に「日活ロマンポルノ」はスタートする。「10分に一回の性行為シーン」「上映時間は70分程度」「モザイク・ボカシが入らないように対処」などのフォーマットはあるものの、それさえ守れば監督の創造性が尊重され、どんなストーリーや演出でも日活側は口を挟まないという方針から、低予算、短納期という不遇な条件にも関わらず、作家性の高い作品がいくつも撮られた。また、毎月新作を公開し続けるために量産体制を維持する必要があり、経験の浅い若手映画人が次々と監督に抜擢された。現在広く名を知られる映画人の中にも、キャリア初期にロマンポルノ作品に携わった人は少なくない。代表的なところでは石井隆、崔洋一、周防正行、相米慎二、滝田洋二郎、森田芳光などが挙げられる。
「エロさえ入れれば何をやってもいい」という自由な気風が、若手映画人の育成に繋がった日活ロマンポルノ。その全盛期は1970年代だった。そう、あだち充が劇画作家としてデビューしたものの、一向に芽が出なかった時期と一致する。そして、あだち充の全盛期が始まる1980年代になると、日活ロマンポルノは勢いを失っていく。
その終止符を打つ役目を果たしたのは、Netflixの『全裸監督』でも描かれた、家庭用ビデオデッキの普及とアダルトビデオの登場だった。1988年に「ロマンポルノの映画制作を終了する」との記者会見が行われ、1971年から16年半に渡ったロマンポルノの時代は終焉を迎える。
現在30代半ば以上の人であれば、テレビ朝日の深夜番組『トゥナイト』『トゥナイト2』の名物レギュラー、サングラスにチョビ髭姿で「カントク」が愛称の山本晋也氏を覚えている人は多いだろう。
山本晋也監督は日活ロマンポルノを含む成人映画を約250本も撮影している。その中でも特に有名なのが「未亡人下宿」シリーズだ。日活のドル箱作品として多数の続編が作られた本シリーズにより、彼はピンク映画のヒットメーカーとして脚光を浴びた[2]。
山本はあだち充の実兄・あだち勉の師匠筋である赤塚不二夫と付き合いがあり、1979年には赤塚原案で、彼を筆頭に集まった「面白グループ」が脚本などに関わった『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』と『下落合焼きとりムービー』の監督を務めている。また赤塚やあだち勉と共に立川談志の創設した落語立川流に入門し、「立川談遊」の高座名を名乗っていた時期もある。
高橋留美子『めぞん一刻』のWikipediaには、
1970年代に山本晋也監督の「未亡人下宿」シリーズと呼ばれる日活ロマンポルノの連作がヒットしたが、成人誌への連載であることから、作品の設定に何らかの影響があったのではないかと指摘する声がある。なお、作品中五代が悪友の坂本に「未亡人三本立て」を上映中の成人映画館に「お前の好きなやつ」と誘われ、怒る場面がある。
という記述がある。
山本自身も「タモリ倶楽部」出演時に『めぞん一刻』の単行本を指して「『未亡人下宿』は漫画にもなってるんです」と自慢していたようだ。当時の共通認識として「若い未亡人」「下宿」というキーワードから、多くの若者が頭に思い浮かべたのは、山本晋也監督の『未亡人下宿』シリーズだったことは間違いない。
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