今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、2011年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』です。主人公・糸子は、父との闘争や想い人との離別を乗り越え、いかに自己実現を成し遂げたのか。名作『おしん』と対比しながら、旧来の「母」でも「家長」でもない、新しい時代の母性像について考えます。
※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
ここ一カ月、生活が不規則になってめっきり朝に起きられなくなった。今日も明け方に、事務所のソファで仮眠を取っていたら気がつくと出勤してきたスタッフに起こされていた。時計の針は午前11時を指している。勤め人たちがランチに出ると混んでしまうので、急いで寝ぐせ頭を適当に直し近所のパン屋に出かける。イートインで朝食のような、昼食のような気持ちでサンドウィッチを胃に流し込む。この気だるさは、悪くはない。しかしどうにもしっくり来ない。最近、ずっとこの調子だ。全身に力が、どこかで入りきっていない。この状態は何だろう、と僕は考える。事務所に戻って仕事をしていると午後の12時45分、僕は不意に気づく。本来あるべきものがそこにはないことに。そうか、毎朝観ていたあの番組が終わってしまったからだ、とやっと合点がいく。毎朝会っていた「彼女」にもう会えなくなってしまったからだ、と改めて気づくのだ。そう、あれから一カ月、僕は糸子のことばかり考え続けている。小原糸子─NHKの朝の連続テレビ小説『カーネーション』のヒロインだ。
小原糸子は大正2年(1913年)大阪・岸和田の呉服店の長女として生まれた。物語は少女時代の彼女が、岸和田のだんじり祭りに胸を躍らせる朝からはじまる。しかし、糸子は大好きなだんじりを引くことはできないのだとその父・善作に諭される。理由はひとつ、それは糸子が「女」だからだ。そう、この物語は家父長制的な男性性との闘争の物語として幕を開ける。
糸子は成長する中で洋服に出会う。洋服は糸子に装うことの快楽を自由に謳歌することの素晴らしさを体現する存在だ。そして洋装店を開くという夢を抱き始めた糸子は、情熱の限りをぶつけて盲目的に突き進む。そしてそんな糸子の前には常に父・善作が立ちはだかる。善作は家父長制的な男性性の象徴として、糸子の自己実現の最大の障害として描かれる。
この物語の前半における男性性とは、善作が象徴する抑圧的な家父長制のことと言い換えてもいいだろう。そのため善作以外の登場人物の男性はすべて─幼馴染も、憧れの近所のお兄ちゃんも、そして夫となる人物でさえも─おそらくは意図的にその存在感を抑えられている。物語の焦点はあくまで糸子の「女だてらの」自己実現を、彼女がいかにしてその実力をもってして善作に認めさせるかという「戦い」に絞られているからだ。
そして、物語は戦争終結と同時にこれらの男がすべて退場(死亡)することでターニング・ポイントを迎える。もちろん、この退場劇の中で重要なのは父・善作の死だ。商売人として男性顔負けの実績を築いた糸子を善作はついに認め(屈服し)店を彼女に譲る。そしてふたりの長い「戦い」は終わりを告げ、娘と父が和解を果たしたその直後に善作は客死する。そんな善作の死に付随するように、戦地に招集されていた糸子の周囲の男たち(夫や幼友達)がことごとく戦死していく。しかし彼らの死は父の死の衝撃に揺さぶられる糸子にとっては、付随物でしかない。そして「男たち」を皆殺しにして、戦争は終わる。
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