今朝のメルマガは、成馬零一さんによる寄稿の後編です。2019年の朝ドラ『なつぞら』と大河ドラマ『いだてん』は、いずれも実在の歴史が題材ですが、そのアプローチの仕方には明確な違いがあります。史実に対してフィクションはいかに向き合うべきか。象徴的な2つの作品から、今日の「現実 対 虚構」のあり方について考えます。
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連続テレビ小説『なつぞら』ーーモデルからヒントへ
実話を元にしたテレビドラマとして、現在もっとも注目されているのは、NHKの連続テレビ小説(以下、朝ドラ)と大河ドラマだろう。
朝ドラでは、9月末まで大森寿美男脚本の『なつぞら』が放送されていた。一方、2019年の大河ドラマは宮藤官九郎脚本の『いだてん~東京オリムピック噺~』が現在、放送されている。
『なつぞら』は終戦直後からスタートし、当時はまだ“漫画映画”と呼ばれていた戦後アニメーション草創期の歴史が背景となっていた。対して『いだてん』は明治末からはじまり、1964年の東京オリンピック開催にいたる「オリンピックに関わった人々の歴史」を背景にした、「事実を元にしたフィクション」だが、両作品の歴史に対するスタンスは大きく異なる。
『なつぞら』の主人公・奥原なつ(広瀬すず)は東映動画に所属した女性アニメーターの奥山怜子がモデルとなっている。だが、この言い方は正確ではない。公式にはモデルではなく「ヒントになった」と表記されている。この、モデルを特定しないという傾向は近年の朝ドラで強まっており、2016年の『とと姉ちゃん』からは「モチーフ」と言われるようになっている(参照)。
『とと姉ちゃん』プロデューサー・落合将はモデルとモチーフの違いについて「基本的にそんなに差はないと思います。簡単にいうと、朝ドラは、多少コメディタッチにディフォルメしています」と語っているが、邪推すると「史実と違う」という批判をかわして、作品の自由度を高めるための苦肉の策にも思える。
『なつぞら』では、その傾向はより強まっており、“ヒント”という言い方をすることで、より(史実をもとにした)フィクションというカラーが強まっている。
脚本を担当した大森寿美男はインタビューの中で以下のように語っている。
孤児のヒロインが黎明期のアニメーションと出会うことにして、なつが、当時、実際、活躍していた女性アニメーターの草分け的存在・奥山玲子さんのような立場になったらどういうふうな反応をするかという発想で話を考えました。奥山玲子さん自身を描くつもりではなくて、当時の女性アニメーターの参考例として旦那さんの小田部羊一さんに取材させて頂いたんです
(「なつぞら」最終回 脚本家が明かすぎりぎりの創作秘話。「締めのナレーションには好き嫌いがあると思う」(インタビュー:木俣冬))
ヒロインの奥原なつは、奥村怜子の経歴や性格を部分的に採用したり逆に戦災孤児で北海道の酪農家の元で育ったというオリジナル要素を加えたりしている。
後者の要素は、アニメーションというテーマと重ねるため『アルプスの少女ハイジ』や『火垂るの墓』のキャラクターから引用した要素なのだが、こういったさまざまな設定が混ざり込んでいる。
一方で奥村自身が持っていた自立した女性としての生き方や考え方、つまりフェミニズム的な価値観は、柴田夕見子(福地桃子)ら他の女性キャラクターに割当られており、そういった設定の足し算と引き算が各キャラクター間でおこなわれている。ある種、タランティーノが作劇手法としてもちいた「引用と編集」がキャラクターレベルでおこなわれていると言えるだろう。
また、奥村は実際には小田部羊一と結婚したのが、ドラマのなつは、高畑勲をヒントに造形された坂場一久(中川大志)と結婚する。そして劇中に登場するなつが関わったアニメも、現実の作品をヒントにした架空のものとなっている。
こういった改変に関しては意見が分かれるところだろうが、アニメ関係者からの批判はほとんどなかった。これは奥村の夫だった小田部がアニメーション時代考証を担当し、アニメーション監修に元スタジオジブリの舘野仁美が関わっていたことも大きいだろう。
確かにスタジオの名前は東映動画から東洋動画に変更され、『白蛇伝』は『白蛇姫』に変わったが、歴史的な経緯は史実を踏まえており、流れ自体は間違っていない。
なつが十勝で暮らした経験が後に『大草原の小さな家』を原案とする『大草原の少女ソラ』(無論、『アルプスの少女ハイジ』がヒントとなっている)に修練されていくとことで、なつの日常とアニメが対照関係になっている脚本は実に見事だったと言えよう。
しかし、東映動画と奥山玲子、そして彼女の同僚だった高畑勲、宮崎駿といった人々を描いた物語と見た時に、果たしてこの展開で良かったのか? と疑問が残る。
特に宮崎駿の高畑への愛憎を知っていると、宮崎駿にヒントを得た神地航也(染谷将太)の扱いは粗雑でストーリーにうまく生かされていない。
本来なら宮崎・高畑の功績とされる作品の多くが奥原(奥山)・坂場(高畑)の功績に書き換えられているのをみていると「史実をヒントにしたフィクション」だとわかっていても、その解釈は違うのではないかと思ってしまうのだ。
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