今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第7回の後編をお届けします。「9.11」で幕を開けた2000年代。政治・言論の領域では「歴史の失効」と「運動への回帰」が進行します。インターネットの大衆化と2ちゃんねるの隆盛にともない、変化する社会の力学。それを利用したのは、昭和期には非主流派だった「異形の父たち」でした。
崩壊するアソシエーション
2001年9月11日、イスラム原理主義のテロ組織がハイジャックした旅客機を世界貿易センター(ニューヨーク)とアメリカ国防総省(ワシントンDC)に激突させた事件は、日米関係においても大きな転機となりました。報復として翌月からアフガニスタン空爆に踏み切ったアメリカを、小泉政権は全面的に支持、後方支援のためのテロ対策特措法を一か月で成立させます。あえて軽薄にいうなら、目下の事態への対応という「イシュー・ドリヴン」なプロセスが、憲法に照らした際の整合性という原則論をすり抜けて進行してゆく。そこから2003年末、名目上は非戦闘地域に限ってのイラク戦争への自衛隊派遣までは一直線でした。
換言すると、それは「現在」の存在感が突出し、すでにやせ衰えていた「歴史」(連載第5回)の形骸化を確認する儀式だったとも言えます。大東亜戦争を肯定的にとらえ、欧米の植民地主義と戦った日本の戦争を評価せよと唱えてきた「保守論客」が、次々と親米路線(対テロ戦争支持)を表明して現状追認に転じる姿に失望し、2002年春に小林よしのり・西部邁の両氏が「つくる会」を去りました。運動体が掲げた「新しい歴史教科書」がじっさいのところ、反左翼・反戦後を示す記号にすぎず、そこで語られている物語を本気で生きている人はほぼいなかった[19]。平成後半の西部・小林は、戦後を否定し憲法改正を唱えながらも、目下の自民党政権による対米従属(とその現れとしての立憲主義の空洞化)を批判する、ややこしい反米保守の隘路へと入ってゆきます。
そして小林氏の『ゴー宣』とほぼ同時に始まり、左派かつ高等的な形で平成の新しい言論を担ってきた『批評空間』も(連載第2回)、対をなすかのように現実の政治情勢のなかで翻弄され、終焉を迎えてゆきました。きっかけは、中心人物だった柄谷行人が2000年6月末に立ち上げた社会運動NAM(New Associationist Movement)の失敗でしたが、物語論的には翌年頭の文芸誌での村上龍(作家)との対談で、同氏がこんな発言をしていることが目に留まります。
柄谷 台湾の候孝賢の『非情城市』〔1989年。日本公開翌年〕を見たときに、このひとははっきり主題をもっていて、この映画で台湾の運命を描いている〔のに……〕パンフレットみたいなのを見たら、蓮實重彦が、ここのアングルは小津の引用だとか、そういうことしか書いていないんですよ。
村上 本当ですか。
柄谷 監督はあきらかに、そのような主題なしにこの映画をつくらなかっただろう。〔……〕しかし、蓮實重彦は主題などを見るのは素人だ、俺はそんなバカではないという感じで書いていた。[20]
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