今朝のPLANETSアーカイブスは、『母性のディストピア』の文庫版( I 接触篇/II 発動篇)の発売を記念して、単行本発売時(2017年)に配信された宇野常寛の寄稿を再配信します。【書籍情報】
「新しい思考」の場となることを期待されていたはずのインターネットは、いまや自尊心を守るために他人を叩くための場となってしまいました。宇野がこの卑しさを解き放つ活路を見出したのは、アニメ、ゲーム、アイドルについて語ることでした。人々の欲望にまみれた市場の中の表現にこそ世界の真実が露呈する。宇野が思いのたけをぶつけた原稿を全文無料公開でお届けします。
※本記事は2017年10月27日に配信された記事の再配信です。
▲『母性のディストピア I 接触篇/II 発動篇』(ハヤカワ文庫JA)
この1ヶ月あまり、いろいろなことがありすぎた。
ご存知の方も多いと思うのだけど、僕は先月末に2年半レギュラーを務めたテレビ番組をクビになった。この1年、日本テレビは僕の発言(特に政治的な発言とマスコミへの批判)を押さえ込みたくて仕方なかったらしく、ちょくちょく衝突を繰り返していた。特に決定的だったのがアパホテルの出版した歴史修正主義への批判だ。誰がどう呼び出したのかは「知らない」(想像はつく)が、その少し後に日本テレビに街宣車が複数回押し寄せて来た。そして日本テレビの上層部は「出演者の発言を〈コントロールせよ〉」と指示を出した。常識的に考えて、右翼街宣車の類にマスメディアがビビって出演者の発言を抑制する、なんてのはジャーナリズムとして問題外だと思うのだが、日本テレビは本当にそうしたのだから開いた口が塞がらない。あるいは、以前から僕の発言を「コントロール」したいと彼らは考えていて、その口実に街宣車を使ったのかもしれないが、まあ、どちらにせよどうしようもなく終わっている対応だ。
そして忘れもしないあの日、僕は秋頃に着任したばかりのプロデューサーに本番前に詰め寄られ、右翼批判をするなと要求された。うっかり打ち合わせの席で、(モリカケ問題に際して)安倍晋三周辺をウロつくカルトな保守勢力の問題に言及したいと漏らしてしまい、それを現場のプロデューサーにチクられたのだ。当然、僕は完全拒否した。「なら辞めてもらいます」とその場で言われた。僕は辞めてもいいのでそのまま言いたいことを言うと告げたところさらに激怒されて、言い合いになった。本番がはじまって、冒頭のVTRが流れても言い合いが続き、最終的にはスタジオ全体に響く声で怒鳴られた。さすがにVTRが終わって、スタジオの生放送がはじまると言い合いは終わった。そして僕はこれを言ったらもう近いうちに辞めることになるのかもな、と思いながら宣告した通り、安倍政権のカルト保守性をはっきりと批判した。あとで聞いた話だと、そのプロデューサーはスタジオの裏で激怒し、怒鳴り散らし、そして持病の高血圧に影響して立っていられなくなり、医務室で寝込んでしまったらしい。ちょっと悪いことをした気がするが、僕もいち言論人として言うべきことは言わなければいけないので、後悔はしていない。
このときは、結局僕をキャスティングしたもう一人のプロデューサーが間に入り僕のクビ問題は「保留」になった。しかし人事異動があり、その間に入ってくれた彼が番組を去ったとき、ああ、9月か次の3月でクビになるな、と思った。そして実際にそうなった。
そしてそこからが大変だった。
当然、僕はクビの経緯を暴露した。遠からずクビになると予測していた僕は一連の経緯を暴露しようとずっと考えていた。すると、ネット右翼がわんさか押し寄せてきた。「アパホテルが歴史修正主義とは何事か」「南京事件はでっちあげだ」「お前は中韓の手先だ」「日本から出て行け」……常にTwitterを立ち上げると、通知欄が彼らからの罵倒で埋まっていた。自分が「日本人である」という実力で勝ち取ったものではないものにすがることでしか、自分を保てない人たち。そのために隣国を差別し、陰謀論を信じることを必要としてしまうひとたち。彼らのツイートの文面は特定のテンプレートに従ったように一様で、決まり文句の羅列で、自分の頭で考えられたものはいちフレーズもなかった。そしてプロフィール欄には「中韓」と「左翼」への罵詈雑言が連ねられていた。それは彼らが「政治的主張(未満の何か)」くらいしか自己紹介に書くことがないことの証明だったが、それに気づいている人はほとんどいないようだった。
だとすると彼らの「治療」は不可能だ。批判的な知性を前提とした歴史理解の方法を啓蒙することや、民主政治の原則を一々説くことはもちろん重要だけれど、その対象はもはや彼らではなく若い人たちに向けるべきだと僕は思った。彼らに必要なのはむしろローカルな承認欲求だ。家族でも友人でも仕事仲間でもいい。あなたはここにいていい、いて欲しい、というメッセージがあれば彼らはここまで卑しくならなかったはずだ。だから彼らを論破すること、あるいは冷静さを説くことにあまり意味はない。意味はあるとしたら、まだそうなっていない(しかりサイコロを振って変な目が出たらそうなりかねない)若い人たちに反面教師を晒すこと、それだけだと思った。
こうして僕は毎日適当に数ツイートを選んで、「症例」を晒すことにした。その結果としていわゆる「炎上」が常態化することになったのだけど、このタイミングは自分のいまのメディア状況や言論空間に対する絶望と怒りを表明するタイミングだと考えたので、続けた。すると今度は、あの安倍晋三がモリカケ問題のダメージコントロールを目的に解散総選挙に打って出た。そして(当時の)野党第一党民進党は迎撃態勢を急遽整えることになったのだが、このとき僕はあるインターネット番組で従来の野党共闘路線は長期的には有害であると批判した。すると今度は左側からの罵詈雑言がTwitterを埋め尽くすことになった。野党共闘という選挙戦術を批判しただけで、僕は一夜にして左翼たちに「安倍晋三信者のネット右翼」という脳内設定に基いて石を投げられる存在になった。選挙後は立憲民主党の「勝利」「躍進」ムードを自民圧勝の現実からの逃避にすぎないと批判したところ、この「炎上」は決定的になった。
曰く「お前は日本会議の手先だ」「(2/3取られてるのに)これで改憲は止めやすくなった。批判するな」「政治にお前みたいな素人が口出しするな」……。仮にも「リベラル」政党を自認する立憲民主党の支持者が「素人は政治に口出しするな」とか言い出すのはもう完全にアウトだと思うのだが、彼らからのこの種の罵詈雑言はこうしている今も鳴り止んでいない。
と、いうかそもそも僕はつい一ヶ月前に政権批判と右翼批判を理由に仕事を失ったばかりで、今回の選挙も消去法だが小選挙区は立憲民主党の候補に投票しているし、彼らの「仇敵」小池百合子のことも厳しく批判しているはずなのだが、この選挙が自民党の圧勝であるという現実を直視しろというメッセージを発する「空気の読めない」人間は絶対に許容できず、その時点で「敵」と認定されるようだった。
もう何もかもがバカバカしい。正直言ってそんな気分になることが、一日に何回もある。僕が「症例」として晒した人々が自民党支持者のごく一部であるように、僕を責め立てた人たちも立民党支持者のごく一部なのだろう。しかし、彼らがこの国の言論空間の一角を占めて、存在感を示していることも事実だ。難しいことは考えない。複雑なことは考えない。世界は敵か味方かに二分されていて、どちら側に所属しているか、だけが彼らの問題なのだ。そしてこうした安易な思考停止を批判する人間こそが、もっとも彼らの「敵」なのだ。
この圧倒的な現実を前に、一体どうしたらいいのか。僕なりに精一杯考えて、この2年半やって来たつもりだった。
たぶん彼らが感じているのは生きている実感のようなものなのだと思う。
「普通の人」は週に1人生贄を定め、みんなで石を投げ、ああ、私たちは「まとも」な側の人間なのだと安心し、「スッキリ」する。
そして普通より「少し弱い人」は世界を左右に二分割して、自分たちの脳内設定に少しでもヒビを入れる人は「あちら側」なのだと断じて石を投げる。そして、まるで自分が正義の戦士にでもなったかのような錯覚を得る。
それがこの国の人々のもっともメジャーに普及した、そして卑しい自尊心の保護方法なのだ。
そしてそれを低コストで可能にしている支援装置が、残念ながら僕たちのインターネットだ。
僕たちはテレビワイドショー的な「いじめ」エンターテインメントとも、図式化された左右の戦後的イデオロギー対立の場とも異なる「新しい思考」の回路を求めてきた。それがこの国のインターネットだったはずだった。しかしそれは遠い、遠い昔のことだ。いまやインターネットは新聞の、テレビの補完装置だ。そのもっとも卑しい部分を受け継いで、拡大させた世界で最も窮屈で不自由な場所になってしまった。
そこで僕はこうした行為自体が間違っているのだと、こうした人々の卑しい欲望に訴える報道のあり方自体が間違えているのだと、もっとも巨大なメディアから全国に向かって主張を続けたがそのことで疎まれ、番組を追い出されてしまった。
状況を少しでもマシにするという僕のこの2年半のプロジェクトは失敗に終わった。
いや、それなりに成果は上げたと思っているが少なくともその継続は不可能になった。
では、どうすればいいのか。
答えは明白だ。
この現実の、この構造そのものを変える。
もはやそれしか僕には残されていない。
そのためにはまず彼らの、この国の卑しさを、安易さをもたらしたものは何なのか、それを解き明かすことが必要だ。
この国の戦後という長すぎた時間を支配した精神性のメカニズムを解き明かすことだ。
この国のインターネットを覆う「下からの全体主義」がいかにして成立したのか、そのメカニズムを解き明かすことだ。
そしてそれを終わらせる方法を見つけ出すことだ。
『母性のディストピア』はそのために書かれた本だ。
アニメについて書かれたものが、どうしてこの国の「長すぎた戦後」を終わらせるための思考につながるのか、疑問に思う読者も多いだろう。
だが、それを言うならこの僕がこの国の政治と社会について語っている事自体がそもそも間違っていることになる。
僕が新聞で、ラジオで、テレビで「政治」を「社会問題」を語るとき背景にしているものは、ハッキリ言えばアニメについて、ゲームについて、アイドルについて考えることで得られた論理と知見に他ならない。それ以外のものはほんとうに何もない。しかしハッキリ言うが大抵の場合は凡百の識者よりも、僕のほうが問題の本質を的確にえぐり出すことができていたはずだ。
なぜか。
答えは簡単だ。
この国のサブカルチャーには、アニメには、ゲームには、アイドルには世界の真実が露呈していたからだ。
形式化し、建前化し、そして茶番と化した昼の世界の薄っぺらい言葉よりも、アニメの、ゲームの、アイドルの、人々の欲望にまみれた市場の中の表現にこそ、この国の長すぎた戦後の本質が露呈していたからだ。
断言しよう。安倍晋三や小池百合子について1万時間かけて語ったとしてもこの国は変える方法は見つからない。しかしナウシカについて、シャアについて考えることで僕たちは、この国を覆う見えないベールについてもっとも正確に考えることができるだろう。そして少なくとも、僕はこれまでそうしてきた。
だからあなたがもし、インターネットで「炎上」中のあの話題に、流れに乗ってコメントしたくなったことが一度でもあれば、あるいは
あなたがもし、20世紀的な左右のイデオロギーに身を任せることで気持ちが高揚したことが一度でもあるのなら、この本を読んで欲しい。いや、読むべきだ。なぜならばこの本はそんな卑しさと貧しさがどこから産まれ、そしてどう人々を巻き込んでいるかについて考えた本だからだ。
ここで論じられたものはたしかに現実ではない。しかし現実でないからこそ、露呈されている真実がある。この国の、形式化した、建前化した、何かを演じることでしか成立しない社会では決して見える形にはならなかったものを、この国の人々は虚構の中で表現してきたのだ。たとえば、アニメの中の「戦争」として。
虚構の、サブカルチャーの、アニメの世界だけに露呈した真実。それを直視することではじめて理解できるこの国の、戦後という長すぎた時間の本質。そしてそれを終わらせる方法。僕は512ページでそれを考え尽くした。それはアニメを経由した何かではない。回り道でもなければ、アイロニーでもない。アニメを批評することがもっとも直接的にそれに触れることだった。それだけだ。そしていま僕が述べたことが、ほんの少しでも心をざわつかせたのなら、この本を手にとって欲しい。これはあなたのために書かれた本だ。
(了)
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