工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』。近年のインバウンドブームで安易な観光ビジネスが蔓延する京都の現状を踏まえつつ、〈共感〉に頼らずに他者をもてなす発想と、豊かなコミュケーションを引き出す茶の可能性について考えます。
京都の観光は何を目指すべきか
丸若 最近、仕事で京都に行くことが多いのですけど、外から見ている観光都市・京都ではなく、京都の同世代の人たちとコミュニケーションを深めていくと、日本が京都を始め国際化をしていくときの落とし穴みたいなものを気付かせてもらいます。
宇野 そうですね。僕も大学の仕事で京都はよく行くし、若い頃何年か住んでいたこともあってとても思い入れのある街なんですけれど、いま、明らかにインバウンドのバブルでおかしくなっている。もともと僕は観光地としての京都って全然好きじゃないんです。もともと京都に限らず観光産業には、観光客の求める姿を演じるためにコスプレしている側面があると思うのだけど、最近はいよいよそういうプレイヤーが増えたように思うんです。街中ホテルだらけになっているし、あの安い着物もどきを3000円くらいで外国人観光客に貸し出す業者とか、どうにかなんないのかと思う。
丸若 極端な例えですが、現代のパリの街にマリー・アントワネットの格好をした人たちがいるようなもので、それを本当に美しいと思えるのかどうか。なぜ着物を街中に出していきたいのかが、僕はあまり腑に落ちていないんですよね。本質的な意図は分かるんですが、現状の「着物で京都」な感じは単純にダサイです。
宇野 僕はウィキペディアやデジカメがある今、現地に足を運んで絵葉書と同じ景色の写真を撮って確認して、現地のトラディショナルな服を着てコスチュームプレイをすることに、どれだけ意味があるのかと思うんですよ。確かに19世紀や20世紀にはあったのかもしれない。でも、これだけ情報化されて、知識も瞬間的に無料で手に入る時代に、人々がわざわざ街に身体を運んで味わわなくてはいけないものってなんだろうかと。旅先でずっと俯いてスマホでウィキペディアを調べているような人たちは、本当に街を味わっていると言えるのだろうかと。
丸若 人間は賢くなり過ぎておかしくなっているのかもしれませんね。
この「客」という存在をどう捉えるか。客と言った瞬間に他者という認識になるけど、旅先では自分が客になることもある。この両者は本当は同一のもので、要は、自分はどうありたいかということなんですよね。結局のところ、すべてが怠惰で安易だし軽くなってきている。観光地で着物を着て満足するのも怠惰から生まれる発想で。それで排気ガスにまみれてネオンサインだらけのコンクリートの街を歩くことに何の情緒もないですよね。
宇野 情緒もへったくれもない。本当に味わうべきは、違う時間の流れなんですよね。歴史のある街には近代的な時間とは違った、言ってしまえば前近代的な「間」みたいなものが部分的に残っていて。中でも京都は、それが最も集約されて生き残っている街のはずです。本来は、そのゆっくり流れる時間、いや、「間」みたいなものを味わってもらわなきゃいけない。でも今は、それを持ち帰ってもらうためのアプローチとして、3,000円のレンタル着物が象徴するように、全部逆の方向に行ってると思うんですよね。
モノとコトから考える「もてなし」の本質
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