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モラトリアムを受け止めるために ――山下敦弘と「間違えた男たち」の青春(PLANETSアーカイブス)

2018/11/26 07:00 投稿

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  • 前田敦子
  • もらとりあむタマ子
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今朝のPLANETSアーカイブスは、『観ずに死ねるか ! 傑作青春シネマ邦画編』に宇野常寛が書き下ろした「山下敦弘論」を掲載します。『マイ・バック・ページ』以降、従来のモチーフを捨て、「少女」を撮り始めた山下監督の新たな展開とは――?(初出:『観ずに死ねるか ! 傑作青春シネマ邦画編』鉄人社)
※この記事は2014年6月12日に配信した記事の再配信です。

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▲『もらとりあむタマ子

■前田敦子の正しく死んだような目
 
 去年(2013年)の夏のことだったと思うのだが、山下監督と夕食を食べる機会があった。意外なところに共通の知り合いがいて、じゃあ久しぶりに、という話の流れになったのだと記憶している。
 僕の事務所のある高田馬場に監督はひょっこり現れて、世間話をしながら箸を進めた。監督と食事をするのははじめてだったけれど、よく飲む人だった。
 話題が一段落したところで、「あ、そういえばこれを宇野さんに渡そうと思って」と言って取り出したのが、「もらとりあむタマ子」のサンプルディスクだった。終電近くまで飲み食いして、自宅に戻ってすぐに観た。主役の前田敦子は、正しく死んだような目をしていた。もちろん、褒め言葉だ。
 本作において前田敦子が演じているのは、大学卒業後特に就職もせずに自宅でごろごろしている無職女性だ。自意識が強いくせに、いや強いからこそ何者にもなれない自分を受け入れられなくて、何もやろうとしない。そんなヒロインを前田敦子は十二分に演じてるし、いや、それ以上に前田敦子のあの、勃興期のAKB48の激流の中にあってもマイペースを守り続けたデタッチメントの姿勢はこのヒロインと高いシンクロニシティを発揮していたと思う。実際どうなのかはともかく、観ている人間に「あっちゃんって本当にこういう奴なんだろうな」と思わせる佇まいをこのヒロイン・タマ子は獲得しているし、それが山下監督の狙いだったのだとも思う。
 しかし、見終わったあと、僕には妙に引っかかるものがあった。もちろん、映画の出来に不満があったわけではない。企画の発端は監督自身から聞いていたが、なし崩し的に長編映画になっていった企画とは思えないくらい、過不足のない出来だったと思う。だから僕が引っかかったのは別のことで、それは言ってみれば山下敦弘にしては珍しく、この映画には自分自身の「いま」が現れてしまっているように見えたことだ。
 もっとはっきり言ってしまえばこの「モラトリアム」とはあっちゃんのことではなく監督自身のことだ、というのが僕の感想なのだ。
 
 
■「気まずい現実」を他人事としてしかコミットできない諦念
 
 山下敦弘はずっと青春映画を撮ってきた監督だと僕は思っている。たとえば90年代に青春期を過ごした多くの同世代の作家たちが、何も起こらない世界に暮らす、何ものにもなれない人たちの青春を描き続けて来たと言える。
 「政治と文学」という古い言葉が体現する世界と個人との距離感の問題は若者文化から後退して久しく、そんな「政治の季節から消費社会へ」のダイナミズムでものを語れた時代も(空騒ぎして見せることに意味のあった時代も)バブルの崩壊と同時に遠い過去のことになってしまった。その結果、90年代に多感なお年頃を生きた僕たちに残されたのは、そんな何もない世界(「終わりなき日常」でも「平坦な戦場」でもなんでもいい)でいかに生きて行くか、だった。だから彼らの作品とその観客達が往々にして自意識過剰なのは当然の話で、個人の自意識にどう決着を付けるのか、という問題だけがどこまでも肥大していったのが90年代のサブカルチャーであり、そんな90年代「サブカル」の自意識を引きずったまま中年になってしまった団塊ジュニア達の憂鬱の種はここにあるからだ。
 そんな時代を背景に山下という作家が撮り続けていたのは、自意識の問題だけが肥大せざるを得ない世界(何もない、何も起こらない世界)を受け止めながらも、自分の自意識語りでその欠落をすら埋められない、決して自分自身は主人公になり得ないという感覚だったと言える。もはや自分の人生と自意識しか語るべきことはない世界に放り出されていながらも、山下の描く世界の住人たちはその主人公としてドラマチックに自らを語る権利を与えられないのだ。山下の映画に登場する人々は、「カッコ悪い自分/何ものにもなれない自分の自意識を語る」ことでその無様さを引き受けている自分という最後のナルシシズムの砦すらも奪われている。
 たとえば「リアリズムの宿」(03)の二人組の佇まいそのものがそうだし、「どんてん生活」(99)のラストシーンで示される滑稽で不格好な「気まずい現実」でさえも他人事としてしかコミットできないという諦念がそうだ。「その男・狂棒に突き」(03/短編)の他人の滑稽さを通してしか世界を眺めることのできない寂しさの背景にあるのも、こうした諦念だろう。
 矮小で滑稽なものにすぎない個人の自意識の問題に開き直り、それを語り続けることでしか当事者になることができない(「平坦な戦場」を生き延びることができない)のが90年代のサブカルチャーに仮託された若者の感覚だとするのならば、そこから半歩ずれた山下敦弘の映画が切り取っていたのは、その矮小さと滑稽の当事者にすらなれないという絶望未満の諦念だったのだと僕は思う。
 
 
■撃つべき対象が見つからない
 
 だから「松ヶ根乱射事件」(06/同作はある時期までの山下映画の集大成と言える)の結末で主人公が「乱射」するのは、彼が撃つべき対象を見つけられないからだ。撃つべき対象(たとえば大文字の「政治」)を失い、自分自身しか撃てなくなった世界が90年代だとするのなら、山下が描いていたのは自分自身すら撃てない世界だ。だから松ヶ根乱射事件の主人公・光太郎は銃を「乱射」するしかなかったのだ。そう、「乱射」とはターゲットを持たない狙撃のことをいう。自分という物語すら信じられない光太郎は撃つべき対象をどこにも(自分の内面にすらも)見つけられず、「乱射」するしかなかったのだ。
 対象を失った結果、自分を撃つしかなくなり、そして自分すらも撃てなくなったのが現代ならばそのルーツはどこにあるのか? 山下が「マイ・バック・ページ」(11)で学生反乱の時代にそのルーツを求めたのは必然だったと言える。
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