本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線を消失させようとしているチームラボ。その試みは、究極的には人類が直面している最後の境界線、時間的な境界の無化へとつながっていきます。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線の消失――これらが達成されたときに起こることは何か。それは私たちが媒介なく直接世界に触れることができる、ということだ。
それは平面というものが本質的に人間にとって媒介的なものであるからだ。
パースペクティブにせよ、超主観空間にせよ、それは空間を平面に置き換えることで、複雑で莫大な情報量を持つ世界を整理し、人間の(言語的な)理性に把握しやすく加工するための論理だ。私たちにとっては、それがどれほどインタラクティブな構造を持っていようとも、平面に整理されたものは一度抽象化され、整理され、言語的なものに接近したものにすぎないのだ。
しかし前述の通り、猪子がデジタルアートを用いてこれら「境界」を突破することは、人間の身体的な(非言語的な)知を発動させることに等しい。そのためには私たちはまず、世界に媒介なく直接触れる必要がある。
だからこそ、カラスはモニターの中から飛び立つ必要があったのだ。そしてその「離陸」は徐々に、そして慎重に進められたものだ。
たとえば、〈カラス〉の発展形である〈追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく- Light in Space〉は、この「離陸」までの試行錯誤の過程としてとらえられる。
同作ではモニターの分割が採用されない代わりに、密室の中に投影された作品(映像)の側が移動し、鑑賞者たちの視点に徐々に合っていく。これによって、鑑賞者は自分を包み込む風景そのものが動いているような錯覚に陥る。もし、仮に鑑賞者が歩きまわったとしても、それに合わせて作品の側が変化し、鑑賞者は世界の側に追いつかれ、そして強い没入感を味わうことができる。ここにはもし仮に複数の鑑賞者がいた場合、彼らが一箇所に集まって鑑賞することではじめてこの強い没入感を共有できる(逆にバラバラに動いていると、作品の側が誰の視点に合わせていいか分からず、この機能は働かない)という、実に猪子らしい他者観に基づいた仕組みが備えられているのだが、ここではそれは本題ではない。映像そのものはオーソドックスなパースペクティブで描写されたアニメーションにすぎない本作は、この時期のチームラボが超主観空間による新しい平面の獲得から、そこで得られた世界そのものの実空間の演出へと離脱するための助走として位置づけられるだろう。
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