毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。 傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス!
今回は『ダ・ヴィンチ』に掲載された宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」をお届けします。『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。
初出:
『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA) ※本記事は2015年1月14日に配信した記事の再配信です。
先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。
《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』
これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。
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