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『知性は死なない――平成の鬱をこえて』を上梓した、歴史学者の與那覇潤さんと宇野常寛の対談の後編をお届けします。平成初期の「啓蒙の時代」、2000年代初頭の「インターネットの理想」が頓挫した後に、ソーシャルメディアによる「言葉のインスタ化」の時代が始まります。平成の30年間を総括しながら、次世代を担うであろう知性の萌芽について語り合いました。
この記事の前編はこちら。
本記事内のリンクに誤りがあったため、修正いたしました。記事をお読みくださった皆さまにはご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。【5月1日10時45分追記】
書籍情報
『知性は死なない――平成の鬱をこえて』 平成とはなんだったのか!? 崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探して―いま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!
「95年の思想」と「啓蒙の時代」
與那覇 2014年から長期連載になる予定だった、宇野さんと一緒にベストセラーを読み解きながら平成史を語る企画を、自分の病気でだめにしてしまって本当に申し訳なかったと思っているのですが…。そこで考えたかったことのひとつが、「平成の啓蒙主義」はいかに挫折したか、ということだったんです。
たとえば1994年に、東京大学出版会から東大駒場の名物教授たちのオムニバスという形で出された『知の技法』が、数十万部売れるということがありました。「象牙の塔から開かれた濃密さへ」みたいなコピーだったと思うけど、昭和の頃はエリート限定で閉ざされていた知性が平成にはオープンになり、国民全体の知的な底上げが起きる、いや起こすんだといったムードがあったと思うんです。東大教授がベストセラーを出すどころか、ジャーナリストの立花隆さんが「知の巨人」と言われて、「いまの東大生は教養がない。もっと上を目指せ」みたいに煽って、ますます人気が出るといった現象も起きました。
宇野さんの『ゼロ年代の想像力』では、「95年の思想」とその破綻が論じられていましたよね。95年に発生したオウム真理教事件に集約される問題と格闘して、処方箋を模索するすごく真摯な試みが宮台真司・小林よしのり・庵野秀明の各氏によってなされたけど、それらは発表されると同時に行き詰まってしまってもいたと。にもかかわらず、なのか、まさにそれゆえに、なのかはわからないのですが、ぼくはその後の1996年から2001年くらいまでが、いわば「啓蒙2.0」――そういう表記はこの頃まだなかったですが――の時代だったと思うんです。
右派であれば「新しい歴史教科書をつくる会」が96年末に記者会見をして(翌年初頭に発足)、小林さんがその主張を漫画で描きまくった。賛否は別にして、少なくとも戦前世代の軍国老人どうしでなれあうんじゃなくて、若い人たちを「啓蒙」して国民的な主体にするんだという意識があったわけです。左派的な側でも、やはり96年の丸山眞男の死を一つの契機として、姜尚中さんや高橋哲哉さんによって、「戦後啓蒙」の死角になっていたところに光を当てていこうと。たとえば旧植民地の視点をもっと取り入れて、連帯して、よりバージョンアップした市民社会を下から築いていこうという試みがなされました。
いわばここまでは、戦後民主主義と同様に「啓蒙」は続けようと。ただし、戦後日本が見落としたものを拾う方向で、という空気が言論の世界で広く共有され、育成されるべきは「国民」か「市民」かをめぐって、識者が争った時代だったと思うんです。しかしそれが2000年代前半に、左右ともガタガタッとコケていき、啓蒙へのエネルギーがむしろ「自己啓発」に向かうようになる。2007年から一世を風靡しはじめた勝間和代さん的な、国民でも市民でもなく「自分」が賢くなって、もっと稼ぎましょう、という潮流に傾いていった。
宇野 「95年の思想」と「啓蒙の時代」はシームレスに繋がっていると言えます。「95年の思想」には、80年代的な「ネタ」の時代からの90年代前半のバックラッシュとしての「ベタ」への転換が背景にあった。中身のないこと、意味のないことに意味があるというモードの80年代に対して、90年代になると文学者たちが湾岸戦争反対の署名運動をやり、『それが大事』や『愛は勝つ』がミリオンセラーになるベタソングブームがあった。この「ベタ回帰」に対して、ためらいや試行錯誤を受け入れて、あえて迷い続けることを選ぶ態度。「80年代の相対主義には戻れないが、かといってベタ回帰に陥るのも避けたい」というある種の良心が「95年の思想」には込められていたわけです。しかし、それはニーチェ主義的な超人思想でもあったわけです。小林よしのりさんの変節が体現するように、人間はその状況には耐えられず、やがて「人は物語なしでは生きられない」という開き直りの方が強くなっていく。平成初期の時点では、まだ啓蒙という理念が生きていて、それが右では「新しい教科書をつくる会」、左ではカルチュラル・スタディーズやポリティカル・コレクトネスの動向として現れていた。どちらもイデオロギー回帰的な運動体ですが、與那覇さんのお考えでは当時のこれらの運動にはまだ動員のロジックに負けない啓蒙主義の強さがあった、というわけですね。
與那覇 もちろん動員は動員なのだけど、「最初から味方」な人たちを動かせばそれでいいんだ、というのではなく、ニュートラルな人たちに訴えかけて、新しく味方を作っていくことを真剣に考えてはいた。それが啓蒙ということではないでしょうか。政治的にも1996年にオリジナルの民主党が結成されたときは、「自民党・対・小沢一郎」みたいな、どっちもプロどうしの札束合戦、既存の組織票の積みあいはもう嫌だと。健全なアマチュアリズムをめざそうじゃないかという、時代の空気をつかんだ面はあったと思う。
木村幹さんの『日韓歴史認識問題とは何か』での「つくる会」評に感嘆したのは、そこを描かれているところでした。直前までむしろリベラルだった小林さん、もとは共産党系の教育学者だった藤岡信勝さんが前面に出て、アマチュアに訴えかける手法を持ち込んで展開した点が、それまでの保守系の運動とは違っていた。いまの若い方は知らないと思うけど、『教科書が教えない歴史』みたいなタイトルって、昭和時代にはむしろ左翼的な人たちが、「自国に都合の悪いエピソードを隠す、文部省の教科書検定に抗おう」というニュアンスで使ったものだったんですよ。ぼくなんかそういう本だと思って立ち読みして、全然正反対で驚いた記憶がある。
しかし、初代会長を務めた西尾幹二さんが『保守の怒り』という本で怒っていましたが、2000年代の前半を通じて運動がいわゆる日本会議系統の「昔ながらの保守」の人たちに主導権をとられていき、西尾さんも2006年に手を引くことになる。その後は要するに、自民党の地方議員を動かして、国会議員をつき上げましょう、経済系の親睦団体をつうじて、地場産業の保守オヤジで結束しましょうといった「ありがちな昭和の風景」に戻っていった。
「家のPCでインターネットにつなぐ」のが、富裕層や先進的な趣味人に限定されない普通の生活スタイルになっていったのが、孫正義さんの参入でブロードバンド(ADSL)が普及した2001年ごろからかと思うのですが、そこにも当初は、いい意味でのアマチュアリズムの残り香があったと思います。同年にローレンス・レッシグの『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』を山形浩生さんが訳して、その解釈をめぐって池田信夫さんと論争したりもしましたが、どちらも「ネット発の論客」という新しさがあった。もちろん、それぞれ翻訳家・経済学者としての業績はお持ちでしたけど、それまで多かった「すでにテレビや本で有名な人が、ファンサービスでホームページも開きました」というのとは違っていた。
かつ、この頃はまだ、そうしたインターネットの新しさが、のちに「ネットde真実」と揶揄されるような、書籍中心の知識人に対するいわゆる反知性主義的な攻撃という形をとってはいなかったんですよね。書物的な教養には敬意を払った上で、相互に補完していこうというスタンスだった。2000年にベストセラーになったジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の日本語版で、Further Readings (参考文献リスト)が削除されていたことに怒って、山形さんたち有志が復刻版を公開したりとかもありましたよね。
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