2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。
(初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
ニュータイプと〈魔法の世紀〉
富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
落合の回答はこうだ。
映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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