本メールマガジンで連載していた宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 』が、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』として発売されました! 発売を記念して毎週月曜日に全4回にわたり、書籍の一部を公開します。
当初はロボットを与えられたことで成長する少年の物語を描いていた『ガンダム』は、次第にそ自己否定的にその物語の否定を行なっていきます。富野由悠季監督の描こうとしたものを、『ガンダム』の変遷を追いながら分析していきます。
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【書籍情報】
宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』発売決定!
紙 (朝日新聞出版) 3月13日(火)発売/電子(PLANETS)近日発売
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「キレる若者」カミーユが迎えた衝撃の結末
――『機動戦士Zガンダム』
『ガンダム』に端を発した第二次アニメブームは一九八〇年前半で沈静化し、ブームを盛り上げたアニメ雑誌の文化も衰退してしまいます。理由はいろいろありますが、まずひとつはヒット作があまり続かなかったこと。そしてもうひとつ大きかったのは、少年たちの支持が「ジャンプ」を中心とした大手マンガ雑誌の人気作品のアニメ版へと移っていったことが挙げられます。そうなるとアニメ雑誌も人気作を中心にした特集が組みにくくなり、一九八六年頃にはどんどん潰れてしまったわけです。
そういった状況だったので、アニメファンの間では再びブームの中核になる作品の登場が待ち望まれていました。要するに「『ガンダム』の続編を作ってくれ」という声がアニメ業界やファンの間で大きくなっていたんです。そうした声を受けて制作されたのが、初代『ガンダム』の直接の続編である『機動戦士ガンダム』(一九八五年放映開始)でした。
『Zガンダム』の舞台は、『ガンダム』で描かれた戦争から七年後の世界です。初代『ガンダム』放映後に流れた現実世界の年月とだいたい同じ年数が経っているという設定です。前作の主人公であるアムロやそのライバルのシャアも登場し、みな年をとっています。これは当時としてはすごく斬新でした。前の戦争で「ニュータイプ」というある種の超能力者として覚醒し、地球連邦軍のエースパイロットに成長したアムロは、その能力を政府から危険視されて閑職に回され、屈折した人間になってしまっています。前作で成長したはずの主人公がいじけた大人になってしまっているというのはなかなか衝撃的ですよね。一方のシャアは、身分を隠して、反政府組織に参加しているのですが、中間管理職的な現実に打ちのめされて、なんだか苦労人ぽくなっています。アラサーの悲しい現実ですね。富野由悠季は「実際に宇宙世紀に生きていたら登場人物はこうなっているはずだ」というシミュレーションをここでも徹底しています。
『Zガンダム』では新しく設定された主人公、カミーユ・ビダンという高校生の少年が、前作のアムロと同様に戦争に巻き込まれ、成り行きでガンダムに搭乗して戦っていきます。どういうストーリーなのか、第一話の映像を観ていきましょう。
▲『機動戦士Zガンダム』
主人公は「カミーユ」という名前ですが、これはフランス人の女性の名前ですね。だから彼は「女の名前をつけられた」ということにコンプレックスを感じています。
第一話でカミーユは、スペースコロニーの空港で地球連邦の軍人たちに出会います。ここからが超展開です。自分の名前を「女みてえだな」とバカにされたカミーユは、軍人たちに激昂して殴りかかり、軍事警察に拘束されて尋問されます。そのことに腹を立てたカミーユは、なんと軍事警察にやり返すためにガンダムを盗みます。
これは、カミーユが自分を尋問した憲兵に復讐しようとしているシーンです。これ、すごいですね。ロボットに乗って、丸腰にちかい生身の人間をいたぶっています。セリフがまた素晴らしいですね。「一方的に殴られる痛さと怖さを教えてやろうか!」「フフ……ハハハハ……ざまぁないぜ」これ、完全にヒーローのセリフではないですね。
これをきっかけにしてカミーユは、反体制運動に身を投じていくことになります。
当時からこのカミーユの行動は話題になっていて、ファンの間でも「まったく共感できない」と批判の的になっていました。初代『ガンダム』の主人公アムロは空襲で焼け出され、成り行きでガンダムのパイロットになり、上官と衝突しながらも人間的に成長していきました。その姿には共感できたけれど、単に思春期の自意識をこじらせて反体制運動に入っていっただけのカミーユにはまったく共感できない、というわけです。
これは富野由悠季なりに、昔ながらの成長物語が信じられなくなっているなかで、中二病をこじらせたエキセントリックな現代の若者を描こうとしたんだと思います。このずっとあと、九〇年代後半から二〇〇〇年頃に「キレる十四歳」とか「キレる十七歳」というキャッチフレーズで少年犯罪がメディア上で騒がれたのですが、その十年以上前にこうしたモチーフを描いていたわけです。だから前に触れた『ダンバイン』同様、『Zガンダム』も早すぎた作品なんですね。
このカミーユは反体制運動の戦いのなかで成長していったり、敵のパイロットの女の子と恋愛してその子が死んでしまったりといろいろなドラマを経験していくのですが、最終話で衝撃の結末を迎えます。映像を観てみましょう。
一年間にわたる戦いでカミーユはようやくラスボスを倒すんですが……ここで何が起こっているか、皆さんわかりますか? なんと主人公が発狂してしまうんです。
「大きな星がついたり消えたりしている…大きい…彗星かな? いや、違う。違うな。彗星はバアーッと動くもんな…暑っ苦しいな…ここ、出られないのかな…おーい、出してくださいよ。ねぇ…」
はい、完全に精神がイッちゃっていますね(笑)。
これは当時「伝説的な最終回」と言われました。当時の僕は小学校一年生ぐらいだったのですが、まったく意味がわからなかった。アニメの主人公が最後に発狂して終わる作品って、いまだに『Zガンダム』だけだと思うんですね。
翌週から『機動戦士ガンダムZZ』という直接の続編が始まるんですが、そのときにはもうカミーユは車椅子に乗っていて、他のキャラに「カミーユは戦争のせいで何がなんだかわからなくなっちゃったんだ」と解説されている。
エキセントリックで自意識過剰な性格のカミーユが、自分のコンプレックスを理由に戦争に参加していき、一年間戦っていったあげくに最後は発狂してしまう。これはロボットアニメをずっと作ってきた富野由悠季の、ある種の自己否定のようなものです。すでに男の子の成長物語としてのロボットアニメは完全に破綻している、そのことをはっきりと劇中で描いてしまったんだと思います。
カミーユは「俺は男だよ!」「女の名前じゃないんだ!」ということにこだわっていました。それは「大人の男」に憧れていたからです。ロボットアニメというものは、ファンタジーの歴史のなかでロボットという偽物の身体を主人公の少年に与えることを通して、男の子の成長物語をでっちあげようとしてきました。しかし『Zガンダム』は結末で「実際にはそんなことはできるわけないんだ」というアイロニーを描いてしまったわけです。
成長物語を露悪的に否定した
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
富野由悠季にとってロボットアニメは「ロボットという方便を使って自分のやりたいことをやる」という、アニメの表現の可能性を広げるゲリラ戦でした。そして「果たして、架空の歴史とかりそめの身体を通して、失われた少年の成長物語を回復することができるのか」という問いに対して、「そんなことはできない」という結論を出してしまったのが『Zガンダム』でした。
ところが『Zガンダム』以降の歴史が証明するように、この作品を皮切りにガンダムシリーズは膨大な数の続編が作られていきます。『Zガンダム』自体は放映当時それほど人気を得たわけではないのですが、以後の続編制作の先鞭をつける役割を果たしたわけです。そうしたガンダム人気に押されるかたちで、以後の富野由悠季はどんどん続編を作らざるをえなくなります。そこで富野由悠季は一度ガンダムに区切りをつけようと、『Zガンダム』の終了から二年後に劇場映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(一九八八年)を制作します。映像を観てみましょう。
この授業ではあまり取り上げていませんが、『ガンダム』『Zガンダム』を通して主要キャラクターの一人として登場するのが、アムロの終生のライバルであるシャア・アズナブルです。シャアは『Zガンダム』の時期はカミーユやアムロとも協力し、地球連邦内で起きた派閥抗争の反主流派側のリーダーとして戦っていました。しかしその後、紆余曲折を経てシャアは「ネオ・ジオン軍」という組織を作り、腐敗する一方の地球連邦に対して反乱を起こします。『逆襲のシャア』では、そのネオ・ジオンと地球連邦の抗争が描かれるわけです。
『Zガンダム』のときに一度は味方としてともに戦ったアムロとシャアの二人が、再び敵として相まみえるのがこの『逆襲のシャア』です。『逆襲のシャア』では、それまで中途半端な反体制派だったシャアが本気の反体制派になって反乱を起こし、それに対してアムロは「たしかにシャアが言うように地球連邦は腐っていて改革が必要だけれど、シャアのような過激な方法ではダメだ」と考え、地球連邦側に立って参戦します。
このときアムロは二十九歳、シャアは三十四歳です。映画にはこの二人が生身で殴り合っているシーンもあります。アラサー同士の殴り合いです。ロボットアニメは定義的に「少年がロボットという拡張された身体を手に入れることによって、社会的な力を得て成長する物語」だったはずなのですが、その問題設定が、ここに来てもう放棄されているわけです。『逆襲のシャア』では「おじさんが自分の人生にどうケリをつけるか」という話になっているんです。
いま映しているのは、そのクライマックスの場面です。シャアは地球に向けて巨大隕石を落とす作戦を敢行し、アムロたちは阻止しようとして激しい攻防が繰り広げられます。アムロはガンダム(ガンダム)に乗って戦い、シャアを倒して捕まえるんですが、シャアの脱出ポッドを捕まえたまま隕石を押し返そうとするんです。そこに地球連邦軍の兵士たちが次々にやってきて協力し、最後には奇跡が起こって、隕石が地球への落下コースから逸れていきます。
アムロとシャアはこのとき死んでしまうんですが、その間際にシャアがボロッと本音を言うんですね。初代『ガンダム』のときにアムロとシャアはララァという女の子を取り合っていたわけですが、最終的にララァはアムロとシャアの戦いに巻き込まれ、シャアをかばって死んでしまう。そのララァの存在に、アムロもシャアもずっと囚われ続けていたわけです。そしてその過程でアムロは言います。「俺はマシーンじゃない、クェスの父親代わりなんかできない」と。クェスというのはこの映画のヒロインで、十代のニュータイプの少女です。最初はアムロに憧れてまとわりつくのだけど、アムロには相手にされない。そこでシャアの側に走るのだけど、シャアはそのクェスを徹底的に利用して、そして彼女は戦争のなかで死んでしまう。シャアも言います。「そうか、クェスは父親を求めていたのか。それを迷惑に感じて、私はクェスをマシーンにしたんだな」と。
これ、ひどくないですか? 要するに、ここではアラサーのおじさん二人が自分たちは父親に、要するに社会的な責任を負う存在にはなれないのだと言い合っているわけです。そして、彼らはそのまま死んでいく。シャアの最期のセリフは、「ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれなかった女性だ。そのララァを殺したお前に言えたことか」です。これは戦後社会の男性の成熟を、それもアクロバティックなかたちで描いてきたロボットアニメの敗北宣言のようなものだと思います。
『逆襲のシャア』ではアムロとシャアというアラサーのおじさんの話がメインとしてありつつ、部下の若者たちのドラマも展開されます。ところがその若者たちのドラマの描き方が非常に冷淡なんです。ハサウェイというアムロにあこがれている若いニュータイプの少年は、先程のクェスを好きになってしまう。ところがクェスはシャアに惹かれて敵側に寝返ってしまう。一方、シャアの陣営にはギュネイという青年がいて、彼もクェスのことを好きになってしまいます。そういった若者の三角関係もあるんですが、わざと邪険に扱われている。アムロは、シャアのために奮闘しようとするクェスと、彼女を守ろうとするギュネイといった若者たちのことを「ガキに構ってられるか」とあしらうだけでまともに相手にしようとしないし、シャアは彼らの恋愛感情を自分のために都合よく利用します。そして結局、クェスもギュネイも死んでしまい、ハサウェイは決定的な心の傷を負う。富野由悠季はここで、少年の成長物語としてのロボットアニメを露悪的に否定したんですね。「ロボットアニメで成長物語を描く」ということの限界が露呈するなかでブームは終わっていき、このあといろいろな方面へと拡散していくことになります。
(了)
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