文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末の少年マガジンで、図解による怪獣文化の「情報化」を試みた編集者・大伴昌司。その多彩な活動を追いながら、小松左京や眉村卓らSF作家たちと特撮の関わりについて論じます。
第六章 オタク・メディア・家族
日本の特撮史においては、円谷英二および円谷プロが決定的に重要な位置を占めている。「特撮の神様」と評された円谷に匹敵する名声を得た日本人の特撮作家はいない。このことは、戦時下の政岡憲三や瀬尾光世以来、手塚治虫を経て、高畑勲、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明といった優れた作り手たちが、戦争を主題化しながら、あたかもお互いを批評しあうようにしてジャンルを成長させてきたアニメとは、ちょうど対照的である。
ただし、それは円谷の「遺産」が貧困であったことを意味しない。六〇年代の円谷プロは特撮テレビ番組という当時の映像のフロンティアにふさわしく、雑多な才能の集合した「梁山泊」であった。したがって、その関係者の活動範囲も特撮だけに留まらず、しばしば多くの分野にまたがっていた。そのなかでも、ともに一九三六年生まれの編集者・大伴昌司と脚本家・佐々木守は六〇年代後半以降、メディアを横断する幅広い仕事を手掛け、後の「オタク」ないし「新人類」の先駆者となった興味深い存在である。円谷プロの特撮が出版メディアにも刺激を与えながら図らずもオタク文化の下地を作ったことは、ここで改めて強調しておきたい。ウルトラシリーズはたんに日本のテレビ史に残る特撮ドラマであっただけではなく、サブカルチャーのオタク的受容を組織した作品でもあるのだ。
そして、先駆者とはえてして、フォロワーにおいては失われていくような「過剰さ」を抱え込んだ存在である。私はここまで、生粋のホモ・ファーベルである円谷英二が、戦中と戦後を通じて「非転向」の技術者として活躍したのに対して、その息子世代に当たる上原正三らが特撮という「技術」のなかに、屈折した政治性を導入したと述べてきた。上原とほぼ同年齢の大伴昌司も、少年誌の特集を企画するなかで「情報化」に早くから注目した一方、単純な技術的合理性には収まりきらないものも抱え込んでいたように思える。では、この「息子」の世代から「父」の円谷英二とも「孫」のオタク第一世代とも異なる、いわばオルタナティヴなオタク像を引き出すことは可能だろうか?本章では大伴と佐々木を出版メディア史のなかに位置づけながら、この問いを掘り下げてみよう。
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