本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。鑑賞者の体験そのものをデザインし、作品への没入体験を与える方向へと舵を切った猪子寿之さん率いるチームラボ。彼らがいかにして人と人、人と物、物と物の境界線を乗り越えていったか、宇野常寛が考察します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
たとえば「戦後最大の思想家」丸山眞男は、「無責任の体系」という言葉で日本社会における主体の問題を論じている。
先の大戦において、日本における全体主義はその指導者の不在に特徴があった。形式上の指導者である昭和天皇に実権は存在せず、最高意思決定は当時の軍閥の中核にいたグループの「空気」であった。その「空気」というボトムアップで形成される合意のシステムにおいては、誰も自分が決定者であるという自覚は存在しない。周囲の人間の顔色をうかがい、忖度し、明確な線引きがなされないままなし崩し的に意思決定が行われることになる。丸山はこの「空気」の支配を「無責任の体系」という造語で表現した。
このとき重要な役割を果たすのが、実質的には意思決定に関与できない天皇の存在だ。「無責任の体系」によって、決定者が誰か曖昧なまま合意形成される日本社会において形式的な決定者として、責任者として機能するのがこの天皇という存在なのだ。実際には特定の人間関係の「空気」によって、決定者も責任者も不明なままの合意形成によって発生した意思は、擬似的に天皇の「お言葉」として発令される。そう、当時の日本にとって天皇とは、特定のコミュニティの「空気」を擬人化したキャラクターだったのだ。そしてこの天皇というキャラクターによって整備された「無責任の体系」に引きずられるかたちで、当時の日本はその責任の所在を曖昧化したまま、戦争への道を歩んでいったのだ。
こうして考えたとき、なぜ戦後の日本人がその児童文化で、乗り物としてのアニメのロボットという奇形を産まざるを得なかったのかも明白になるだろう。
この国の人々にとって社会参加とは、自らの意思を表明してその責任を引き受けることではない。そうではなく、周囲の人間の顔色をうかがい、「空気を読み」、その責任の所在を曖昧化したままボトムアップの合意形成を行うことであり、そして、そのとき自分たちの「空気」は天皇という想像上の巨大な存在の意思であるという設定が与えられる。そうすることで、日本人は主体であることの責任を回避したまま、社会を形成してきた。
しかし、戦後のロボットアニメとは、そんな日本人を――マッカーサーに「十二歳の少年」と揶揄された日本人を――ファンタジーの中で大人にさせる役割を負っていた。そして当時の作家たちはアニメーションの中で、少年が仮初の身体=キャラクターと同一化するという回路を編み出した。自分が直接力を行使してその責任を引き受けるのではなく、社会が、父が与えた仮初の身体を戸惑いながら行使する。前述のロボットアニメたちが反復して、少年主人公たちがその強大すぎる力に戸惑うというエピソードを描いているのは、それがこの国の人々がファンタジーの中で、鋼鉄の、仮初の身体を手に入れてはじめて主体であることを可能にしたものであるからに他ならない。
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