10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。富野由悠季が『伝説巨神イデオン』を通じて予言的に描き出した状況と、押井守の映像アート『めざめの箱舟』の意外な可能性について取り上げます。(構成:斎藤 岬)
※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
『伝説巨神イデオン』にみる富野由悠季の想像力の臨界
▲『伝説巨神イデオン』
濱野 今回、『母性のディストピア』で何に一番驚いたかって、宇野さんがまさかこれほど『伝説巨神イデオン』を高く評価していたとはということなんですよ。
僕の個人史的には、『伝説巨神イデオン』を観るより先に、まず『新世紀エヴァンゲリオン』から受けたファースト・インパクトがあって。そもそも僕は『エヴァ』を観た時、『機動戦士ガンダム』の再放送も未視聴で、全く富野的想像力も知らなかった。それでTV版の『新世紀エヴァンゲリオン』を観て、当時その後すぐに出版された『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』(大泉実成)『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(竹熊健太郎)をむさぼるように読んだわけなんですよ。
で、やっぱあの本を読むと、「『ガンダム』ってそんなに影響されるもんなのか」「『伝説巨神イデオン』とか『デビルマン』ってそんなにやばいの?」と思うわけですよ。そこでTSUTAYAに行ってビデオテープ(!)を借りたり、ブックオフで古本マンガ漁ったり、一応、それなりにオタク的教養を身につけようとする基礎作業はした。まあ、僕の場合は「初心者の館」レベルで止まってしまっているのですが。
▲庵野秀明 『スキゾ・エヴァンゲリオン』(編・大泉実成)『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(編・竹熊健太郎)
ただ、僕の富野さんの評価は、もちろんすばらしいクリエイターだとは思うけれども、宮崎駿や高畑勲に比べたら作品にブレがありすぎるという印象なんですね。宇野さん含め、富野ファンの皆さんには大変申し訳ないんですが……。
確かに「ファーストガンダム」と呼ばれる最初の『機動戦士ガンダム』はすごいと思った。あ、ちなみにちゃんとこれはTSUTAYAでTV版を全話借りて観ましたよ。大学のメディアセンターでビデオテープをダビングして保存した記憶すらある(笑)。
ただ、僕はファーストガンダムをSF作品というより、登場人物の自意識や人間関係をめぐるドロドロのリアリズムと、独特のセリフ回しが面白すぎると受け取ったタイプで。実はモビルスーツとかニュータイプといったSF設定周りはあまりピンと来なかった。『母性のディストピア』でもずっと指摘されている通り、ニュータイプっていうアイディアがある種「取ってつけたもの」感があるじゃないですか。映画版で若干設定が盛られていたけれど、「はっきり言ってこの話、ニュータイプ関係ある?」っていうのが正直な印象だった。ララァを奪いあってなんかニュータイプ同士が戦いながら論争してるけど、テレパシー以上のものはあるのか。まああとは普通に予知能力的にアムロが強いのは分かるけど、あんなのシューティングゲームとかに究極に没頭すれば目覚めるゲーマー的反射神経としか思えなかった。だから正直、「ニュータイプが人類を変える」って、何を言いいたいのかわからなかった。それが率直な感想だったんですね。
▲『機動戦士ガンダム』
ただ、その『機動戦士ガンダム』では取ってつけたオカルト要素に過ぎないと感じたものが、その後すぐに続いて『伝説巨神イデオン』を借りて観たら「これはヤバい!」と。正直、問題発言スレスレですけど、「こりゃオウムとか出て来るわけだわ、この国」と思いましたよね、当時10代の自分は。「これが商品化されるって、狂ってるなこの国」と思って、なんか逆に元気が出た(笑)。
いやしかし、『伝説巨神イデオン』の内容って、口で説明するのはちょっと難しい。遺跡を発掘したら異星人に攻撃され、その遺跡が実は巨大ロボットで、そのせいで異星人に追われて遺跡に乗り込んだまま逃げ出すはめになり……僕は90年代後半に映画版の接触編・発動編を借りて観て、ちょっともう記憶も曖昧なんですが、最後は無限エネルギー「イデ」が発動して人類も異星人も全滅する展開ははっきり覚えています。あれを観たら、なるほど「人類補完計画」とかも言い出すわけだと思いましたが、しかしこれはめちゃくちゃすぎる(笑)。
ちなみに今回、インタビューの前に『イデオン』を見返そうと思ったのですが、Amazon Prime Videoだと打ち切りになったテレビシリーズしか見れなくて、それでもイデオンがやばいのはよくわかった。そりゃこんなのTVで流したら打ち切りになるよな、と。だからこそあれにトラウマ的影響を受けるクリエイターがいるのは非常によくわかる。
宇野 富野由悠季という作家の何がすごかったかというと、要するにその想像力だったと思うんです。たとえばニュータイプ。あれは明らかに当時の超能力ブームの影響なのだけど、あの空間を超越して遠く離れたところにいる人間の意識と意識が直接衝突していくというあの発想は、いまとなってはもう完全にインターネットのことにしか見えない。
そして『伝説巨神イデオン』に出てくる「イデ」というのは、言ってみればニュータイプ的なコミュニケーションを可能にするシステムですよね。富野由悠季が偉大だったのは、それをまさに「ディストピア」として提示したこと。システムが発達して、人間と人間が中間物を挟むことなく直接ぶつかると本当にとんでもないことが起こるというのは、まさに今この世の中で起こっていることですよね。富野は80年代前半に「そんなことが起こると人類が滅ぶ」ときわめて正確に予言しているんだけど、残念ながらその富野由悠季自身が、それを克服することができなかった。世代的なものもあるのか、当時のヒッピー崩れのオカルトブーム、要するにニューエイジから離陸できなかった。
濱野 まさに『伝説巨神イデオン』で描かれている「イデ」というのは、いわゆる人工知能的なものに近くて、いまの人類が普通にもっている言語的なコミュニケーション手段、それは例えば和平交渉でも相互理解でもいいんですけれども、そういった凡庸な政治学的なり社会学的な想像力をはるかに超えた何かを提示してはいるんですよね。それが最後全てをぶっ壊して終わるから、まあむちゃくちゃなんだけれど、僕は今回の宇野さんの本を読みながら、じゃあ逆に「イデ」がうまく機能して、世界がより豊かで多様性を認め合うことができた世界線があったとしたら、それってどんなものなんだろうってことは、すごく考えるべきだと切実に思ったんですよ。
「イデオン」っていう名前自体が「理想」(イデア)そのものだけど、実はいま、これって21世紀の人類がリアルに問われている「理念」の問題でもあるわけじゃないですか。だから宇野さんが『伝説巨神イデオン』を出してくるとは思わなかったから結構衝撃だったんですが、非常に腑に落ちるところがあった。『イデオン』は正直自分の中で、20年くらいそれこそ黒歴史じゃないけど記憶の奥底に封印されていた作品だったので、そこはグッときましたね。
宇野 『イデオン』はイデという僕たちの世界観を根底から覆すようなシステムを手にしたのに、人間は愚民であるから、それを使いこなせずに全員死にました、という話ですよね。イデというのはシステムの問題、つまり濱野智史的に言うとアーキテクチャの問題であって、ニュータイプは主体の問題なんですよね。だから、こそ富野由悠季はイデを描くんだったら、それと対となるニュータイプをもっとガチで描くべきだった。いや、描いているんだけど、結局うまくいかなかった。
『母性のディストピア』でも散々書いたように、富野由悠季はニュータイプ的な主体の問題が存在するというところまでは行ける。問題設定自体はすごく正しかったし、優れていたと思う。
濱野 ふむ。しかしニュータイプ的なものはオカルトにすぐ近接してしまうから、描くのは本当に難しいと思うんですよね。それは富野さんだけじゃなくて、みんなそうだと思うんですが……。
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