文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、60〜70年代にかけて制作された昭和ウルトラシリーズと、平成以降の『エヴァ』や『君の名は。』といったヒット作に共通する構造を読み解きます。
第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ
2 セカイ系の源流
『スタートレック』の神話構造
ウルトラシリーズの視聴者は誰もが、その奇妙なご都合主義に一度はひっかかるだろう。そこでは全宇宙の関心が地球に集中しているかのようであり、多くの宇宙人が地球を美しい星として礼賛する。ウルトラマンもハヤタ隊員をうっかり殺してしまったという理由だけで、なぜか命懸けで地球を助けようとする。ウルトラマンを安保体制下の日本の保護者=超越者アメリカになぞらえる見解はよく見かけるが[15]、それもこのご都合主義から導き出されたものだ。しかも、この超人は「怪獣退治」の仕事が終わるとさっさと立ち去ってくれる……。民俗学者の折口信夫によれば、日本の神は人間界に常住せずに、定期的に「まれびと」(客人)として外からやってくるという特性をもつが、ウルトラマンにはまさにこの神の日本的行動様式が再現されていた。
この観点からすると、高校時代の金城哲夫が国語研究者で脚本家の上原輝男の民俗学講座に出席し、沖縄のニライカナイ信仰についての講義や、一九五二年に提唱されたばかりの柳田國男の「海上の道」の仮説に深い感銘を受けたというエピソードは興味深い[16]。ウルトラシリーズは前期のSF的・未来的な世界観から後期の怪談的・民俗学的な世界観へと推移していくが、その萌芽はすでに若き金城の体験にあったと言えるだろう。先述したノンマルトの物語にも、柳田の「山人論」(大和王朝に敗北した原日本人が山中の漂泊者になったという説)との類似性が強く感じられる。
宇宙人のヒーローが「まれびと」として向こうからやってくるというこの構図の特殊性は、アメリカのSFドラマと比べるといっそう際立つ。ここでは『ウルトラQ』の原点となった『トワイライトゾーン』や『アウターリミッツ』、あるいは『ウルトラセブン』の初期構想段階で参照された『宇宙家族ロビンソン』よりも、むしろ一九六六年以降に放映された『スタートレック』との違いに注目したい。パイロットからテレビ業界に転じたジーン・ロッデンベリーを中心に制作された『スタートレック』は、アメリカの神話構造を宇宙空間という「最後のフロンティア」で再現した物語であった。
アメリカの原型的な神話とは何か。宗教社会学者のロバート・ベラーによれば、かつてヨーロッパから新大陸アメリカに渡った初期の入植者たちは、聖書に記された「楽園」や「荒野」のイメージやシンボルを使って、自らの状況を解釈した。ちょうどキリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後の四〇日間を荒野で過ごした、それと同じように自分たちもアメリカという未知の荒野に送り込まれた使者であり、後に来るクリスチャンの「楽園」を準備する使命をもつというわけだ。この見立てがもっと過激になると、海洋文学の傑作であるメルヴィル『白鯨』における「landlessness(土地をもたないこと)の状態が神の広大無辺の真理を開く」という壮大な形而上学的ヴィジョンに行き着くことになる[17]。
人間を突き放す荒野こそが神=真理との出会いの場になる――、このアメリカの聖書的シナリオは『スタートレック』シリーズにも認められる。さまざまな出自をもつ艦長以下のクルーたちは、文字通り「土地のない」未知の宇宙に――いわば究極の「荒野」にして「大洋」に――乗り出し、科学や宗教の常識を超える存在と出会い、知性についての新たな啓示を受ける。なかでも、九〇年代後半に放映開始された『スタートレック・ヴォイジャー』の宇宙艦が白人の女性艦長とネイティヴ・アメリカンの子孫の副艦長のもと、地球から遥か遠くの宇宙の辺境に飛ばされたことは、新大陸アメリカへの「入植」の歴史の反復でもあっただろう。よくできた哲学的エンターテインメントであるこのSFドラマは、アメリカの神話構造を宇宙に投影したのだ。
「海岸国家」の神話
面白いことに、ウルトラシリーズではこの「アメリカ神話」がことごとく逆転している。科特隊やウルトラ警備隊は、多種多様な種族の集う『スタートレック』的な宇宙艦ではなく、同じ制服に身を包んだサラリーマン組織に近い。二〇世紀のSFにとってきわめて重要なテーマであったはずの異質の知性との出会いも、そこではほとんど起こらず、宇宙人もおおむね「侵略者」のカテゴリに収まる(『ウルトラマン』のメフィラス星人や『セブン』のギエロン星獣はその例外だが)。ウルトラマンもアメリカ的な荒野の神ではなく、あくまで日本的な「まれびと」であった。
この日米の神話構造の違いは、宇宙との関わり方にも及んでいる。象徴的なことに、『スタートレック』では人間やモノを瞬時にワープさせる「転送装置」が不可欠の装置となったのに対して、ウルトラマンは惑星間の「テレポーテーション」のために、その寿命を縮めるほどの莫大な労力を支払わねばならない(二代目バルタン星人の登場する第一六話)。ウルトラシリーズにおいて、宇宙人はこちらから討伐するべき存在ではなく、あくまで向こうから勝手に地球にやってくる存在なのだ。
ウルトラシリーズは概して地球という既知の海岸にこだわる一方、宇宙という未知の海洋への転送には及び腰であり、それが後期の「民話化」にも繋がっていく。冒険心豊かな海洋文学の伝統を思わせる『スタートレック』とは反対に、宇宙に対していわば戦後憲法的な「専守防衛」の構えをとること――、この受動性は二〇世紀の日本の自己認識とも符合するものだと考えてよい。
例えば、一九三四年生まれの批評家・山崎正和は『セブン』と同時期の一九六七年初出のエッセイで、日本を能動的な「海洋国家」ならぬ受動的な「海岸国家」だと鋭く論じている[18]。確かに「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ」で始まる島崎藤村の有名な詩「椰子の実」(一九〇一年刊『落梅集』所収)にせよ、あるいは日本を外来文明の漂着と保存の場である「アジア文明の博物館」と評した岡倉天心の『東洋の理想』(一九〇三年)にせよ、日本のアイデンティティはしばしばその「海岸」に似た地理的性格に求められてきた。この海岸モデルは総じて、世界体験の日本的受動性を肯定するものである。
裏返せば、四方を海に囲まれているにもかかわらず、日本には『白鯨』に相当するような目立った海洋文学がない。大日本帝国はその慎みを破って「海洋」と「大陸」に進出し、大東亜共栄圏の理念を掲げたが、戦後の日本は再び自らを「海岸国家」に限定した。このアジアからの撤退が『浮雲』のゆき子の身体を蝕み、富岡の心を空っぽにしたことは、すでに述べたとおりである。
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