今月から、批評家・福嶋亮大さんの新連載『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』が始まります。ウルトラシリーズは、戦後日本社会のなかでいったいどういう位置を占めるのか。初回は、60年代当時の「映画からテレビへ」というメディア環境の変化と、特撮番組との関係を考察します。
【新連載】福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』序章――「巨匠」の時代の後に【毎月配信】
一九六六年から八一年にかけて断続的に放映された昭和のウルトラシリーズは、日本では誰もが知る特撮テレビ番組である。宇宙人の巨大ヒーローを中心に、多様な怪獣たちを出現させ、一大ブームを巻き起こしたこのシリーズは、日本のサブカルチャー史のなかでも特異な位置を占めている。本論はこのウルトラシリーズについての、さらには特撮文化そのものについての評論である。
このシリーズの内容や成立過程に関しては、すでにさまざまな検証がなされている。とりわけ九〇年代以降、監修の円谷英二はもちろんのこと、金城哲夫、上原正三、佐々木守、市川森一、石堂淑朗(以上脚本家)、円谷一、飯島敏宏、実相寺昭雄(以上監督)、佐原健二、桜井浩子、黒部進、古谷敏、ひし美ゆり子(当時の芸名は菱見百合子)、森次晃嗣、岸田森(以上俳優)、成田亨、高山良策、池谷仙克(以上美術家)、さらに異色の編集者・大伴昌司ら当時の円谷プロダクション界隈のキーパーソンに関わる書籍や特集が、次々と刊行されるようになった。過去作品のソフト化も進み、二〇一一年には白黒の『ウルトラQ』が「総天然色」版のDVDとして生まれ変わった。今でも、硬派な研究書からマニア向けのムック本まで多くの関連書籍が刊行されており、シリーズ放映五十周年を迎えてからもその量は増すばかりだ。
インターネット上の膨大なファンサイトも含めたこの情報の山には、今さら何も付け加えるべきことはないように思える。とはいえ、大きな課題が実はまだ一つ残されているのではないか。一言で言えば、それは「ウルトラシリーズが戦後サブカルチャー史のなかで、ひいては戦後日本社会の作り出してきた精神や美学のなかで、いったいどういう位置を占めるのか」という文化史的な問いである。
振り返ってみれば、九〇年代以降、日本のサブカルチャーは宮崎駿監督のアニメ映画を筆頭にして、学問的研究や文化批評の対象として頻繁に扱われるようになってきた。今や社会学者や心理学者、文芸批評家がサブカルチャー論を書くのは当たり前の光景となり、良し悪しは別にして、サブカルチャー全般のアカデミックな制度化も進行している。ただ、そこで取り上げられるのはもっぱら漫画、アニメ、ゲーム、J-POP、ネット文化等であり、特撮はどちらかと言えばマイナーな存在に留められてきた。
この傾向は特撮の受容層の世代的な偏りと関係している。現在の出版界において、特撮論の書き手はウルトラシリーズをリアルタイムで視聴できた一九六〇年前後生まれ(オタク第一世代)の男性が圧倒的に多く、一九七〇年代生まれ(オタク第二世代)や一九八〇年代生まれ(オタク第三世代)以降の書き手においては、総じて特撮そのものがあまり重視されていない[1]。これは漫画論やアニメ論の研究者が各世代に散らばっているのと対照的である。さらに、この偏りは作り手の側にもはっきり見て取れる。例えば、二〇一六年にはオタク第一世代を代表する庵野秀明総監督・樋口真嗣特技監督の『シン・ゴジラ』が大反響を巻き起こしたが、今後オタク第二世代以降の映像作家が庵野や樋口と同じ濃度の特撮映画を撮るのは難しいだろう。
ヒーローものや怪獣ものの特撮は、戦後日本社会で広く共有された映像表現である一方で、特定の世代の文化体験と深く結びついてもいる。むろん、それが悪いわけではないが、特撮についての「語り」を多面的かつ持続的なものにしようとするならば、ときに世代のコンテクストから離れ、より大きな歴史的視点を定めることも必要だろう。そもそも、戦後日本のサブカルチャー史は特撮を抜きにしては十分に理解できないし、逆に特撮の意義を考えるには、戦中・戦後の文化史への目配りが欠かせない。だとすれば、今のサブカルチャー論に必要なのは、何よりもまず特撮と歴史の繋がりを回復することではないか――、文芸批評家の私が本論を書く背景にはそのような問題意識がある。
本題に入る前に、まず下準備として六〇年代後半という時代性に注目しておきたい。今から振り返ると、この時期に始まったウルトラシリーズがさまざまな文化領域の転換期と重なっていたことがよく分かる。そもそも、このシリーズは映画、テレビ、演劇、美術、雑誌編集等にまたがる諸分野の人間どうしの「合作」としての性格が強く、しかもその諸分野が当時それぞれに岐路を迎えていた。
例えば、日本映画の娯楽産業としての全盛期はすでに過ぎ去り(観客動員数は一九五八年をピークに減少を続けていた)、ウルトラシリーズの監督や俳優たちは好むと好まざるとにかかわらず、テレビに新たな活路を見出さざるを得なくなっていた。あるいは、金城哲夫や上原正三のような沖縄出身の脚本家たちが自らの情念をウルトラシリーズの怪獣に託す一方、そのようなメッセージ性・物語性にはお構いなしにマニアックな「設定作り」に熱中する大伴昌司の編集者的才能が、作り手たちの意図を超えた怪獣ブームの呼び水になった。さらに、ウルトラマンと怪獣のデザインおよび着ぐるみの制作を担当した成田亨や高山良策のような美術家は、結果的に「純粋芸術」(ファインアート)と「大衆文化」(サブカルチャー)の境界をぼやけさせ、九〇年代初頭の美術界で台頭したオタク第一世代の中原浩大、村上隆、ヤノベケンジら「ネオ・ポップ」の作家たちの先駆けになった。
特に、東京オリンピックを契機にしてテレビが一般家庭に広く普及する一方、映画産業が衰退期を迎えていたことは、ウルトラシリーズという「テレビ映画」(フィルムで光学的に撮影されたテレビドラマ)の出現の決定的要因となった。一九六六年放映の『ウルトラQ』に始まる初期のシリーズでは、すでに東宝の特撮映画で名声を博していた円谷英二を監修として、当時TBSのディレクターであった息子の円谷一がたびたび監督を務めていたが、この体制そのものが映画からテレビへという娯楽の中心の移行を雄弁に物語っている。象徴的なことに、『ウルトラマン』第一話の脚本も、すでに『モスラ』や『キングコング対ゴジラ』等の特撮映画で実績のあった関沢新一と、映画業界とはほとんどゆかりのない金城哲夫の「共作」として世に出ることになった。
むろん、この新旧メディアの交差はさまざまな摩擦も生み出した。例えば、ウルトラシリーズに監督として参加する以前、黒澤明の『蜘蛛巣城』や『隠し砦の三悪人』の助監督を務めた映画畑の野長瀬三摩地は、TBS出身の実相寺昭雄のふざけた演出――ハヤタ隊員がベータカプセルと間違ってスプーンを取り出してしまうというもの――に不満げであったと伝えられる。あるいは、シリーズで光線の合成を担当した飯塚定雄は、『ウルトラマン』のラッシュを確認中にセットのバレモノが見つかったとき、テレビでは切れますからと言った撮影助手に対して、円谷英二が激怒したという逸話を伝えている[2]。メディア史的には、だいたい一九六四年頃を境にして「映画会社とテレビ局のパワーバランスが崩れ始めた」と言われるが[3]、それはまた、映像の見せ方の技術や常識が大きく変わっていくということでもあった。
シリーズの俳優に関しても、東宝の特撮映画の常連であった佐原健二が『ウルトラQ』の主役に起用された一方、そのような華やかな光の当たらなかった映画人もいた。例えば、古谷敏はもともと宝田明を目標に東宝の「ニューフェース」として入社したが、映画では大きな成功を収められないまま、成田亨にそのスタイルの良さを買われてウルトラマンのスーツアクターに抜擢される。しかし、役者でありながら顔の出ないぬいぐるみに入るという現実は、古谷のプライドと身体に過酷な負担をかけるものであった[4]。
このように、初期のウルトラシリーズは高い視聴率を得た一方で、映画畑のひとびとの心理的抵抗も伏在させていたが、それでもシリーズの作り手たちは映画の財産を相続しつつ、それをテレビ向けにアレンジして自らの文法を確立していった。この先行するジャンルの「翻訳」がウルトラシリーズに限らず日本のサブカルチャーの核心にあるということは、後々問題にするので記憶に留めておいてもらいたい。
さらに、六〇年代後半以降は映画の内部でも大きな地殻変動が起こっていた。大手の製作配給会社の映画に代わって、アングラ的なピンク映画、土本典昭や小川紳介のドキュメンタリー映画、松竹ヌーヴェルヴァーグの大島渚、吉田喜重らが台頭し、それまでの黒澤明や小津安二郎ら「巨匠」たちのスター・システムの映画から大きくはみ出したカルト的な映像世界を作り出した[5]。東宝の森岩雄の肝煎りで作られた映画会社アート・シアター・ギルド(ATG)が、その象徴的な拠点となったことは広く知られている。
このうち、ウルトラシリーズと間接的に関わりがあったのが、その鋭利な映像批評も含めてこの新潮流のトップランナーであった一九三二年生まれの大島渚である。大島は自らの監督作『絞死刑』や『新宿泥棒日記』等の脚本に参加した佐々木守を実相寺昭雄にひきあわせた(なお、実相寺の一九六九年の初監督作品『宵闇せまれば』の脚本はもともと大島が自分のテレビドラマ用に準備したものであった)。監督・実相寺、脚本・佐々木のコンビはその後『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』等で異色の実験作を次々と生み出していく。さらに、この一九三六年生まれの佐々木とともにウルトラシリーズの代表的脚本家となった三七年生まれの上原正三も、学生時代に大島に心酔し、『愛と希望の街』『日本の夜と霧』『青春残酷物語』を見て粋がっていたと後に語っている[6]。
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