元・アイドルプロデューサーにして社会学者の濱野智史さんと宇野常寛が、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス- 』を題材に、ポスト・トゥルースにおける〈沈黙〉の超克について議論します。〈沼地〉と化した世界で、我々は何を語るべきなのか?
『沈黙』の何が沈黙を破らせたのか
宇野 このたび濱野智史さんはマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 -サイレンス- 』を観たことをきっかけに、約1年半に及ぶ沈黙を破る決意をしたということで、僕も連絡をもらって非常に驚いたんだけど。なぜそういう考えに至ったのか説明からお願いできますか。
濱野 確かに『沈黙』は、沈黙を破るきっかけの1つになった作品ですが、同時に沈黙したくなるような作品で………………………。
『前田敦子はキリストを超えた』という、クリスチャンの方々に喧嘩を売っているような、それでいて中身や心意気だけはガチのキリスト教信者丸出しみたいな本を出しておいて……本当は「超えた」ではなく「≒(ニアリーイコール)」くらいにしたかったのですが……しかしそれでは売れないので、すみません! という謝罪も含めて、諸々懺悔しながら話し始めるしかないんですけれども。
僕自身はキリスト教徒ではないんですが、文学(テキスト)として、あるいは思想(の原点/原典)としての旧約・新約聖書は、素人なりに読んでいるつもりでいます。そういう立場から『沈黙』を観ると、あまりにも「沼」が深い。
いきなり大きな話をすると、このご時世、みんな〈沈黙〉したほうがいいわけですよ。Twitterもニコニコ動画も2ちゃんねるも、全てのソーシャルメディアを使うピープルは、スコセッシの『沈黙』を観ていますぐ喋るのをやめろと。言葉の斧を沼に投げ捨てろと。映画では(踏み絵を)「踏め!」という意味で「トランプ(Tramp)」という言葉が出てきますが、まさにTwitterをトランプすることによって、今すぐトランプ(TRUMP)を引きずり下ろさなければならない、という気持ちになったし、なると思うんですよ、いまこのタイミングで観れば。
もちろん世界的な状況だけでなくて、僕自身も、トランプに比べればはるかに小さな炎上とはいえ、地獄の炎に焼き尽くされて、ボロボロになってアイドルという《宗教》から転んでしまった。自ら作ったアイドルグループが、結局当初掲げた理念を達成できず、地下アイドルという沼に引きずり込まれ、根を張ることができず、僕自身もプロデューサーから棄教し、逃亡したにも関わらず、磔にもされていない………。
俺は何をしているのか。
とにかく失語症からのリハビリテーションを始めなくてはいけない。
だから、Twitterとかに感想をつぶやくのではなく、キチジローのように告解すべきだと考えたんです。
宇野 つまり『沈黙』は、現在のソーシャルメディア社会とトランプ現象を象徴する話になっていて、そこに触発されたと。
濱野 はい。では、まずはこの映画のあらすじ的なところから話しを始めましょう。
『沈黙』はトゥルース(真実)or トランプ(棄教)という映画です。
まず、イエズス会の若い2人の宣教師が日本にやって来てくる。キリシタン狩りが始まっていて、もう危ないのにも関わらずです。
なぜならキリスト教こそが普遍的な真理であるという教えを信じているし、だからこそ、その教えを広めにはるばる西方よりやってくる。しかし、最初のうちは隠れキリシタンに匿われて、なんとかやっていくんですが、やっぱりキリシタン狩りに捕まってしまう。
当然、自分も磔にされるのかと思いきや、むしろ待遇はけっこういい。そのかわりに、目の前で隠れキリシタンたちが水刑、火刑、吊るし刑、ありとあらゆる手段で虐殺されていく。そして、かつて一緒に来た友人の神父もやはり捕まっていて、目の前で殉教していく。
もうやめてくれ。もう目の前でそんなに虐殺しないでくれ。自分を早く殺してくれ(でもキリスト教徒なので、当然、自殺はできない)。殉教させてくれ……と主人公のロドリゴは懊悩する。
……もうこの時点で、実は主人公は「手のひらの内」なんですね。日本の権力者側は分かりきっていて、「農民の信者たちをどんなに殺しても、キリスト教徒は殉教でパライソ(天国)に行けると喜んで死ぬから、根絶やしにできないのだ、と主人公に説明する。そこで我々日本人は考えた。『宣教師を棄教させる』と絶大な効果があるのだ、と。そして主人公に「転べ」(棄教しろ)とじわりじわりと迫るわけです。
そもそも主人公のロドリゴは、敬愛する師フェレイラが日本で棄教したという噂を聞いて、「俺たちの大尊敬する先輩が、教えを捨てるわけがない!」と立ち上がって、はるばる日本までやって来た。
だが、紆余曲折の末、結局終盤でフェレイラと会えるわけですが、彼は仏教の研究者になって日本人の名前をもらい、「キリスト教がいかに日本にとってダメな宗教か」という本まで書かされている。当然、2人は論争になる。いや、論争にもならない。ロドリゴは「何か言うことはないのですか?」と静かに問う。それに対してフェレイラの答えは最初から決まっている。俺の後に続け、と。
あえて、アイドル用語でいえば「流出せよ。他界せよ」というわけです。
中学3年の『沈黙』論から全ては始まった
濱野 僕は麻布中学の出身なんですが、実は中学3年の時に、現代文の授業で5人1組で修士論文を書くという課題があって、その時に僕が選んだのが遠藤周作の『沈黙』だったんです。理由は特になくて、なんとなく選んだんですが。
それで、論文を書くために友達の家に集まったんですが、そいつの家にNEO・GEO(ネオジオ)があって『サムライスピリッツ』とかで遊びまくった。ラスボスの「天草四郎時貞」を倒したりして(笑)。で、最終的に「俺が全部書いておくわ」という話になって、1万字くらいの評論をパッと書いたんです。だから、僕が初めて書いた評論のテーマは『沈黙』なんですよね……。
しかも、その時たまたまロラン・バルト的な「日本の中心は空虚である」とか、構造主義的な「ゼロ記号こそが中心として機能する」いった、いわゆる否定神学的なコンセプトを知ってしまった。それで僕は、「『沈黙』という作品は、最後に「声が聞こえる」のはおかしいけど、ゼロ記号による否定神学的構造とは理論的には整合性が取れていると思います」というような論文を書いて提出した。そしたら、「引用文献に引っ張られすぎているのでB判定」と返ってきて、「あれ〜? 結構自信作だったのにな〜」と少し悔しかった。
もうひとつ決定的だったのが、その後高2のとき、これはクラス全員で、夏目漱石の『こころ』について30×30字原稿用紙で900字くらいの小論を書く課題があったんです。これは50人のクラスの中でトップ3に選ばれ、全員の前で読み上げられたのですが、内容は「腹を切った乃木大将はバカだと思うし全く共感できない。しかし、それに感染して手紙を書いて自殺した先生の情熱は確実に何かを残したし、正直嫉妬するレベルだ」と。
この『沈黙』論と『こころ』論を書いた時点で、『前田敦子はキリストを超えた』を書くのは必然だったのだな、とようやく自らを振り返ることができました…。そして、アイドルプロデューサーになって大失敗し、いよいよ本当に沈黙を破って公的に謝罪しなければ……と思ったタイミングで、なんとも偶然にもスコセッシ監督による『沈黙』が公開された。僕の半生のタイムラインが全てつながった、偶然と必然の重なる瞬間でした。
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