大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」
第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源
【不定期連載】
第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源
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☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2017.1.17 vol.771
今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回をお届けします。ヴォネガットやブローティガンといったアメリカ文学の〈借用〉からなる村上春樹の作品。デビュー作『風の歌を聴け』を参照しながら、そのメタフィクショナルな手法が構築した「自己複製の起源」について論じます。
▼プロフィール
大見崇晴(おおみ・たかはる)
1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
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本論では可能な限り、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』(一九七九)に関わる内容に留める。このような断りが村上春樹の作品を論じる際には求められがちになる。かつて批評家、中村光夫が断じたように戦後日本文学においては需要に応えるべく作品を生産するために、自己模倣を繰り返す傾向が見られた。
だが、そのことを差し引いても村上春樹の自己模倣は甚だしい。いや、むしろ自己模倣というよりも、村上春樹作品は、自己複製の反復の結果、巨大に増殖したひとつの連続体のようにも読める。多くの読み手(批評家、研究者たち)は、そのような読みの誘惑に抗えずに来た。たとえば、村上春樹研究書としては最もポピュラーなものといえる加藤典洋『村上春樹イエローページ』(荒地出版社、のちに幻冬舎文庫)においては、登場人物のひとり「鼠」からそう呼ばれることもある「鼠三部作」(処女作の他には、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』)との関連性を読み解こうとしている。おそらく加藤典洋の読み方がオーソドックスなものと思われるが、本論では敢えてこのような観点による読みを断念したい。そのことによって、毎年ノーベル賞候補に取り上げられることで、今日では作家として自明な存在になった村上春樹と処女作に対して忘れかけていた疑問を浮かび上がらせることになる。
すなわち、「自己複製する作家である村上春樹は、処女作において何を複製したのか」、という疑問である。
二十一世紀においては、村上春樹が登場した時の鮮烈さ――それが二〇〇〇年ごろにおいても、国語教科書が掲載している小説と断絶が感じられるほど――だったことは、最早伝わりづらいかもしれない。ひとまず、主要な芥川賞作家たちを取り上げることで鮮烈さを感じる所以となる停滞を説明しておこう。
一九五五年、石原慎太郎の『太陽の季節』が発表され、一躍流行する。これに追うように一九五八年に開高健、大江健三郎が芥川賞を受賞し、二十代の作家たちが活躍する。彼らはスターとして扱われた。このことは新人賞として設けられながら、創設間もないころに尾崎一雄が四〇代で受賞するなどして、その意義が曖昧だった芥川賞が、文字通りの「新人賞」として機能していた時期にあたる。文芸時評を多く担当し、戦後日本文学のペースメーカーとして機能した批評家・平野謙はこの時期を次のように振り返る。
戦後、第一次戦後派とか「第三の新人」の名のもとに、おおくの新人が輩出して、なかでも石原慎太郎の登場は、戦後文学史の上でも注目すべき「事件」のひとつだった。いわば純粋戦後派ともよぶべき文学世代がここに登場したことになる。開高健・大江健三郎は石原慎太郎につづく純粋戦後派の新鋭にほかならなかった。(平野謙『平野謙全集 第九巻』所収「開高健・大江健三郎」)
こうした傾向は、一九六〇年代までは継続されたが、一九七〇年代になると歩留まりする。一九七〇年代は明らかに前進よりも停滞である。具体的な作家名を取り上げると、森敦のような戦前から文壇居住者といえる人物から、戦後派に近い古山高麗雄、戦中に小学生であった所謂「焼跡派」である日野啓三、林京子といった第二次世界大戦を体験した世代が多く受賞している。
戦後生まれの受賞は知られているように、一九七五年の中上健次「岬」に始まる。とはいえ、その文体は大江健三郎や自然主義小説に影響を受けたものであり、小説に親しみを持たない読者にはひと目で分かる新しさではなかった。清新さを持って受け止められたのは翌一九七六年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』である。アメリカ文化(ドラッグ・カルチャーなど)を素材に盛り込んだことも清新さの一因であった。さらに翌一九七七年に、村上春樹の同級生にあたる三田誠広が、一九六〇年代末の早稲田大学の学生闘争を題材にした『僕って何』で受賞している。
一九七九年に村上春樹が『風の歌を聴け』で登場したのは、こうした閉塞感からの脱出が伺えた時機であり、その素材として一九六〇年代以降のカウンター・カルチャー(およびポップ・カルチャー)が見出されつつあったと言える。突破口を開いたとも言える村上春樹について、坪内祐三は以下のように回想する。
同時代の中でうすうすとそう感じていながら、あとから振り返ってそれを断定的に語ることのできる事象がある。たとえば一九七九年に文章表現の世界で一つのパラダイム・チェンジが起きたこと。当時、私は、大学二年の若者だった。(中略)村上春樹の小説言語、沢木耕太郎のノンフィクション言語、椎名誠のエッセイ言語、それらに共通しているのは、それぞれに、そのジャンルの言語表現を強く意識化していたことだ。つまり村上春樹の小説はメタ・フィクションであり、沢木耕太郎のノンフィクションはメタ・ノンフィクションであり、椎名誠のエッセイはメタ・エッセイだった。(坪内祐三「一九七九年のバニシング・ポイント」)
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