プロに入ってからの人生は、決して思いどおりにはいかなかった。それでもただ、がむしゃらに戦い続けてきた。そしておとずれたサイドバックへの転向とガンバ大阪での日々。「自分で選んだことで違ったなと思ったことはない」青黒の右サイドを司る“頑張る、米倉恒貴”の人生を描く。
[Jリーグサッカーキング9月号掲載]
■ガンバのサッカーに魅力を感じた
そう考えると何が起こるか分からない。
米倉 本当に(笑)。これまでも移籍のオファーはずっとありましたけど、やっぱりプロにさせてくれたチームに「恩返しをしなきゃいけない」、「J1に昇格したい」って思っていたので移籍しなかったんです。チームで何か結果が欲しかったから、J2優勝でも全然うれしかったし。だけど、自分の将来を考えて上を目指す中でも年齢的にそろそろJ1でやらないと間に合わないかなって。J2がちょっと長過ぎたので上がれなかったら……と考えていたタイミングでオファーがきて、すごく悩みましたけど決断して、初めて移籍したら三冠ですからね。昨シーズンは前半にケガをしましたけど、ケガをしたことでチームを客観的に見られたのは大きかったのかもしれないです。初めての移籍でやってやろうっていう気持ちや、焦りとかもすごくあったと思うから、ケガで1回落ち着いて外から見られたのが良かったと思います。そこから復帰後にリーグ戦のスタメンで出て、負けたのは柏レイソル戦(第29節)だけなんですよ。今までめっちゃ負けを経験していたのに、こんなに勝っちゃって何なんだって思いました。波乱万丈ですよ(笑)。
確かに(笑)。もし、千葉がJ1に昇格していたら移籍はしていませんでした?
米倉 それはそれで移籍していたかな。成長する上で本当に1度は移籍を経験したかったので。
恩返しをしたかったという千葉での7年間についても教えてください。
米倉 いろいろな経験をさせてもらいました。7年間で7人以上の監督とやっていますからね。これは何気にデカイことだと思います。監督が替わっても、実績のある人は試合に出られるじゃないですか。だけど当時は若手だったので、アピールしてやっとベンチに入れて試合に出られるってなった時に監督が替わるから、また最初からアピールし直しになるので常に必死でした。
その中で学んだこと、今に生きていることはありますか?
米倉 やっぱりたくさんの監督とやったことですね。チームにハマるかハマらないかというのがすごく重要になるから、移籍って難しいじゃないですか。でも、いろいろな監督とやったことで、その時のサッカーに順応する能力を培っていたのかもしれないです。俺、性格的に「これができない」とは言わないんですよ。監督が「走れないとダメ」って言ったら走りますし、「守備しなきゃダメ」って言われたらするし、基本的に言われたことは吸収して成長したいので。あと(山口)智さん(京都サンガF.C.)が千葉に来てくれたことも大きかった。これ以上ない結果を出している人だから、その人が言うことはほぼ絶対だろうなというスタンスで話を聞くので成長しやすかったのかなって。当時、守備のアドバイスはあまり聞いてなかったですけど(苦笑)、今J1でプレーする中で智さんは的確なことを言っていたなって思います。J1では一つでも、言われたことを怠ったらすぐに失点に絡むので、そういう常に集中を切らせない状態でサッカーをやっているのは楽しいです。
なるほど。少し話を戻しますが、多くのオファーがあった中でガンバに決めたのは?
米倉 レベルの高いところでやりたかったのと、ガンバのサッカーに魅力を感じたので。ヤットさんや今ちゃん(今野泰幸)が真ん中でやっていて、パス回しや支配率も全然違って圧倒的なサッカーをやっていたし、ガンバの試合は楽しいから普通に見ていました。あと(オファーの中で)大阪が一番遠かったんですよ。移籍するならちょっと遠くに行きたかったので(笑)。
遠さも魅力の一つだったと(笑)。ジュニアユース時代、FC千葉なのはなでここの練習場に来ていますよね?
米倉 そう! ガンバカップで優勝したんですよ。だから、最初にガンバの練習場に来た時に何か知っているなって思って。この間、その監督に聞いたら「ここで試合をやった」って言っていました。もちろんガンバは知っていましたけど、当時のイメージはないんですよね。
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