今東京に出張しているのですが、いろんな縁が重なり、急遽、煎茶道【黄檗売茶流】(おうばくばいさりゅう) 中井霜仙(なかい・そうせん)師範のお話を伺う会に参加することができました。都心新橋のビル一つ丸ごとギャラリーというアトムCSタワーでのことです。
見てください。このイケてる感。
普通の茶道と違って、抹茶を頂くのではなく、急須(とは呼ばないそうですが)で淹れるお茶を頂きます。まったく初めての体験です。飲む私たちは「両手で飲んでください」とだけ教えられて、おいしいおいしい玉露を頂くことができました。
一方、中井師範は美しい所作で玉露を淹れてくださります。お茶を楽しんだ後、その美しさの源をお話くださいました。
その一つは、茶器を扱うとき、目で取り、体で取り、それから手で取るということです。茶器は壊れやすいので、落としたりしないよう、しっかり目で見て、体をすこし傾けそれによって目がさらに茶器に近づき、それから手に取るのです。
……。この話を世界で一番必要としていたのは私です。うちの長男、たとえば牛乳注ぐにも10回に1回はちょっとこぼすようながさつさで、「ゆっくりやれ」とは言うのですが、これは具体性に欠ける言い方で、ちっとも改善されず、どうしたものかとずーーーーっと悩んでいたわけです。
「目で取り、体で取り、それから手で取る」。Oh. どの世界でも先生というのは本当に素晴らしいです。これからはこの具体的な言葉でしつけようと思います。
そういう、茶器を壊さないようにという配慮でなされるその仕草は、人に安心感を与えるそうです。確かに師範がお茶を淹れる時間は大変居心地のいいもので、私はすかさず「脳内ツイート」を止めてただ見ていました(詳しくは 迫り来る「右脳革命」に20代が備える方法(6)〜脳内ツイートを止めてみる〜 )。なるほど、美しい所作とは安心感でもあるのです。
他にもたとえば一度に二つの動作をしないそうです。実社会だと、乾杯の場面で椅子から立ち上がりながらグラスを取る人が多いそうですが、立ってからグラスを取る人、あるいはグラスをしっかり手を取ってから立つ人がいるそうで、その人たちはそのルール「他にも一度に二つの動作をしない」を知っているのだそうです。もちろんさきほどと同じように、グラスを落とさないという配慮が根底にあり、人々を安心させる振る舞いです。
ちなみに後で聞いた話ですが、若い人には挨拶をきちんとするように教えているそうです。確かに若くなくたって、相手に迷惑ではないかと挨拶もそこそこに話を切り出してしまいがちな現代です。でも、丁寧に挨拶されて嫌な人なんていません。きちんと相手に向かい、挨拶をする。若い方ならそれだけで「大人」たちの印象に残ります。一度に二つの動作をせずそれぞれを丁寧にする。それは美しい所作であり、この忙しい社会ではひときわ相手の印象に残ることでしょう。
さてさて、そんな話の中で、伝統と伝承の違いを教わりました。伝承とは、伊勢神宮の式年遷宮のように、昔ながらのやり方を変えずに伝えていく方法だそうです。
一方で伝統とは、受け取ったら一旦壊すだけ壊し、でも伝統と呼ばれるべきものであるなら、核に何かが残るので、それを芯にして再構築し、次に伝えていく、そういう方法なんだそうです。
黄檗売茶流では、平成元年に立礼(りゅうれい)といって、正座ではなく椅子に座って供する方法を取り入れたそうです。高齢化した師範が正座ができないことだけを理由に引退すること、外国人が正座ができないために楽しめないことなどから、決断したそうです。写真でもその様子が伺えます。
ただし、テーブルの高さは 47cm と決まっているそうです。膝が出る高さ、それによって正座による座礼のときの型を崩さずにお茶を淹れることができるからということです。
伝統は壊せるだけ壊して残ったものから再構築する
これは、日本だからこそできる荒技です。日本は6,7世紀に国の形が整ってから一度も国の名前が変わらなかった世界唯一の国です。他の国は、みな国を壊してあるいは壊されて国の名前が変わる経験をしていますから、うかつに壊すとか言いにくいはずです。
一方、私たちは高度成長で持続的社会を失い、江戸時代のような持続的と言われた社会への憧れを持っています。しかし、だからといって、江戸時代に戻ればいいというわけでもありません。でも、江戸時代の伝統は今でも残っています。壊れに壊れているかもしれないけど、芯は残っています。そうやって壊すべきところは壊しながら持続的社会の伝統を受け取って、また持続的社会を作ればいいのです。
壊せるだけ壊せばいい、日本だけにできる過去から未来を作る方法、とても大切なことに気付くことができました。
また、お茶を淹れている時だけ、たとえば「目で取り、体で取り、それから手で取る」をしようとしてもうまくいかないそうです。普段の生活の場でも煎茶道での教えを意識して行動していることで、ようやく煎茶道の場面でもできると。
言い換えれば、煎茶道は手段であり、目的はどう生きるかだそうです。美しく生きるための学びの場であると。確かに仮にうちの子が煎茶道で「目で取り、体で取り、それから手で取る」ことを学べば牛乳をこぼすことはないわけで、でもそういうことを改まって学ぶ場所というのは特に大人にはなかなかありません。煎茶道など「道」は、普段の生活を学ぶ場としてとても意味のあることなんだなと深く考えさせられました。
さてさてさて、ここからはミラフツ流。お話を伺った後、みんなで先生も交えて懇親会。そこでみんなで話しているうちに、みんなゆっくり歩けば街がきれいになるという仮説にたどり着きました。
先生によると、昔のリーダーが長い烏帽子を付けたり、裾の長い着物を引きずることで、
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