ついにこの日がきました。
 
『ミラクルボディー』 第3回 未知の能力を呼び覚ませ 義足のジャンパー マルクス・レーム

 「ドイツの走り幅跳び選手マルクス・レーム(27)は義足で、去年の障害者陸上世界選手権でロンドン五輪の金メダル記録を超えた」そうです。

 その可能性は、ちょうど4年前に指摘していました。

 【勝手に楽観シリーズ:2】義足ランナーが世界記録を出したら素直に讃えられるのか 

 義足の選手が素晴らしい結果を出すこと自体は、弱い存在である私たち一人一人にとって勇気付けられるものですが、この日を境に、「グローバル競技としてのスポーツ」は事実上終わりが始まりました。

 なぜなら、スポーツ競技とは、厳格なレギュレーションの上でしか成り立たないからです。

 スポーツを競技として争うのであれば、「公平」でなくてはなりません。「公平」でなければ、有利な方が勝つのが当たり前で、競技として何の面白みもないからです。

 ですから、たとえばドーピング問題は極めて神経質に扱われます。将来の健康を犠牲に薬品で有利にするのを許しては「公平」な競技はできません。今まさにその問題でロシアの陸上選手がオリンピックに出られないという判断が下されています。

 しかし、事故で片足を失った人が、「すごい」義足をつけて、健常者よりいい成績を出してしまったら?

 それがまさに起こったのです。

 この瞬間に競技は純粋性を失います。健常者よりも、義足にした方がいい記録が出るという構図は、ドーピングと変わりません。ドーピングは禁止することができますが、片足を失った人に、義足をつけるな、走るなとは言えません。

 ですから、競技選手には恐ろしい選択の可能性が突きつけられます。

 より速く走るために、より遠くに飛ぶために、自らの元々の足を切断する

という選択肢です。未来の自分の健康と引き換えにドーピングをする構図と同じです。

 もちろん故意に切断することは禁止することができるかもしれませんが、「事故」を装えばいいだけの話です。

 ですから、社会としてはあくまで、健常者の記録のみがもっとも権威のある記録とみなすでしょう。でも一方で義足の選手たちはそれよりも良い記録を出し続けることになります。100m走など具体的な競技を考えればわかりやすいですが、今後健常者と義足の記録がどれだけ伸びるかと言えば、義足に決まっています。必ず抜くことになります。

 その時点で競技としての純粋性は失われます。「世界一速い人はだれ?」に答えが出せなくなります。

健常者、片足義足、両足義足というカテゴリーができたして、後者の方がより速いということになれば、どれが一番すごい「記録」なのかは、文脈に委ねられることになります。たとえばモータースポーツは、車の種類などでどんどん細分化されてしまうように、「人間でない」要素が増えるほど細分化が必要になります。

 もちろんそれでもスポーツではありますが、オリンピックを頂点に全世界にピラミッド型の競争構造を形成している今のような競技ではなくなるのです。

 先日、 AbemaTV を見ていてクリフダイビングというスポーツを知りました。普通の飛び込みよりははるかに高い崖から飛び込む競技です。もしそちらの方がより複雑な技を出せるとしたら、オリンピックの飛び込みと、クリフダイビングとどちらがより「すごい」のでしょうか?

 スポーツがどんどん細分化されれば、その中での一位は、本質的に小学校の運動会のリレー選手と変わらなくなります。その文脈において、私たちはその勝敗を心から楽しむことはできますが、今までのオリンピックの100m走のように「世界一速い人は誰?」という素朴で純粋な問いに対する答えは永遠に失われるのです。

 ある人は速く走りたいがために、どんどんみずからの体を「サイボーグ化」するでしょうが、そんな記録より「生身」のはるかに遅い記録を尊重する人もいなくならないでしょう。

 寂しいことではありますが、人類進化ゆえの喪失です。多様化が進んだためです。


《ワンポイントミライ》(

ミライ: うーん、健常者よりうまい義足のサッカー選手とか出てきたら、もうパニックですね。

フツクロウ: ホウなんじゃ。

ミライ: しかも義足選手がアリなら、ドーピングだっていいじゃん、って話が出てきますよね。

フツクロウ: ホウなんじゃ。オリンピックには出られんでも、もうそういう人たちで競技しちゃえという大会ができたりの。