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私は、幼いころに父親を亡くしました。
幼いころと言っても、当時私は小学6年生でしたので、大人になった今でも父親の記憶はあります。
一緒に遊んだことや怒られたこと、喧嘩したことも少しですが覚えています。
母親は地方公務員で、中学校の教師をしておりました。
他の母子家庭に比べると、金銭的にも、親の仕事の拘束時間的にもまだいい環境だったと今では思いますが、このことで私の人生は大きく変わったと思っています。
母親に甘えていいのかわからない
私は3人兄弟の末っ子です。1番上に姉がおり、その下に兄、そして私でした。
私は兄弟の中でも1番落ち着きがなく、勉強も不得意で通知表にもいつも「落ち着きがない」と書かれていました。
そんな私に比べて、姉と兄は勉強熱心でいつも成績優秀、スポーツも人並みにでき、あまり大きく苦手な分野はないタイプでした。
3人兄弟の中で、きっと私が1番手のかかった子どもだったことでしょう。
まだまだこれから手もお金もかかる子ども3人を抱え急にシングルマザーになった母がどれだけ大変な思いをしたか、今となってはわかります。
でも、当時の私にはその母の大変さはわからず、私なりに励ましたいと思いいつもおちゃらけたことをしていた記憶があります。
機嫌をうかがうように口数が多くなったり、たくさん話しかけるようにして自分なりに励ましていたつもりだったのです。
今思えばそれは仕事と育児で疲れた母の唯一の休日の邪魔になっていたことでしょう。
そんな私に対して、少しずつ返答が減り、厳しい言葉が返ってくるようになっていきました。
私はさみしさ、かまってほしさ故にしていたつもりが母を苦しめ、逆に私も苦しむことになっていってしまったのです。
でも私は私で、急に父親がいなくなり、母親はかまってくれなくなった。
兄弟もなんだか元気がないし、まわりの大人は「かわいそうに」「大変だったでしょう」と憐みのことばばかり。
当時はとてもさみしくて、だれかに甘えたかったことをとても覚えています。
思春期に入り、さらに関係は悪化
中学校に入り、思春期を迎えると、ある程度行動範囲も広くなり友達もたくさん増えました。
その中で、私が通った中学校は比較的、「ヤンキー」と言われる子どもたちが多い学校でした。
母親に相手してもらえないさみしさから、私はその友達と夜遅くまで遊ぶようになりました。
家に帰っても、返事はないから。
それなら家に帰って「遅い」と怒られようとも、友達と遊んでいるほうがまだ心が楽でした。
何より、友達と遊んでいるときはいろんなことを忘れることができました。
小学校のときは「父親のいない子」として、クラスメイトからも憐みの目で見られているような気が幼心にありましたが、中学校に入ると地域がらそんな家庭の子は珍しくなく、私を特別視しなくなったことも楽になった要因のひとつでした。
夜遅くまで遊んでいることで、学校の先生から注意を受けたり、親に連絡がいくようになると、母親は私に対してさらにきつく叱るようになりました。
もちろん、母親は地方公務員ですから、連絡をした私の中学校の先生は、私の母のことを仕事仲間として知っているわけです。
今思えば大きな恥をかかせてしまったと後悔しています。
中学校の先生からは、事情を知っていることもあり「お母さんがかわいそうだよ」といった言葉も言われました。
当時の私からしたら「じゃあ私はどうなるの」と言い返したい気持ちでいっぱいでした。
ですが、言い返しませんでした。
もうそれすら私は期待していなかったからです。