友情とは何か?
ロッキングオン26号(1977年)
このコーナーに書く僕の文は、毎回、読者の人からの僕宛の手紙に対する返信が下敷きになっています。今回も、いろんな人がくれた手紙からイメージする友人への返信という事です。
まず、大体の人が「自分の周辺には私を分ってくれる人はいない」「オモテ向きは私もニコニコしてるけど」「アホらしいつまんない人ばかりで、魅力的な人なんていない」だから「すっごく孤独」なのだそうです。ホンマかいな。
僕が考えるのはこうです。
(1)本来的には、世界中の誰もが親友である。だから、人間が一生の間に具体的に知り合えるのはすごく狭い範囲のものであり、日常的に、例えばクラスメートとか同じクラブの子とか同じ会社の席が隣り同士とかいう関係は、全て近所付きあいの一種である。気が合うとか趣味が一致するなんていうのも、それこそ生まれたのが隣の家同士といった程度の、偶然でしかない。出合い=偶然を物神化すると、とんでもない誤解を招く。
(2)しかし、かといって僕は世界中の誰とも友人である、といった意識を即現実場面で納得する程おめでたくもない。金が、欲が、個性が、感情が、まだまだ人々を分断している。こちらから一方的に<みんな友達よ>と言ってられるのは、痴者である。要は、人間が人間の本来性を、客観的な相互関係の上で回復(創造)し得るように努力すべきだ。
(3)学校で、ロック喫茶で、酒場で、僕はどんなタイプの人間とも仲良くなれたが、そのように、ただただ知っている人を量的に増やしてみたところで、限界がある。旅になんか出なくても、充分、誰とでもであえるのだ。
(4)僕が言いたい友人とは、今を一緒に行きてくれる人、具体的な思考や仕事を通してです。それぞれが勝手に苦労して、ほお見事な絵を描きあげましたな、いや、おたくの彫刻も立派なもんですわい、といってるような友人関係はいやだという事。みんなで絵を描き、彫刻を彫りあげたい。
高校生なんかで、友人が出来ない、なんて言ってる人の言い分って言い方違うけど皆んな同じなのね。「あいつ何も持ってないもん」って。あらかじめ何んか持っててそれが面白いかつまらないかの判断で友人になる、なんていう発想はすごくおかしいと思う。ROの会も、結局、気の合う仲間同士、になっちゃうのかな、そうは思いたくないけど、要するに、今、ここから友人になるんだ、という考え方をしてくれなかったんだな、退めるっていってきた人の多くは。
妊娠8ヶ月の裕子さんがこう言ってました。
「バスに乗ってるでしょ、別に、要求がましい事は言いたくないけどさ、殆どの人が席を譲ろうともしてくれないの。時々かわいい高校生の男の子位が恥かしそうに譲ってくれる時もあるけど、特に中年のおばはんは絶対にダメね。子供を産んでるはずなのにね。こないだなんか私お腹が大きくて坐るのにモタモタしてたら、中年のおばさんに、さっと坐られちゃった。それで知らんぷりしてるの。」
おばさんは、人間は一人(あるいは家族的小集団)て生きているつもりでいるらしい。おばさんも、個人的には、結構おもいやりのある母親だったりして、だけど、彼女の眼には世界が見えていないのだ、と思う。世の中の争い事の根本は、この孤独感からだ。しかも、それを自覚的に意識していない孤独感だ。みんながみんな、今を一緒に生きる、って本気に思ってくれたら、バスに坐ってる人も、うつむかなくてすむんだろうけどな。繰りかえすけど、今は、分断され敵対を強いられ続けてきた人間の本来性を回復するために、ゆっくりと自分を開いてゆく事だけが必要なんじゃないでしょうか。
おまけのはなし
テレビで野坂昭如さんが ソ、ソ、ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった、ってやってるでしょう。あれも非常にやばい孤独主義だと思うのです。悩んで大きくなるのは孤独ばかしで、もっと格好良く言うと<悩んで大きくなるのは、大きくなった悩みである>というカンジです。自分勝手に悩まないでね。
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橘川幸夫放送局通信
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