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米国大統領選挙、共和党候補、トランプが圧倒的にリード。起訴で一段と支持かたまる。フロリダ知事デサンティスが一時トランプに迫る勢いを示したが現在失速傾向。支持率直近で、トランプ対デサンティスは48%対24%、女性・ヘイリーは5%
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許すこと、「許すは宗教で論議。研究で、許しは健康改善に有用な戦略になり得ることを発見. 5カ国で実施された研究、精神的および全体的な幸福向上. 傷を思い出す。加害者に共感、利他的な贈り物、許しをホールド、練習は小さな行為:レジで列に割り込み等
コメント
>>16
そうですね。中国が侵略者は軍部で一般国民が中国国民を殺した事を許す(ひょっとしたら徴兵の父親が中国国民を、、、かもしれない)こんな国に日本の最近の態度は許せません。
日本を対中戦争に誘う米国が革命的に変わって来るようです。
昨日、フォックスニュース(日本の産経に相当する右翼の共和党系メデイア)のトップニュースキャスターのタッカーカールトンがバイデン打倒で立ち上がった民主党のロバート・ケネデイー・ジュニアにインタビューして、ワクチンの嘘、ウクライナ戦争のインチキ、ウクライナにある米の生物兵器基地のロシア軍による破壊と内容暴露、、ウクライナにある核兵器拠点のロシア軍による破壊と真相暴露、ウクライナにつぎ込む巨額な出費がもたらす多くの米人の困窮を米民に伝えたのです。
ニューヨークタイムスやワシントンポストやCNNはフォックスニュースとロバートケネデイジュニアを国賊と言わんばかりに激しく非難しているようです。米の言論空間は中露と闘わんとする日本の全体主義言論空間とは真逆に何が正義かという問いの正解を得るべく動き始めたようです。
以上は今日のテーマとは直接関わらないですが、米のメル友から送られて来た映像を見て感動しましたので失礼を弁えず書き込みました。悪しからず、ご容赦賜りたし。
>>17
そうですね、日本が北京政府と国交樹立したときに周恩来は日中両国人民は
ともに日本軍国主義の被害者だというわけですが、
でもそれはウソ、とてもとても美しいウソだが、しかしウソ。
南京陥落のおりの、それを喜ぶ一般の日本人たちの提灯行列をみればそんな
言葉はウソでしかないのです。
その過程で南京大虐殺は起きています。
2000万人以上ともいう中国人死者は、自分で勝手に海に飛び込んで死んだわけではない。
殺したものと殺されたものが同列に並ぶ被害者であるはずがないのです。
周恩来はそのウソを口にしたとき、どんな気持ちであったか。
いま日本は南京大虐殺を否定して、専門家会議までやりました。
そして否定できなかった。
中国の主張する30万人はないが、2万から10万ぐらいは否定できない
と言う結論に落ち着きました。
そしてNHKやその他のマスコミがしたことといえば...
南京大虐殺から、大の字を外して南京虐殺というようになってしまいました。
10万人程度なら大をつけるのはおおげさなら、なぜ阪神淡路や東北の
震災には大をつけるのか。
日中が戦えば中国の日本に対する憎しみの再燃はとどまるところを知らぬ
可能性があります。
(ID:119568177)
日常の生活や人間関係において「許し」、というキーワードを意識して、対処することは有効と思われる。対立や怒りは過剰にエネルギーを浪費し、疲労を増大させるから。
「許し」に限らず、長い人生を生き抜く上では、なにがしかの「自己暗示」や「おまじない」のようなものはあった方が良いと考えている。
私の場合には真宗門徒であるから、報恩講に際して、説教に立ったお坊さんから、南無阿弥陀仏と称えよ、と毎年一回、諭されてきた。
浄土真宗東本願寺派のHPによると、南無阿弥陀仏を唱えれば、「私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。」となっている。信じる信じないはあなた次第のハナシではある。
マルクス主義的には、あの有名なフレーズ、「宗教は民衆の阿片である」が思い出されるところではある。
しかし、前にも書いたが住宅ローンやら、子育てやら、仕事に組合活動等のイロイロ不安のタネは尽きないものであった。煮詰まりそうだな、と思えば、心のなかで「南無阿弥陀仏」と唱えたのであった。精神神経科医の森田正馬先生の著作も何度も読んだが、人間関係を含む日常の場面を乗り越えるためには、「南無阿弥陀仏」は有効であった。称えることで、一度、落ち着くとか、リセットするカンジであろうか。
人間社会を生き抜くためには、他者をどう捉えるか、他者とどう向き合うか、という課題は避けて通れない。
以前に他者論で有名な哲学者レヴィナスに関する新書を読んだことがあった。レヴィナスは他者の「顔」という抽象化された表象を示しながら、その救いを求める呼びかけに応えなければならない、というような倫理の問題も提起していた、と記憶している。
私が読んだのは『全体性と無限』の解説本だったとおもうが、ウィキペディアによるレヴィナスの他者論がわかりやすく、ストレートなので引用させていただく。
「「他者」は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しており、どのような言葉や理屈を述べても、それを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できない。
例えば言動「x」が存在する場合、その言動を丸ごと「括弧」でくくって否定するような「他者」が存在し得る[11]。つまり「『x』は馬鹿だ」というような、「他者」による言動が存在可能である。だが、その言動さえも丸ごと「括弧」でくくり、「『『x』は馬鹿だ』は馬鹿だ」と否定する「他者」も存在し得る。さらにその言動さえも否定する「他者」も存在可能であり、このように「他者」は無限である。」
「「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。」
と、ここまで、人生を円満に生き抜くための自分のなりの知恵のようなことを考えてみた。
しかし、現実世界はネトウヨもいれば、アメリカ帝国のような存在もいる。一つの知恵や切り口だけで対処でいるかというとそうも行かない。ただし、私はバランス感覚は大事だと考えている。それは、必ずしも足して二で割ることを意味しない。今日のように、片方に極端にブレがちな言論空間では、真逆の論理を提起することには意義がある、と考えている。