日常の生活や人間関係において「許し」、というキーワードを意識して、対処することは有効と思われる。対立や怒りは過剰にエネルギーを浪費し、疲労を増大させるから。 「許し」に限らず、長い人生を生き抜く上では、なにがしかの「自己暗示」や「おまじない」のようなものはあった方が良いと考えている。 私の場合には真宗門徒であるから、報恩講に際して、説教に立ったお坊さんから、南無阿弥陀仏と称えよ、と毎年一回、諭されてきた。 浄土真宗東本願寺派のHPによると、南無阿弥陀仏を唱えれば、「私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。」となっている。信じる信じないはあなた次第のハナシではある。 マルクス主義的には、あの有名なフレーズ、「宗教は民衆の阿片である」が思い出されるところではある。 しかし、前にも書いたが住宅ローンやら、子育てやら、仕事に組合活動等のイロイロ不安のタネは尽きないものであった。煮詰まりそうだな、と思えば、心のなかで「南無阿弥陀仏」と唱えたのであった。精神神経科医の森田正馬先生の著作も何度も読んだが、人間関係を含む日常の場面を乗り越えるためには、「南無阿弥陀仏」は有効であった。称えることで、一度、落ち着くとか、リセットするカンジであろうか。 人間社会を生き抜くためには、他者をどう捉えるか、他者とどう向き合うか、という課題は避けて通れない。 以前に他者論で有名な哲学者レヴィナスに関する新書を読んだことがあった。レヴィナスは他者の「顔」という抽象化された表象を示しながら、その救いを求める呼びかけに応えなければならない、というような倫理の問題も提起していた、と記憶している。 私が読んだのは『全体性と無限』の解説本だったとおもうが、ウィキペディアによるレヴィナスの他者論がわかりやすく、ストレートなので引用させていただく。 「「他者」は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しており、どのような言葉や理屈を述べても、それを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できない。 例えば言動「x」が存在する場合、その言動を丸ごと「括弧」でくくって否定するような「他者」が存在し得る[11]。つまり「『x』は馬鹿だ」というような、「他者」による言動が存在可能である。だが、その言動さえも丸ごと「括弧」でくくり、「『『x』は馬鹿だ』は馬鹿だ」と否定する「他者」も存在し得る。さらにその言動さえも否定する「他者」も存在可能であり、このように「他者」は無限である。」 「「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。」 と、ここまで、人生を円満に生き抜くための自分のなりの知恵のようなことを考えてみた。 しかし、現実世界はネトウヨもいれば、アメリカ帝国のような存在もいる。一つの知恵や切り口だけで対処でいるかというとそうも行かない。ただし、私はバランス感覚は大事だと考えている。それは、必ずしも足して二で割ることを意味しない。今日のように、片方に極端にブレがちな言論空間では、真逆の論理を提起することには意義がある、と考えている。
チャンネルに入会
フォロー
孫崎享チャンネル
(ID:119568177)
日常の生活や人間関係において「許し」、というキーワードを意識して、対処することは有効と思われる。対立や怒りは過剰にエネルギーを浪費し、疲労を増大させるから。
「許し」に限らず、長い人生を生き抜く上では、なにがしかの「自己暗示」や「おまじない」のようなものはあった方が良いと考えている。
私の場合には真宗門徒であるから、報恩講に際して、説教に立ったお坊さんから、南無阿弥陀仏と称えよ、と毎年一回、諭されてきた。
浄土真宗東本願寺派のHPによると、南無阿弥陀仏を唱えれば、「私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。」となっている。信じる信じないはあなた次第のハナシではある。
マルクス主義的には、あの有名なフレーズ、「宗教は民衆の阿片である」が思い出されるところではある。
しかし、前にも書いたが住宅ローンやら、子育てやら、仕事に組合活動等のイロイロ不安のタネは尽きないものであった。煮詰まりそうだな、と思えば、心のなかで「南無阿弥陀仏」と唱えたのであった。精神神経科医の森田正馬先生の著作も何度も読んだが、人間関係を含む日常の場面を乗り越えるためには、「南無阿弥陀仏」は有効であった。称えることで、一度、落ち着くとか、リセットするカンジであろうか。
人間社会を生き抜くためには、他者をどう捉えるか、他者とどう向き合うか、という課題は避けて通れない。
以前に他者論で有名な哲学者レヴィナスに関する新書を読んだことがあった。レヴィナスは他者の「顔」という抽象化された表象を示しながら、その救いを求める呼びかけに応えなければならない、というような倫理の問題も提起していた、と記憶している。
私が読んだのは『全体性と無限』の解説本だったとおもうが、ウィキペディアによるレヴィナスの他者論がわかりやすく、ストレートなので引用させていただく。
「「他者」は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しており、どのような言葉や理屈を述べても、それを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できない。
例えば言動「x」が存在する場合、その言動を丸ごと「括弧」でくくって否定するような「他者」が存在し得る[11]。つまり「『x』は馬鹿だ」というような、「他者」による言動が存在可能である。だが、その言動さえも丸ごと「括弧」でくくり、「『『x』は馬鹿だ』は馬鹿だ」と否定する「他者」も存在し得る。さらにその言動さえも否定する「他者」も存在可能であり、このように「他者」は無限である。」
「「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。」
と、ここまで、人生を円満に生き抜くための自分のなりの知恵のようなことを考えてみた。
しかし、現実世界はネトウヨもいれば、アメリカ帝国のような存在もいる。一つの知恵や切り口だけで対処でいるかというとそうも行かない。ただし、私はバランス感覚は大事だと考えている。それは、必ずしも足して二で割ることを意味しない。今日のように、片方に極端にブレがちな言論空間では、真逆の論理を提起することには意義がある、と考えている。