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・日本人が外に向かって(他人に対して)自分を位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先することである。記者とか、エンジニアであるということよりも、A社、S社の者ということである。(中略)「会社」は個人が一定の契約関係を結んでいる客体としての認識でなく、私の、またわれわれの会社であると認識されている。
・日本社会に根強く潜在する特殊な集団認識の在り方は「イエ」(家)の概念に代表される。・「家」よりも大きい集団としては、中世的な「一族郎党」の集団がある。
・「資格」の異なる者に同一構成員としての認識、その妥当性をもたせる方法としては、外部に対して、「われわれ」というグループ意識の協調で、それは外にある同様なグループに対する対抗意識である。「同じグループ成員」という情的な結びつきを持つことである。資格の差別は理性的なものであ
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縦社会、権力社会は、男の地位が下落し、家庭は変化しているが、企業だけでなく、あらゆる組織という組織が、上下関係が徹底している。
問題は、権力者が、監督する組織をつくり、運営する人間を、権力者が選んでいるから、始末が悪いことである。
表面的には、外部の人間が監査しているようであるが、問題点を組織の人間が指摘しても取り上げられることなく、却下、無視されてしまう。
唯一の解決方法は行政であるが、法律を施行した行政も同じような体制下にあり、問題点提起が取り上げられることがない。審議会委員など行政が人選するから、行政の意向に反対する人は、首を覚悟して発言しなければならない。
(ID:19005377)
中根千枝さんの日本社会の分析は見事ですね。今も日本人の集団は全く変わらない。安倍政権になってその病状は深刻を超えている。
私は内外の文学を読むのが好きです。日本には私小説が他国に比較するととても多いように思うのです。日本人が縦社会にがんじがらめになって死にそうだから、私小説を読んで解放されたいと望んでいる、いた、からでしょう。そして、そのマーケットは小さく無く、私小説を書く作家を支えたのではないでしょうか。
私の好きな山本周五郎は会社で偉くなっている人や政界で高い地位にいる人が同席する集まりには参加しなかったということです。そのことを山本周五郎の欠陥性格だと非難する評論家がいますが、山本周五郎は小説の本髄はアナーキズムだと認識していた筈です。従って、小説家はアナーキストたるべきだと考えていたに違いない。ですから、支配者然とする偉い人とは同席しなかった。当然のことです。