国土②―ベルク・フランス地理学者
オギュスタン ベルクは一九四二年生まれ。フランスの地理学者でフランス社会科学高等研究院教授。一九六九年初来日し、宮城大学教授などとして通算十数年、日本に滞在した
・山々には目を奪うような尖峰が欠けてはいるものの、造山運動の歴史が比較的浅く、気候が激しいために、斜面は切り立っていて谷はV型と深く刻みこまれている。そのため、日本のわずかの隆起でさえ、しばしば本物の山の姿をとる。
・日本の山は交通の点からしても困難な自然環境だが、住民にとっても厳しい環境である。
・短くて速い流れは平野部にあっても、山の近いことを感じさせる(急激なすさまじい増水、劇的な流出と浸食、河床の容赦ない移動等列挙)。
・沿岸地方は有史以来、特権的な美的テーマであり、隣の朝鮮や中国には見られないほどの段階まで活用され、開発されてきた。
・日本の文化は海洋国の文
コメント
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日本人は歴史的に野に繰り出す民族か?云々の命題は、普段考えたこともないので若干立ち止まって考えねばならない事です。実は私はサラリーマン家庭の育ちで自身も生涯、公務員で終わった勤労人生です。しかし、25年前から、どうしてもやりたくて家庭菜園(120坪)を続けています。休憩の一服は至福のひと時で、土と水と緑に接している身に25年経った今も自己陶酔するくらいにドップリです。民族としてのDNAが露出しているのかな・・なんて考えてしまいます。
(ID:19005377)
問い1への答え
全くその通りです。日本ではどんな平野部であっても源流たる山が見える。
問い2への答え
野に繰り出す国民とはよく言ったものです。日本の宗教のありかたを視れば分かります。神仏混淆がその答えでした。聖性が野生の空間の奥に近づくにつれて高まることに一早く悟り独特の日本の仏教を完成させた人が空海ではないでしょうか。
問い3への答え
神社のご神体は空ではないでしょうか。強いて言えば、俗で汚れ多い人間界から超越するもので聖性の至上。幕末に日本にやって来た若き外交官アーネスト・サトーは横浜の英字新聞に「神道は宗教とは言えない。何故ならそこには体系が無い」と寄稿している。キリスト教の個の重視の立場からみれば、ご神体はアフリカや南米の未開地の土着民に多く見られる集団思考の核みたいな不可思議なものだったのではないでしょうか。
(ID:18471112)
(1)青森~下関を流れるような「大河」がない以上、係る比較をせずとも「そのような結論」が出せるのでないか。
(2)特に日本人が野に繰り出す国民なのか否か知識がありませんが、山岳信仰の対象だった山も多いでしょう。そうした傾向はあったと想像。それが現代に引継がれているかというと...単にイベント好きなだけでないか。最近、久しぶりに高尾山へ行きましたが、思いの外 賑わっており驚きました。年配の方々が鍋パーティーしていた、ワインを持って来てワイングラスで乾杯していた、との目撃情報もあります。
夕方下山していると、これから登ってくる人も少なからずいて、どうやら夜景目当てのようでした。
(3)まさに自然(山、大樹、巨岩、etc.)を御神体と見做しているでしょう。
しかし、私がここで書きたいのはこのことではない。(天木氏風)
サイドバーに「生き方」のツイートもありましたが、こんな野暮なことは私のような第三者の読者が問いかけるしかないとの思いです。
(1)「人格の個別化を排斥し、共同的な一体性を称揚する」のは孫崎さんにも当て嵌まるか。
(2)概ね当て嵌まらないとしても、御身内となれば その限りでなくなるか。
(3)ズバリ、御子息の件につき、どのような思いでおられるのか。