国土②―ベルク・フランス地理学者
オギュスタン ベルクは一九四二年生まれ。フランスの地理学者でフランス社会科学高等研究院教授。一九六九年初来日し、宮城大学教授などとして通算十数年、日本に滞在した
・山々には目を奪うような尖峰が欠けてはいるものの、造山運動の歴史が比較的浅く、気候が激しいために、斜面は切り立っていて谷はV型と深く刻みこまれている。そのため、日本のわずかの隆起でさえ、しばしば本物の山の姿をとる。
・日本の山は交通の点からしても困難な自然環境だが、住民にとっても厳しい環境である。
・短くて速い流れは平野部にあっても、山の近いことを感じさせる(急激なすさまじい増水、劇的な流出と浸食、河床の容赦ない移動等列挙)。
・沿岸地方は有史以来、特権的な美的テーマであり、隣の朝鮮や中国には見られないほどの段階まで活用され、開発されてきた。
・日本の文化は海洋国の文
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産経新聞いい記事を書けるんだ。「“人間性も金メダル級”、ライバルたたえた小平奈緒を韓国メディア絶賛」,韓国中央日報「小平は金メダル確定後、涙を流す李に駆け寄って抱擁し、韓国語で「よくがんばった」と慰労。同チームの選手が金、銀を獲得のよう」
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自民党憲法改正の教育部門、「教育無償化を明示する規定は見送る」「教育環境を整備するため、国の努力義務」努力しなければならないと書いてそれが何になるのだ。そんなことを書いて憲法改正必要とはあまりに茶番。それでも国民は騙されるのか。
コメント
問い1への答え
全くその通りです。日本ではどんな平野部であっても源流たる山が見える。
問い2への答え
野に繰り出す国民とはよく言ったものです。日本の宗教のありかたを視れば分かります。神仏混淆がその答えでした。聖性が野生の空間の奥に近づくにつれて高まることに一早く悟り独特の日本の仏教を完成させた人が空海ではないでしょうか。
問い3への答え
神社のご神体は空ではないでしょうか。強いて言えば、俗で汚れ多い人間界から超越するもので聖性の至上。幕末に日本にやって来た若き外交官アーネスト・サトーは横浜の英字新聞に「神道は宗教とは言えない。何故ならそこには体系が無い」と寄稿している。キリスト教の個の重視の立場からみれば、ご神体はアフリカや南米の未開地の土着民に多く見られる集団思考の核みたいな不可思議なものだったのではないでしょうか。
(1)青森~下関を流れるような「大河」がない以上、係る比較をせずとも「そのような結論」が出せるのでないか。
(2)特に日本人が野に繰り出す国民なのか否か知識がありませんが、山岳信仰の対象だった山も多いでしょう。そうした傾向はあったと想像。それが現代に引継がれているかというと...単にイベント好きなだけでないか。最近、久しぶりに高尾山へ行きましたが、思いの外 賑わっており驚きました。年配の方々が鍋パーティーしていた、ワインを持って来てワイングラスで乾杯していた、との目撃情報もあります。
夕方下山していると、これから登ってくる人も少なからずいて、どうやら夜景目当てのようでした。
(3)まさに自然(山、大樹、巨岩、etc.)を御神体と見做しているでしょう。
しかし、私がここで書きたいのはこのことではない。(天木氏風)
サイドバーに「生き方」のツイートもありましたが、こんな野暮なことは私のような第三者の読者が問いかけるしかないとの思いです。
(1)「人格の個別化を排斥し、共同的な一体性を称揚する」のは孫崎さんにも当て嵌まるか。
(2)概ね当て嵌まらないとしても、御身内となれば その限りでなくなるか。
(3)ズバリ、御子息の件につき、どのような思いでおられるのか。
>>4
こんにちは
横からですが・・・
別にたいした思いは持っていらっしゃらないのでは?
互いに忙しいおとなですから、変な言い方ですが、重病やそれに匹敵するようなことでもない限り、口もあんまりきかないような気がします(もちろんただの想像です)。
それに安保関係は官邸・防衛省が中心のマターになってるんでしょうし、今後TPP関連で米国とシビアな交渉もあるんでしょうから、仕事の内容を考えればおそらくは孫崎さんも納得できる適材適所なんでは?詳しいことは知りませんが。
そのうえで、一つ申し上げるなら、なんといっても、天木さんまで含めて、もと高級官僚がほんとうに反体制になるわけないじゃないですか。過剰になにか期待を負わせるのは、おかしいとおもいます。体制内での路線対立はおおいにあるでしょうけども。
ま、私の考えなどどうでもいいでしょうが、このあたりが世間の普通の見方だとおもいます。
(ID:18367902)
地理学者というより、哲学者というイメージが強い。おおざっぱにベルク氏を調べてみたが、時代年齢によって見方考え方が変遷しているのではないか。
フランスから、中国を目指したが、文化改革で混乱しており、日本を、「脱中心化」の拠点とした。日本の和辻哲郎の「風土」にかなり影響を受け、自然環境を時間的視点で移ろいゆく姿を精神的物理的にとらえる日本式に、空間の中の形を精神的物理的にとらえるヨーロッパ式と同じように自然環境存在の理念を認めていったようである。最後的には、米国、日本、西洋の3極構造の中で、ギリシャ、ローマにさかのぼる伝統的な西洋「再中心化」に、自分の立ち位置を定めている。
日本の特質を、「人間の個別化を排斥し、共同的な一体性を称揚する傾向」ということは、ベルク氏の思想とは一致しないのではないか。太字以降は、微妙に論理が変わっており、孫崎さんの解釈ではないだろうか。日本は個別化を排斥しているというより、空間を、唯物的に形としてとらえるのでなく唯心的に時間的推移の中に見てゆくということであり、思想的文化論で理解すべきものではないか。