礼讃

礼讃・第62回「VIPなおじさまたち」②

2015/01/08 13:00 投稿

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私が小沢さんの家の庭で、鉢を回したり持ち上げたりして、幹の曲線が多く見える位置を正面に腰を屈め、下から見上げていると、

「花菜ちゃんは実家に盆栽があったんだろう?」

と、小沢さんに言われた。

「実家にはアロエの鉢しかありませんよ。祖母の家の近所に住むお医者さんが盆栽好きで、子供の頃からよくピンセットで葉を取ったり、棒で土をほぐす手伝いをしていたんです。剪定鋏で枝や根を切るのは見ているだけだったけれど、黒松の植え替えぐらいは出来ますよ。盆栽を見る時は、ちっちゃくなった自分が根元に立っていると想像してごらんって言われましたね。良い盆栽は、何メートルもある大きな木に感じられるものだって」

私は河合先生が話していたことを思い出して言った。

小沢さんは、「ほう」と呟き、二月に東京都美術館で開催される国風盆栽展に出展する五葉松の鉢を見せてくれた。

私は絵画が好きで、よく美術館に行く。自宅から十分で渋谷の映画館に行けるので、上京してからは、映画を観る回数も増えた。

 生活の軸はギャンブルで、競馬は毎週、競艇と競輪場も行かない月はない。

海釣りが好きな鉄鋼業の久保さんは、釣果を御馳走してくれる。彼からは、船や海、釣りの話をよく聞いた。私が知っているオホーツク海や西別川の魚の話を、彼は興味深く聞いてくれた。

 繊維メーカーの尾崎さんは、家庭菜園が趣味で、引退したら田舎で農業をするのが夢だという。有吉佐和子の「複合汚染」に影響を受けた世代なのだ。彼にヤマザトの話をしたら、私の知らないヤマザトのことを教えてくれた。

「自分のためになることだけ考えていたら、良い情報を持った素晴らしい友は寄ってこない」

と、父が言っていた。

「自分から積極的に相手のためになる会話は何だろうかと考えて、相手がその情報を得たことによって、何がしか相手の人生の充実に繋がる話題を提供しなさい」

と、小学生の頃から教えられてきた。

「そうすれば、花菜と話していると、いつも楽しくて時間を忘れてしまうと思われて、次々と更に高次元のレベルを求める良い情報を持った友達が集まってくるものだ。建設的な時間を過ごすためには、まず、自分自身が明るく楽しく、相手のためになる話題の提供者になることが大事なんだよ。いつもそんな会話のできる人が、いつの間にか周りから愛され、尊敬される女性として育っていくものだ」

と、父が言っていたことは本当だと思った。

 これは、友人との付き合いにおける自分の姿勢のあり方を娘に説いたというよりは、子供達から脈絡のない話をされることに父は参っており、せめて長女の私にだけは、まともな会話をしてくれという願いもあったのだと思う。

父は、「どうして子供の話っていうのは脈絡を持たないのだろう」と、真剣に頭を抱えていた。

その横で美穂が「みゃくらくって、手首で計るんでしょ」と、自分の左手首を右手で強く摑み「みゃくらくわかんない」と言った。そして突然「私の名はミホー」と歌い出した。LDで観たプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』のアリア『私の名はミミ』を聴いてから、美穂はすっかりこのフレーズをオペラ調で歌うのが気に入っていた。

父は脈拍の間違いだとか、いきなりプッチーニを歌い出すことが脈絡のなさだと言う気力もなく、溜め息混じりに苦笑した。

『ラ・ボエーム』は、父と私と美穂の三人で観た。パリの屋根裏部屋に下宿する詩人のロドルフォが「冷たい手」を、お針子のミミが「私の名はミミ」を歌い、二重唱で第一幕が閉じた時に

「この三曲を聞いただけで二人が恋に落ち、恋愛関係になったことがわかる」

と、父は言った。

貧しい暮らしの中での儚い愛を描いたこの作品は、ロドルフォとミミの純愛がアリアで心に届く。

同じものを見たのに、美穂が歌う「私の名はミミ」はコメディになっていた。イタリアのソプラノ歌手の艶やかな声の響きはパロディされ、大口を開け甲高い声で叫ぶ「ミホ」になっていた。

 同じ両親から生まれ、育てられたのに、どうしてこうも違うのか。本当に不思議だと思う。

 料理、菓子、ゴルフ、囲碁、将棋、チェス、麻雀、パチスロ、公営ギャンブル、クラシック音楽、歌舞伎、文楽、落語、映画、オペラ、絵画、釣り、農業、陶芸、俳句、能面作り。これだけ知っていれば興味をひくものが、何かある。逆に、これらに一つも関心がないという男性と付き合うのは、私がつまらない。

趣味が合うからといって、良いパトロンになってくれるかは別の話で、これらの趣味が一切ない男性が一億円以上貢いでくれたりするから、人の相性とは面白い。

 私は元来、勉強が好きなので、稽古事など楽しく文化的なことに触れて過ごせることは嬉しかった。

男性目線で、遊びながら学んでいたのだが、女性しかいない世界が一つあった。香道である。

 後の話だが、結婚し、子供ができた美穂に

「香道の会に行ってみない? 紀尾井町のお茶室で開かれるの。窓越しにニューオータニと桜の木が見えて、都心なのにとっても静かで落ち着けるわよ」

と、誘ったことがある。古くから香に関する訓や効用を記した香十徳を伝えたのだが、

「は? コードーって何? キオイチョーってどこ?」

煙草にライターで火をつけ、大きく吸い込んでから美穂は言った。私が説明すると、

「そういうの面倒臭いからいいわ」

と、あっさり断った。まだ赤ん坊の娘の愛音の世話に追われている美穂を見て、静寂の中で香を聞く風流な一時を過ごさせてあげたかった。

「綾子に愛音ちゃん預けて、たまにはゆっくりしましょうよ。一人の方が良いなら、私が愛音ちゃんのお世話をしてあげるわ」と、私が言うと

「花菜ちゃんが愛音を預かってくれるなら、私、漫画喫茶行きたい。一人で一日中思いっきり漫画読みたい」

と、美穂は珍しく真面目な顔で言った。

 育児から解放され漫画喫茶で一日過ごした美穂は「あ~楽しかった。また頼むね」と言い、娘を抱いて帰って行った。

私が香道をすることになったきっかけは、小沢夫人の美樹子さんからの誘いだった。

 まず、香は嗅ぐのではなく聞くと表現することが新鮮で、香席に行くために着物の着付けを、回答を記録紙に筆で記すため書道を、習うまでになった。

組香の証歌を学ぶため、図書館で古今和歌集に関する本を借りて読んだりした。テーマになる古典文学に心を寄せ、香りを聞き分ける組香に嵌まった。

手前に使用する道具は、美術的要素が強く、鑑賞するだけでうっとりする。線香のように直接点火せず、香炉の中に熾こした炭団を入れた炭を山形に整え、頂点に銀葉と呼ばれる雲母の板をのせ、その上に五mm角に薄く切った香木を置く。香木に、間接的に熱を加えることで醸し出される香気を楽しむという奥ゆかしさがたまらない。

 銀葉と炭団の位置の調節により、香りの発散度合が決まるのだが、熱の伝わりを調節するのは熟練の技が必要になる。香席で、客として良い香りを当たり前に楽しんでいたが、自宅で焚くと、熱が伝わり過ぎ、香木から煙が出て香りを聞くどころではなかったり、熱が弱くて香りがしないという事態になり、銀葉を調節する難しさを知ったのだった。

雅也君の母・優子さん、碑文谷に住む祖母・芳子さん、看護師の珠子さんの四人で歌舞伎を観た時に、芳子さんと珠子さんが着物で来た。

「私も最近着付け教室に通って、よく着物を着ているんですよ。香道を始めたら皆さん和服姿でみえるから」

と、私が言うと、

「あら、花菜ちゃん香道してるの」

と、優子さんがティーカップを聞香炉に見立て、左手の上に置き、右手を筒のようにしてカップの上に覆い、その間に鼻を近付けて香を聞く仕草をした。

「うちは昔から志野流なのよ」と、芳子さんが言った。

私は御家流だった。流派によって作法が違うらしい。

私はまだ菖蒲香や菊合香といった季節の組香しか知らなかったが、芳子さんに源氏香を教わった。

香炉が五回まわり、五つの香りの異同を紙に記すのだが、この書き方こそが源氏香の特徴で、五本の縦線に同じ香りであったと思うものを横線でつないでゆく。

この五本の線の組み合わせは五十二通りあり、この図を源氏物語五十四巻のうち、桐壷と夢浮橋の巻を除いた五十二巻にあてはめる。この対応関係を記した「源氏香の図」と自分の書いた図を照合し、源氏物語の該当する巻名を書いて答えとする楽しみ方だ。これはかなり面白かった。

 私の頭の中は、麻雀でジャラジャラ洗牌する音や、競輪場でゴール一周前にかけてジャンジャン打ち鳴らされる半鐘の音や、ボートのモーター音や、プロペラが水飛沫をあげる音や、馬の蹄が地面を蹴る音や、スロットのコインが流れ出してくる音なんかで騒々しいのだが、香を聞く静寂の時は、心身が浄化されていくのを感じられた。

 実際、香の十徳にも、そういった効用が書かれている。感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされ穢れを取り除き、忙しい時も和ませる、といわれているのだ。

 麻雀最強位戦で西原理恵子が着物姿で打っているのを見て以来、私も香道の日には着物で卓を囲むようになったのだが、これがおじ様達に異様に好評だった。

雀荘は食事が美味しいところがないし、空気が悪いので足が遠のき、全自動卓より手積みで打つ回数が多くなった。

 麻雀しないかと連絡が来ると、私は

「ビーフカツサンドを用意してくれるなら行くわ」

と、生意気なことを言うようになり、男性達が競って買ってくれるのが嬉しかった。

私は、大阪の洋食店でビーフヘレカツサンド(※ヒじゃなくてヘ)というものと出会ってしまったのだ。ミディアムレアのビーフカツは、噛むと熱々の肉汁が溢れ、口の中に肉の香りがふんわり広がる。味の濃いソースが薄めの衣にたっぷり塗られ、トーストしたパンに挟まれていた。

東京でも持ち帰りができるビーフカツサンドがたくさんあるようだった。自分で買おうと思い、美味しいと思った物は店の名をメモしておいた。店に電話をすると、うちはテイクアウト販売はしていません、持ち帰り用はありませんと言われることが多く、そういう店で買ってくれた男性に一目置いた。

東京には、行列が出来る店だけではなく、会員制の店や、一見さんお断りの店があることも知った。得意客にしか受けられないサービスがあるということを知ったのは、小沢さんにテレビを買ってもらった時のことだった。

私のアパートにテレビとビデオを運び、配線までしてくれたのは三越の男性店員だった。自分で買わずとも、私のアパートには最新家電が次々揃った。

テレビの次は発売されたばかりのダイソンのサイクロン掃除機が届き、吸引力より凄まじい大音量に、近所迷惑で苦情がくるのではないかと怖々使った。

潔癖症で1Kのアパートの掃除に毎日一時間以上かかると話したら、ケルヒャーの高圧洗浄機が届いた。

デパートに外商の社員がいることは知っていた。だが、小沢さんに対するサービスは、今まで私が知っている外商部のものとは違った。

小沢さんは三越のお帳場カードというカードで決済する。クレジットカードは、使えば当然、毎月請求がくる。ところが小沢さんのお帳場カードは、年に一度の一括払いなのだ。デパートに行けば専任の係員が付きっ切りで買い物を手伝ってくれる。お帳場客専用ルームでお茶を飲みながら品物を選ぶこともできる。

アパートの引越しが決まると小沢さんは、日本橋の三越で家具を買ってくれた。腰痛持ちの小沢さんはマットレスにこだわりがあるらしく、陳列されていないメーカーのシングルベッドと寝具一式を揃えてくれた。

その時に、担当した店員が正札価格より値引きし、クレジットカードも出さないのに掛け売りしたことに私は驚いた。デパートのどのフロアのどの店で買い物をしても、小沢さんは財布を出さなかった。

 テレビが届いた時も、外商の担当者が

「大型量販店よりお安くなっております。どのような物でも承りますので、今後ともご用命ください」

と、言った。自宅まで御用聞きが訪問し、全て付けで、店舗に陳列されていない物まで安く購入出来るとは。小沢さんの買い物を見ていると、お帳場カードの与信限度額が八桁以上であることは確かである。

 小沢さんの邸宅の玄関に置かれているエミール・ガレのフロアランプは、ベッドが何十台も買える値段だと言っていた。明かりを灯もすと淡い紫と緑の光の中に葡萄の文様が浮かび上がり、美しかった。こういった美術品さえ百貨店の外商から買えるのだ。

私が、日本橋三越で受けたサービスに感動したと小沢さんの友人たちに話すと、彼らは自分が贔屓にしているデパートに連れて行ってくれた。銀座の松屋、松坂屋、日本橋の高島屋。どこも似たようなお帳場制度があった。

お帳場カードの存在を知った年、お金持ちの男性達が使うカードの色が、金色から銀色になった。アメリカンエキスプレスカードからプラチナカードのインビテーションが来たかということが話題になっていた。加入の招待状が届かなくては審査を受けることさえできないカードがあることに驚いた。クレジットカードの年会費が十万円近いということも俄には信じられなかった。しかし、彼らはクレジットカード会社のカスタマーデスクやプラチナ会員の特典を上手に利用する。

私はプラチナカードを所有する男性を通じて、その恩恵を受け、カード一枚で待遇が良くなるという事実にびっくりした。

 九十年代にプラチナカードを使っていた人は、カードの使い方がスマートだった。私がお相伴に与ったのは、主に会食だった。ゴルフやホテルでも、普段味わえない上質な体験を堪能できたが、格式高い料亭やレストランで、プラチナ会員だけの特別なメニューやサービスを味わえる事が何より嬉しかった。

そして彼らは、クレジットカードが使えない、カウンターか座敷の個室しかないような小さな行きつけの店を持っていた。滅多に人に教えないとっておきの隠れ家に連れて行って貰える喜びも大きかった。

地方から大事なお客さんが見えた時に案内するという店の料理やもてなしは、言葉にならない感動があった。本当に美味しい御馳走は、大企業で働く偉いおじさんの口にしか入らないのではないかと思った。こういうお店の料理人は、料理の鉄人に出演しないし、グルメ雑誌の取材を受けることもない。

ホテルオークラのフレンチトースト、ハヤシライス、ふかひれの姿煮込み、五目あんかけ焼そばが日本一だと思って通い詰めていた私に、本当に美味しい物はホテルでは食べられないんだよと教えてくれたのが、プラチナカードを持っていた男性たちだった。

 私は優子さんと高島屋、美樹子さんと三越の開く展示即売会や受注会に行き、老舗呉服店系の百貨店の顧客達が醸し出す雰囲気を肌で感じていた。鉄道系とは格が違った。物を買う時は、必ず正規直営店で新品を一括払いで買う人達だ。間違ってもドンキホーテやコメ兵でシャネルのバッグを買ったりしない。セレクトショップで買うこともないだろうと思う雰囲気がある。

一流の人は、どこでどんな風に買うかということも含めて、物に対して善き物語を大切にしているように思う。それは、男性の服や物選びを見ても感じることである。何を買うにも、歴史や貴人や偉人への憧れなど、権威の裏付けや物語を必要とする人が多い。

そのような心理を持っているからこそ、男性が着るシャツやコートは生地ひとつにも物語があるのだろう。織ネームのタグを見て、その服の物語を連想するロマンチストなところが男性にはある。そういう男性が私は好きだ。

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