小沢さんが紹介してくれる男性から名刺を貰うたびに、会社四季報で調べるのが習慣になった。
肩書でピンとくるのは社長くらいで、専務と常務はどちらが偉いのか不明だし、相談役、執行役員となると、何をするのか想像がつかなかった。相談役のおじさんに、「社員のカウンセリングをしているんですか?」と訊いたら、笑われた。取締役という名称がついていたら偉い人なんだなと思っていたが、肩書はすぐ忘れてしまった。
相変わらず新聞は読まず、テレビのニュースを見ることもなかったが、小沢さんの書斎にあるビジネス雑誌や新書は興味深く読んでいた。
私は東京に来て、企業の偉い人たちがする会食の多さに驚いた。社長や役員ともなると、毎晩、外で会食する。レストランや料亭で食事をし、バーや倶楽部でお酒を飲むのが日常なのだ。こんな人は田舎にいなかった。
彼らは、ほとんどテレビを見ない。見る暇がないのだろう。朝から働き、夜は接待だ、パーティーだと会食して遅くに帰宅する人に、テレビを見る時間がないのは当然だと思う。
私の周りでテレビの話をするのは、西の祖母と晴子さんと千代さんと妹だけだった。要するにテレビは、高齢者と暇な女性と子供が見るものなのだろうと思っていた。彼らと会食して、テレビの話題が出ることは、まずない。
「一昔前、海外の情報は、現地に行かないと得られなかったものだったよなあ。世界の旅やNHK特派員報告だって、週に一度しか放送してなかった」
「日曜にやってた兼高かおるの世界の旅とNHKの特派員だよりは俺も見てたなあ」とかいう昔話を聞く程度だった。
彼らは、小沢さんがいない時でも「花菜ちゃんがいると面白いから」と言って、食事に誘ってくれた。私は、普段行けない店で美味しい物を御馳走して貰える事が嬉しかったし、ギャンブルをする為の資本になる現金を集める必要があったから、懸命だった。
億を稼ぐ人たちから、協力や支援を得るためにはどうすべきかをひたすら考え、実践してきた。
多忙な彼らが、十八歳の私に興味を持ち、誘ってくれるのはなぜだろうと自己分析するところから始まった。彼らは私の何を面白いと感じているのか、私は他の女の子と何が違うのかを考えた。磨くべき自分の武器が何かさえわからなかったのだ。
とてつもなく稼ぐ人たちと接して感じたことは、彼らは皆、強い言葉を持っているということだった。成功を収めた人たちは、自分の中に体験や、知識、データを蓄積し、真剣に自分の仕事と人生に向き合い考えている。彼らはチャレンジを繰り返し、失敗や挫折も経験し、山あり谷ありの人生から形造られた思想や哲学を持っている。
自分自身の軸を持っている彼らと、十八歳の女の子がお互いの意識を共有したり、理解し合うことは本来難しいと思う。私が、彼らと仲良く付き合えたのは、体感として体に染み込んでいるものが、共鳴したからだと思う。
私は、同世代の女性に比べて、経験と知見の引き出しが多いことには自信があった。それは、就職した折に発見したことだった。同期の高卒新入社員は話にならなかったが、大学を卒業した二十二歳にもなる人たちさえ、知見が狭かった。
「木山さんキテる」とよく言われた。いつの間にかこの表現は、「イケてる」という言葉に変わり、「キテる」と言うと頭がおかしい人を指すようになったが、当時は褒め言葉だった。
自分の思いを相手に的確に伝える上で、同じ趣味や体験があると、少ない言葉で理解を得やすい。そして、自分の得意分野の方が、相手を自分の強みに引き寄せて話すことができる。自分の存在価値を相手に認めてもらうには、自分の土俵に相手を引き込んで話をすることが大切だと私は思う。
私は自分を文楽の人形だと思っているので、雛鳥にも八重垣姫にもなれる。
私は、男性によって息吹きを与えられ、思考を持つ。
私は、こういう人間だとか、私の意見はこうだと決めつけてしまわない。相手の要望に合わせて自分の打ち出し方を臨機応変にカスタマイズする。相手の状況や興味関心に合わせて、答えを変えていく。男性との会話において自分の中に答えを持たない。
大勢の前でスピーチするわけではないから、事前に話す事柄を決めて臨むことはしない。固定観念に縛られず、どんな局面でも落ち着いて会話を進めていく。
相手をよく観察し、上手に間を取りながら、会話に引き込んでいく。相手の顔色や言葉の行間から、察しながらコミュニケーションを図る。
話を事前に組み立てることはしないが、会う前にリサーチをすることは欠かさない。知識も情報も豊富に持つVIPの人に、聞く価値がある、或いは話したいと思わせるには、ありきたりな話をしても相手にされない。事前に、相手の評価軸や価値基準を知っておくことが大切で、私はその情報収集は怠らなかった。
この労を惜しんで成功することは難しい。相手の要望を推し測って行動することが何より大切だと思う。
相手が、その時どのような心理状態なのかによっても、切り出し方が変わってくる。所有している株が暴落したと知れば、競馬に使うお金の話は次回にしようと相手の機嫌を汲んで、相手がメリットを感じる話をする。これらは全て、小沢さんや周囲の人達の言動から摑んだことである。
本物のVIPは、会うと一気に緊張をほぐしてくれる。周りに気を遣わせず、一緒にいるだけで、優雅な気持ちになる。そういった空間に身を置けたことは、十九歳からの人生にとても役立った。
小沢さんの人脈で、その後も男女関係に発展しなかったのは、小沢さんを父に紹介していたからという理由が大きいと思う。
本来なら親が保証人になるはずのアパートの賃貸契約を、社員として働いているわけでもない法人で契約してくれるだなんて、まずないだろう。
私が、祐天寺のアパートへ引っ越すと父に連絡をしたら、父は北海道から飛んできた。
小沢さんに挨拶をすると言い、小沢さんの自宅を訪問した。二人は意気投合し、その晩、私をアパートに送り、赤坂に消えた。
だから、小沢さんに絡む男性達は、私にとって子供の頃から知っている赤旗のおじさんや馬喰さんと同じで、恋愛対象の異性としては全く考えられなかった。
「花菜ちゃんはオジンキラーだ」と、小沢さんは言う。
「丸顔でぽっちゃりした体型、色白の肌に黒髪の容姿で安心感を抱かせて、おっとりしているのかと思いきや何でも率直に言う。俺の顧客のような金持ちは、おべっかや褒め言葉を使って安易に迎合する人間は、下心があると思って信用しない。花菜ちゃんみたいに、愛想笑いもせず、ズバリと言う子は物珍しいんだろうなあ。趣味や好みが中年寄りという点も大きい」
と、私を分析するように小沢さんは言った。
趣味に関しては、VIPのおじさん達を意識して始めた遊びもあったが、ほとんどが子供の頃から嗜んでいたことだった。
週に三回、半年間レッスンプロに厳しく教えてもらうのが一番だと言われ、私は夏から小沢さんの紹介でゴルフ練習場に通っていた。
小沢さんの知人の付き合いで始めたこともいくつかある。能面作りの教室では、半年かけて能面を彫り、半導体メーカーの社長に五十万で売った。背中と肩の筋肉痛を考えたら安かったと思う。
平戸さんは能面教室の帰りに、マッサージ屋に寄ってから「菊乃井」で美味しい和食を御馳走してくれたので、新幹線代やら食事代で、実質百万円以上の能面になったと思うのだが、もう一つ作ろうと誘ってくる。
平戸さんはバルブメーカーの役員だ。私は、きっと花の球根かカメラの部品でも作っている会社なのだろうと思っていたら、ねじ屋さんだった。しかも、新幹線やタワーに使われる振動や気候で緩むことのない命の安全を考えたねじを作っているという。
俳句の会に通う好永さんは、句会の前に旅行へ連れて行ってくれる。好永さんは硝子メーカーの会長だ。アパートの窓ガラスを作っている会社ではないらしい。
陶芸を教えてくれた辻本さんには、とても感謝している。辻本さんは自動車メーカーの役員だった。私は、茶碗や箸置きを作っては、法外な高値で売っていた。
東京では、女子中高生が使用済みの下着や制服を売るのが流行っていた。この年の八月、警視庁が古物営業法違反容疑でブルセラショップを初めて摘発した。使用済みショーツが二~三千円で売られているのを知り、私ならそんな安値で売らないと思った。
この年「ボビー・フィッシャーを探して」という映画でチェスが話題になった。私は、父からチェスを、西の祖父から将棋を、本家の祖父から囲碁を教わった。
小沢さんの家にチェスセットがあり、六十四マスの盤面と六種の駒を見つめていると「花菜ちゃん、チェスできるの?」と小沢さんが言った。
「もう何年もしていないけれど、基本的なルールは知ってるわよ。騎士のナイトは八方向に跳べるとか、戦車のルークは縦横とか。兵隊のボーンは一マス前にでしょう?」
そうだよ、と小沢さんは肯いた。
「父が、過去の世界王者の棋譜を見ながら、チェス盤と駒を動かしてゲームを再現するのが好きで、私も真似していたの」
チェスの公式戦では、ゲームがどのように進んだのかを記号で記録した棋譜を自分でつける。それは、座標を示しているだけで、世界共通の記録なのだ。
田舎では手合わせできる相手がいなかったので、父は棋譜を見て戦いを再現したり、パソコンソフトでゲームするしかなかったのだろう。
小沢さんが私に握手を求めてきた。チェスの対戦は握手で始まり握手で終わるのが世界共通のエチケットである。私も手を差し出した。小沢さんの手を握ったのはこの時が初めてだった。
静寂の中でチェス盤をじっと見つめ、考え続けていると、ぶつかり合う駒の動線の感覚が甦ってきた。盤上で心を通わせ合う静かな時間が流れていく。続けていくと駒の動ける場所を見落とさなくなる。
取った駒が使える将棋と違い、チェスは盤上の駒がだんだん減っていく。チェスは考慮すべき局面の数は、10の120乗だと言われる。将棋は220乗、囲碁は360乗とも言われているが、将棋や囲碁よりチェスの方が簡単ということはない。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にもチェスが登場する。盤上の戦いにある哲学や詩が物語を生むのだろうと思う。
将棋や囲碁でもプロの最善手は、長考の末ではなく、読みの始めの方で早々に導き出されるという。何手先まで読んでいるか、何通りの手を検討しているかは、プロと素人にほとんど差がないらしい。
知識や経験の蓄積を拠り所とした直感がものを言うと思っていたが、小沢さんとのチェスは、互いに勝つ手がなく引き分けになった。次のゲームは、王手をかけられていない状態で動かせる駒がなく、またもや引き分けだった。
「チェスは勝ち切るのが難しいんだ」と小沢さんは言った。中学生以来チェスをしていなかった私に負けるなんて、相当弱いんじゃないかと思ったが、もしかしたら案外私が強いのかもしれないと考え直し「そうね」と適当に返事をしておいた。
そのように、私が同世代の女子より造詣が深いものは、いくつかある。
まず筆頭は、料理。十代にしては上手だろう。どんなレストランに行っても、知らない素材やメニューはまずない。毎日、名店で会食している舌が肥えたおじさん達を飽きさせないレベルの話はできる。
ゴルフは、半年間の特訓の御蔭で上達した。
十九歳の誕生日のお祝いにと、小沢さんが小金井カントリー倶楽部でコースに出してくれた。
日焼け対策をばっちりし過ぎて「キャディーかよ」と笑われた。
一番下手なくせに「ゴルフはお金を賭けないの?」と訊いて、周りを凍りつかせたのに、一緒に回った製薬会社の倉智さんが「是非またご一緒に」と、誘ってくれた。
コースデビューの翌週に、私は武蔵カントリークラブのグリーンに立っていた。2ラウンドしようと言われ、キャロウェイのクラブをぶんぶん振りまくった。
お金持ちのおじさん達は、ゴルフ会員券というものを持っていて、自分が会員になっているゴルフ場で接待をするらしい。私を接待しても特にメリットはないと思うのだが、よくゴルフに誘われた。
ゴルフ自体が好きなわけではない私は、そのうちクラブハウスの食堂メニューが美味しいところを選ぶようになり、遂にはラウンド後の麻雀が楽しいメンバーが揃う時にしか行かなくなった。
仕事としてピアノを教えられる程度にクラシック音楽の知識があり、月に一度はオペラを観、オーケストラやピアノのコンサートを聴くために劇場に行く。
この年の十二月は、キーロフ・バレエの『くるみ割り人形』を見て、真由ちゃんを思い出した。
小さい頃から医師の河合先生の盆栽を見てきたことも、東京で役立った。盆栽いじりが好きなおじさんは意外に多い。由緒ある家柄の庭には、五十年、百年と受け継がれた盆栽が置かれていたりする。優れた盆栽を眺めていると、鉢に小さな木が一本植わっているだけなのに、森の中にいる気持ちになるから不思議だった。
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