礼讃

礼讃・第88回「父の恋人」

2015/03/08 13:00 投稿

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ヨーロッパ研修から帰国した綾子は、オペラの素晴らしさを熱く語った。ウィーン国立歌劇場で観た、演目が日替わりで毎晩上演されるオペラ。ロシアのサンクトペテルブルグにあるマリインスキー劇場で観たバレエ。ドイツのバイエルン国立歌劇場の本拠地ミュンヘン・ナショナル劇場のオペラ。

「あの華麗さは、行かないと絶対わかんないよ。貴族の社交場。絢爛豪華。女の人がデコルテ出して、背中出して、腕出してるフルレングスのゴージャスなドレス着て、オペラ観てるの。男の人もタキシード着て蝶ネクタイしてるんだから。燕尾服着てる人もいた。みんな凄いお洒落してくるの。ウィーン国立歌劇場は立見席が当日発売されるから毎晩通っちゃった。専属オーケストラの演奏レベルが高くてびっくり。音楽監督が小澤征爾だよ。去年からやってるんだって。ウィーンは、ドイツから北イタリアを支配していたハプスブルグ君主国の首都だったから、ドイツオペラだけじゃなく、イタリアオペラも上演してきた歴史があって、ハプスブルグ家の威信をかけて最初に建設された劇場は酷評されて、建築家の二人は憤死したんだって。凄いでしょ。第二次世界大戦で建物が焼けて、今の劇場は完成してから五十年ぐらいしか経ってないの。日本じゃ上演しない演目も多いし、劇場の造りが日本とは全然違うんだよね。スカラ座は、ミラノの貴族たちが発起人になって再建したんだけど、建設費はバルコニー席の売上げで賄われたんだって。だから、ボックス持ってる裕福な人たちが、自分の席を豪華に飾り立てて、社交場になったみたい。スカラ座は、バルコニー席の上にロッジョーネっていうガレリア席があるらしい」

「天井桟敷ね。最上階の後ろにある低料金の席でしょう」

「ロッジョーネの入り口は、正面入り口とは別に建物の横に作ってあるんだって」

「スカラ座は見てないの?」

「スカラ座の公演は観たんだけど、劇場が改修工事で閉鎖されてて、ミラノの中心部から遠く離れたアルチンボルディ劇場で見たの」

「なるほど」

「ミュンヘンの国立劇場は、領主が代々オペラを愛したバイエルン王国の首都だった街に建てられて、ルードヴィヒ二世はワーグナーのパトロンだったから、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の初演をしたんだって」

歴史がいちいち豪華。

「マリンスキー劇場のバレエも良かったよ。真由ちゃん思い出しちゃった」

と、綾子は舌を出した。

「マリインスキーってキーロフ劇場だったところでしょう?」

「エカチェリーナ二世の頃に出来たって先生が言ってた。昔は石造りだったって」

「へえ。キーロフってスターリン時代に暗殺された共産党の指導者の名前よね」

「最初はマリインスキー帝国劇場っていう名前だったらしいけど、キーロフは知らない」

「そう? ソビエト時代のキーロフ劇場で公演されたオペラのLDをお父さんと見たことあるのよ。私が高校生の時に、今はキーロフじゃなくてマリインスキーになったんだってお父さんが言ってたの、覚えているわ」

「お父さんが言ってたなら、間違いないね」

「そうでしょう」

「マリインスキーは元キーロフに違いない」

と、綾子はきっぱり言った。

 私たちの父への信頼は絶大だった。

「パリのガルニエ宮なんて、ナポレオン三世の時代に十五年もかけて建てたんだって。バスティーユ広場の前にあるオペラ・バスティーユと交互に上演してて、この二つの歌劇場のことをパリ・オペラ座って言うんだよ。知ってた?」

「知らない」

「日本にはないよ。あんなゴージャスな劇場は。花菜ちゃんもお寺とか日本の人形劇ばっか見てないで、ヨーロッパに行ってみた方がいいよ。幕間に劇場の中を歩いたら舞踏会に来ている気分になるんだよ。貴族文化の雰囲気がぷんぷんするの。観客がそういう文化に敬意を表しているのが、服装からわかる」

「ロイヤルアスコットの来賓席みたいなもの?」

「は? ヨーロッパのオペラ劇場は、舞台の両サイドって装飾は豪華だけど、舞台からはちゃんと見えないんだよね。ボックスの中でも舞台がまともに見えるのは最前列だけで、後ろだと椅子まで粗末なの。お付きの人用みたいな感じ。社交の場だから舞台の見え具合より、観客が観客にドレスを見せ合うことの方が大事みたい」

「へえ。日本の劇場では考えられない構造ね」

「花菜ちゃんが好きな文楽とか落語って、庶民文化由来だから、オペラとは違うよね。歌舞伎だって梨園だとか言うけど、庶民のための演劇でしょ。ガルニエやバスティーユの劇場に入った時のタイムスリップしたみたいな興奮は、ヨーロッパのオペラにしかないと思う」

綾子はオペラ親善大使になっていた。

「ヨーロッパはね。小さい街にもオペラハウスがあって誰でも気軽にオペラを楽しめるんだよ。あんな贅沢な娯楽が身近にあるなんて、オペラ文化はヨーロッパに絶対かなわないと思ったなあ。外国語で歌詞や台詞の意味がわからないのに、オペラ歌手のひと声で泣きそうになるんだよ。オーケストラの演奏と合わさって、間奏で体が本当に震えるの。客席からブラボーブラボーって声が飛んで、何分も拍手が鳴り止まないこともあるんだよ。ブーイングが起きたりもする。観客の耳が肥えてるんだよね。花菜ちゃんもヨーロッパでオペラ観た方がいいよ。来日公演なんかじゃあの魅力はわかんない。全然違うから」

と、綾子は言った。

この年、東京の国立劇場で文楽の義経千本桜とひらかな盛衰記の通しがあり、綾子を誘ったが、

「日本の人形劇はちょっと…遠慮しておく」

と、にべなく断られた。綾子は

「よくお父さんが、日本人は結婚披露宴に、花婿がタキシード、父親と媒酌人がモーニングで、客は黒いスーツに白いネクタイの略礼服が正しいと勘違いしてるって言ってたでしょ。ヨーロッパの劇場やホテルで、フォーマルウェア着てる人を見たら、日本人男性のファッションがおかしいってわかったよ。モーニングって昼間しか着ないの。タキシードと燕尾服は夜。チャコールグレーか黒の上着に別布のベストを着て、縞柄のズボンをはいて、シルバーとブラックの縞柄の結び下げのタイと白いポケットチーフを合わせるのも、昼間によく見た」

「それ、ディレクターズ・スーツって言うのよ。黒のストレートチップの靴を履いていたでしょう」

「そうそう」

「モーニングを着るには畏まり過ぎてるけれど、ダークスーツでは物足りない時に丁度良いのよ。ベストを共布にしたら不祝儀にも着れるらしいわ」

これは伊東さんの受け売りだった。

「準礼装としてディレクターズ・スーツが適切だとわかっていても、日本人は慣例順守の横並び主義だから、黒の上下に白いネクタイを選ばずにいられないんだろうなって」

「ブラックスーツに白ネクタイして、大きな引き出物の紙袋を持って、ホームをぞろぞろ歩いてる男の人たちよく見るよね。日本のオペラがヨーロッパレベルになるのは、日本人の男が結婚式にディレクターズ・スーツ着るようになるくらい難しいと思う」

綾子は時々、こういった面白く鋭い指摘をする子だった。彼女があるSNSで綴っていたブログを読み、私は文才も感性も綾子に敵わないと思った。私とは全く毛色の変わった文章を書くユニークな子だった。

 綾子は父に、クリムトの絵柄の缶に入ったユリウス・マインルのコーヒー豆を、母には杏のジャムを買ってきた。

 私がリクエストしたアウガルテンの皿は、

「店の場所はわかったけど、割れると勿体ないからプチポワンにしたの」と、却下されていた。

 私と美穂にはゴブラン刺繍が施されたマリア・シュトランスキーの小さなポーチをお土産にくれた。

 餞別をくれた人へのお土産は、ザッハトルテだった。綾子はウィーンでトランクケースいっぱいにザッハトルテを買って帰国した。

「ウィーンでは、サッハートルテって言うの。これはデーメルのザッハトルテ」

と言って開けた箱からは、チョコレートコーティングされた円形のケーキに、三角のチョコレートメタルが飾られていた。

「ウィーンのデーメルのカフェで注文すると、無糖の生クリームが添えられてくるんだよ」

「へえ。それは珍しいわね」

「花菜ちゃん、ホテルザッハって知ってる?」

「知らない」

「ホテルザッハのオリジナルザッハトルテはね、上にのってるチョコメタルが丸いお花の形で、スポンジの間にもアプリコットジャムが挟んであるの。デーメルは表面だけしか塗られていないけど、ホテル・ザッハのは表面にも二層になったチョコスポンジの間にもジャムが塗られているの。コーティングするチョコレートは砂糖を結晶化させて、わざとシャリシャリした食感を作ってるんだって。ホテルザッハも無糖の生クリームがついてたよ。ザッハのカフェは、深い赤と純白と金色のインテリアで超優雅だったあ。カフェの入口で、席に着く前にコートを預けるの。それだけで一ユーロもかかるんだよ。ザッハトルテは九ユーロするの。あっ、コートの預かり代に一ユーロかかるから、一回行くと十ユーロするんだけど、何回も通っちゃった。ウィーンのケーキ屋さんってすっごくレベル高いよ。ハイナーとかゲルストナーとかも美味しかった」

「デメルは原宿にあるけど、他の店は聞いたことないわね。あっこちゃんの話を聞いてると、デメルよりホテルザッハのザッハトルテの方が美味しそうに感じるんだけど」

「うん。ホテルザッハの方が味は上だね。でも、日本人にはデーメルの方がわかりやすいでしょ。デーメルの店って昔は、王宮劇場と地下道でつながっていたんだって。ハプスブルグ家の紋章が入って、ウィーン王宮御用達菓子司として有名だし、デーメルを訪れずしてウィーンを語るなかれって言われてるし」

「ふうん」

「でも、花菜ちゃんにはホテルザッハの買ってきてあげれば良かったね。もう帰って来ちゃったけど。あはっ」と、綾子は笑った。

 私はザッハトルテより、駅の売店で買ったというTimTamのチョコビスケットが気に入った。

「どうしてこれをもっと買って来なかったのよ」

「それ、ウィーンの子供が食べるおやつだって先生が言ってたよ」

「子供のおやつのレベルも違うのねえ。こんな美味しいチョコビスケットが駅の売店やスーパーに売っているなんて、ウィーンって素敵な街ね」

「うん。ウィーンは音楽とお菓子が最高だよ」という綾子の耳には、最近いつもiPodのイヤホンが入っていた。綾子のiPodには、ジャズからロック、Jポップ、クラシックとごちゃまぜに入っていて、それをシャッフルで聴いているという。

私はイヤホンで音楽を聴くことが好きになれず、自分で買ったiPodを綾子にあげた。

「玉置浩二と槇原敬之はわかるけど、もう一人は誰?」

「大江千里を知らないの?」

「誰それ」

年の差か、趣味の違いか、綾子と私が好む歌はかなり違った。

 

2004年の七夕の日に、美穂が結婚し、幼稚園を退職した。入籍までには予想外の困難に見舞われ、私は何度も長野に通った。入籍した男性は、婚約者として私達家族に紹介していた名古屋の建設会社の息子ではなく、佐賀の嬉野温泉の息子に変わっていた。

 当初、結婚予定だった彼は、健ちゃんと同じ名前で私は妙に親近感を持っていたのだが、美穂の夫となった峰川君は、晃治という名で、美穂は晃ちゃんと呼んでいた。

晃ちゃんと結婚したいと言い出した時、美穂のお腹には赤ちゃんがいた。できちゃった婚かと思ったら、

「健ちゃんの子供だと思うから産めない。晃ちゃんも他の男の子供を育てる気持ちはないって言ってる」

と、美穂は泣いた。

当然、堕胎した。中絶手術をした翌日も、美穂は朝から幼稚園で痛みを堪えて働いた。

私は無事に帰宅することを祈りながら美穂のアパートで食事を作って待っていた。

「七夕に入籍することにした」

と、聞いた時には、既に晃ちゃんの子供を妊娠していたのにはぶっ飛んだ。

2005年一月三十日、私に姪ができた。愛音と名付けられた娘は、とても可愛い女の子だった。

 美穂の出産に合わせ、母が北海道からやってきた。

 四人の子供たちは、母親に気を遣って生きてきた。母の気持ちを察することができる感受性が豊かで繊細な心の持ち主だったから、母の期待に応えてきた。

 自分本位な母は、まさか我が子たちが、自分の心を犠牲にしているとは、これっぽっちも気付かない。母は、自己中心的な言動で家庭の和を乱し、周りを振り回すことをして平気でいた。

美穂は母乳が出にくかった。哺乳瓶で粉ミルクを作るたびに、母は、赤ちゃんの成長に母乳がいかに良い影響を与えるかを遠回しに言うのだった。

孫娘を抱き、

「愛音ちゃんのママは、おっぱいが出ないんですってよ。粉ミルクは美味しくないでしょう。やっぱり母乳とは違うものねえ」

と、赤ん坊に向かって呟くのである。

 孫を抱かせるのも親孝行だと美穂は辛抱した。

「愛音ちゃんのママは、赤ちゃんがいるのに煙草を吸っているんですねえ。だから母乳が出ないのかしら。愛音ちゃんのお父さんも煙草を吸うのねえ。朝ご飯を食べないで出勤して、家では毎日スナック菓子食べて体に悪いんじゃないかしら。ゲームばかりしているのも子供の教育に良くないと思うわあ」と、母は呟いた。

 親孝行な娘を演じてた美穂は、産後一週間で四十度の熱を出し、倒れた。

 母との深刻な葛藤が始まった。夫の晃ちゃんも不機嫌な日が増えていった。私たちが説得し、母には予定を早め、北海道に帰ってもらった。母は、

「美穂の家にいると、ストレスを感じて大変だったわ」と、吹聴した。

 これ以降、母が上京すると「俺は無理」「私も無理」と、美穂も晃ちゃんも母の相手を拒絶するようになった。

美穂が第二子を出産した時は、晃ちゃんの母親に佐賀から来てもらった。

「お母さんって、一緒にいて安らげる存在なんだね。晃ちゃんのお母さんは、何も求めないで優しくしてくれるんだよ」と言って、美穂は泣いた。

 私の甥になる長男の晃成はよく泣く子だった。美穂以外の人間に全く懐かなかった。

晃成の写真を見て母は、

「あの頭の大きさは、先天的な障害があるんじゃないかしら。いつ電話しても狂ったような泣き声が聞こえるんだけど、大丈夫なのかねえ。あれはちょっとおかしいと思うわ」

と言って、美穂の心を逆撫でした。

晃成がまだ歩くことも出来ないうちに、美穂はまた妊娠し、三度目の中絶をした。私は言葉が出なかった。

 私は母の代わりに美穂の子供の世話をした。母は孫の誕生日さえ覚えることなく、孫への関心がほとんどなかった。

美穂を筆頭に、私達は母に対して悔しさや憎しみや敵意の感情が心の底に溜まっていくことを感じていた。 

母について四人で話すことも度々あった。正博がある時、

「これ以上話すと、お母さんの人格を否定することになるからやめよう」と言った。

母は、家族の生きる気力を搾取する人だった。母の言動が生み出す心理的な緊張感は、私達のエネルギーを消耗させた。母のために我慢をすることで、頑張ることで、自分を傷つけているような気持ちになった。

 大人になっても姉妹が仲良くしているのは、自分の子育てが正しかったと、母は自慢する。

 私たちは母の一言一言を真剣に受け止めた。母の言葉は、確実に子供たちの心に傷をつけた。何よりも大きな悲劇は、このことを周囲の人から理解されないということだった。外から見ると、家族関係はうまくいっているように見えるらしいのだ。

 母のことの他に、私は関谷さんの関係とモラルハラスメントにも悩んでいた。しかし、表面的には仲の良いカップルにしか見えなかった。

 晃ちゃんの転職で、峰川一家は埼玉に越してきた。

私はよく姪を預かり、関谷さんと三人で過ごすことも多かった。彼は結婚願望が強まり、早く結婚しよう、子供を作ろう、と言い出した。

 関谷さんの父が体調を崩し、入退院を繰り返すようになったのもこの時期だった。

 

 東京で八年ぶりに雪が積もった。三月だった。二cmの積雪で大騒ぎになっていた。季節外れの寒さと降雪が交互に訪れ、桜の開花が遅い年だった。

 父は頻繁に上京していた。弟は、音楽を仕事にしたいと、私と綾子が暮らすマンションから徒歩三分の場所に居を構えていた。

 母が上京すると、子供達は誰も会いたがらないのに、父が上京すると、四人揃って自宅に招きたがった。

 峰川家は、川越に一戸建てを購入し、美穂は穏やかな環境で専業主婦として子育てを楽しんでいるようだった。TMNの追っかけだった美穂が、車内で聞く音楽は、EDMから久石譲になった。

 父は、四人の子供が近くに暮らし、招きたいと望んでいるのに、上京しても誰にも会わず、北海道に戻ることが何度もあった。

私と綾子のマンションに四人きょうだいと父が集まり、食事をした時のこと。父は、母と別居してから、東京に暮らす恋人ができたと告白した。それから何年も経っていた。父は彼女と着実に愛を育んでいた。

父は、離婚届に署名捺印し、西の祖母の家で暮らす母に送った。しかし、母は決してそれに判を押さなかった。

 私はこれを書くにあたって、稲森昭子さんのことをどう思っていたのか母に尋ねた。すると、

「昭和四十九年、新婚旅行先の帝国ホテルの部屋で、夫は彼女に電話をした。『結婚して今、新婚旅行に来ている』と、勝ち誇った口調で話していた。その女性は夫の大学時代の同級生で、その後、彼女も結婚し、我が家とお歳暮の交換が始まった。その後、私が夫と別居。彼女はご主人を亡くされた。新婚旅行の時からこのA・Iの存在は、女の勘でずっと心の奥底から消えることはなかった」

と、昭子さんをイニシャルで呼び、娘に対しての手紙で父のことを夫と呼ぶ、距離を置いたホラーじみた長文が届いた。

 五十を過ぎた父は、

「稲盛君が病気で亡くなった知らせを聞いて、久しぶりに彼女に連絡をしたら、学生時代からお互い好きだったとわかったんだ」

と、照れながら子供たちに言った。

 昭子さんの夫だった人も同級生で、大学時代は一緒に学び遊んだ仲だったという。彼は現役で司法試験に合格し、父は夢破れた。その後、昭子さんも試験に受かり、傷心した父は、北海道に戻ったのだった。

 昭子さんは都心の大手法律事務所に在籍する弁護士だという。父は昭子さんと撮影した写真を私たちに見せてくれた。何百枚もあった。

 旅先で、ホテルの部屋で、昭子さんと寄り添っている父の顔は今まで私たちが見たことのない笑顔だった。幸せが写真からこぼれてきそうなキラキラした笑みを浮かべていた。父は、

「性格の良さが顔に滲み出ているだろう」

と、にこにこしながら昭子さんの自慢をした。

写真の昭子さんは、ロングドレスを着て、スタンドマイクの前に立っていた。

彼女はシャンソンを歌うのが趣味だという。パーティー会場なのだろうか、バーのようなムーディーな照明が当てられた彼女は、奥ゆかしい品のある美しい人だった。顔には、年齢相応のわずかな弛みと皺があり、それが柔らかな印象を与えている。昭子さんは、ゆるいパーマをかけたショートヘアに、眼鏡をかけた色白の優しそうな女性だった。

 父と昭子さんは東京のホテルで、大人の時間を過ごしていた。そして二人は、中高生のカップルのようによく写真を撮り、電話をし、手紙を書き、Eメールを送り合っていた。

 二人が過ごすホテルの部屋のテーブルには、デパートの洋菓子店で買ってきたケーキとコーヒーが載っていた。ベッドサイドに置かれたエビアンのペットボトルが目についた。

父は、私が教えてあげたデルレイのチョコレートを昭子さんのために用意し、デートに向かった。ベルギーから空輸されたフレッシュクリームのショコラを、銀座のデルレイまで買いに行ったのは私だった。

ゴールドの線で描かれたダイヤモンドのデザインが美しいガナッシュ入りのチョコ。手の形をしたハーブリキュール風味のマジパン入りチョコ。貝殻の形のグランマニエガナッシュ入りチョコ。シャンパンコルクの形をしたブランデーガナッシュ入りチョコ。ダークチョコにマロンクリームとナッツが入ったエスカルゴ型チョコ。キャラメルとプラリネクリーム、コーヒーガナッシュに紅茶風味、ラム酒入り、シャンパン入り。

 素材の絶妙なバランスと芸術的なデザイン、芳醇な香りと風味。デルレイの珠玉のチョコレートは、食べる宝石のようだった。

 六月に上京した父は、私と夜にオペラを見る約束をしていた。日中、時間があるなら寄席に行かないかと父に誘われて、二人で浅草一丁目を歩いていた。庶民的な飲食店の多い浅草六区に、父が『天国前』という都バスの停留所を見つけた。

「天国って何だ」

「お店の名前かしら」

「この辺にそんな名前の店あったかね」

 二人できょろきょろした。あった。

「珈琲天国」という店だった。

「新しい店だな。入ってみるか、天国に」

父は、天国の扉を開けた。客席が十五程の小体な店は、全面喫煙で落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。

 父は、珈琲とホットドッグ、私はホットケーキを注文した。出てきたホットドッグに挟まれたソーセージの長いこと。細長いコッペパンの両端からソーセージが、びよんと飛び出ている。

そして皿とコーヒーカップには、天国の文字がしっかと描かれている。何と二枚重ねのホットケーキにも、天国と焼印が押されていた。丸い皿の隅に四角い薄切りバターが添えられている。

「ホットケーキ一枚あげるから、ホットドッグ半分食べさせて」

と言って、私は父の歯形がついたホットドッグと皿を交換した。

「クセのないシンプルな味だなあ」

「薄いパンケーキより、ふんわりしたホットケーキの方が美味しいわよね。前に、マシューさんがオーブンで焼いたジャーマンパンケーキを作ってくれたことがあるの。ホイップバターにレモンと粉砂糖が振ってあって、あれは美味しかったわ。アメリカのオリジナルパンケーキハウスっていうお店のメニューなんですって。優子さんに貰ったハワイ土産のパンケーキミックスはほんのり塩味で、日本にない味がしたのよ。ハワイのお店では、一皿に五枚のパンケーキを花びらのように並べて、山盛りのホイップクリームに苺とマカダミアナッツがのっているんですって。メープルとココナツとグアバのシロップが選べるって言ってたわ。でも、日本人にはやっぱり大きくてふんわりしたホットケーキが口に合うんじゃないかしら。しろくまちゃんも、ちびくろさんぼもホットケーキでしょう」

私は子供の頃に読んだ絵本を思い出した。オレンジと赤色の装丁を覚えている。

「おさるのジョージはパンケーキじゃないかあ」

と、父が言った。あの本は黄色の装丁だった。

「あれはドイツ人が書いた絵本でしょう。日本人にパンケーキは馴染まないんじゃないかしら」

「帝国ホテルのパークサイドダイナーのパンケーキは美味しいって、花菜も言ってただろう」

「ホテルは上質な非日常空間だから、家庭的なホットケーキでは格好つかないのよ」

 天国を出て、寄席を聞き、浅草仲見世の喧騒から一歩離れた釜飯屋むつみで食事した。

 父と私は、五目釜飯とカニ釜飯を注文し、炊き上がるまで、座敷で海老真丈や厚焼き玉子を食べて、小一時間待った。待つ甲斐のある味だった。

 

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