好きな男性の晩酌に、純米大吟醸を選んでお燗をつけ、魯山人の器にダンチュウで見たおつまみを作って盛る女性になりたいと思っていた。池波正太郎の世界や欧米映画のワンシーンを思い描いていたけれど、私が対象とする相手は当初から男性だけだった。
女性のために料理を作ったり、一緒にお酒を飲むなんて想像できなかった。母が女性の友人、知人を招いて手料理を振る舞うことの気が知れなかった。母が毎日自宅でお酒を飲む父に、一度として肴を作らないことも信じられなかった。お酒のおつまみを出したり、お酌をするのは水商売の女がすることだという母の了見違いに呆れて、物が言えなかった。
居間でジャスミンティーを飲んでいると、父が「書斎で少し話そう」と、改まった声で言った。
私は肯いて、父の後ろを歩いて書斎に入る。書斎は暖房が効いていた。私が甘酒飴を口に入れると「乾燥しているかな」と言って、父は加湿器のスイッチをオンにした。私は、パイプの中で黒くなった灰を掻き出し、ダンヒルのベージュ色の缶から刻み煙草をパイプに詰めて、太いマッチで火をつける父の一連の作業をじっと眺めていた。
「今日、西のおばあちゃんに会って来た」
父は、天井に漂う灰白色の煙を見上げて言った。
「仕事を休んで、行って来たの?」
「そうだよ。急用だったし、電話で済む話じゃない」
と、父はきっぱりと言った。私は黙って聞いていた。
「三月から西のおばあちゃんの家から通学しなさい。おばあちゃんには、お父さんから話しておいたから。四畳半の洋間を勉強部屋にしてくれるそうだ。花菜が持って行くのは勉強道具と着替え程度で大丈夫だろう。今週末、大きな家具の移動をしようと思ってる」
父は一息に言った。そして、ここからが大事なところだからしっかり聞きなさいという目で私を見つめて言った。
「お母さんのことは話していない。花菜がこれから一緒に暮らすにあたって、おばあちゃんとの関係を考えてのことだ。狭い子供部屋では花菜が勉強に集中できないから、下宿させてほしいとお願いしてきた。おばあちゃんは快く引き受けてくれたよ。花菜に異存がなければすぐに準備をしようと思う」
「学校までバスで通うの?」
「そうなるだろうな。バスの定期券を買ってあげるから、バスで通学しなさい。ここに戻ってきたければ、いつでも帰って来るといい」
父は優しく微笑んで言った。
「ありがとう」
私はそれ以上の言葉が見つからなかった。
「本当に申し訳ないと思ってる。花菜とお母さんの関係が崩れたのは、意見の衝突ではない。あの人の人格の問題だ」と、父は言い切った。
母のことを「あの人」と呼ぶ父は冷静だった。
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