後藤和智の雑記帳 こみっく☆トレジャー21出張版
※「こみっく☆トレジャー21」(インテックス大阪、2013年1月13日)で配布したサークルペーパーです。

Free Talk1――2012年、今年の3冊?

 さて、まずFree Talk1ですが、「2012年の3冊」ということでいきたいと思います。

 え?2012年のベストについては既に冬コミのサークルペーパーでやっただろうって?いやいや。以前から、その年に出た本について、何らかのテーマを決めて、新聞の年末の書評欄に載っていそうな、1,200字程度のコラムを書いてみようと思っていたのですが、ここで実行してみることとします。私の関心事に引き寄せて考えるなら、「2012年の3冊」は次のようなものになるでしょうか。

 2012年のベスト・ワーストはこちら…
 サークルブログ:http://ameblo.jp/kazutomogoto/entry-11443348898.html
 ニコニコチャンネル:http://ch.nicovideo.jp/article/ar26796

コラム:2012年の3冊(選者:後藤和智(同人サークル「後藤和智事務所OffLine」代表))
(1) 適菜収『日本をダメにしたB層の研究』講談社
(2) 田崎晴明『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』朝日出版社
(3) 五十嵐泰正、「安心・安全の柏産柏消」円卓会議『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3・11 の「地産地消」をさがした柏の一年』亜紀書房

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 ここのところ、日本人には西洋型の民主主義は適していない、そんなものなど捨て去ってしまえという議論が一部の論客によって叫ばれるようになっている。1で示した適菜収の議論はまさにその一例と言える。近年の適菜は、ニーチェやゲーテなどに依拠して、所謂「B層」について罵倒とも言えるような言論活動を展開している。

 「B層」という言葉は、元々2005年の衆院選における、自民党が依頼した広告代理店のレポートで使われていたものだ。そこでは、「IQ」と「構造改革に肯定的か否か」という座標軸が設定され、その中で「IQ」が低く、構造改革については肯定的な層とされていた。ところが適菜はこれを「自由や民主主義などの近代的価値観を盲信する層」というふうに改変し、それが我が国を堕落せしめている原因として罵っているのだ。そして、あらゆるものの原因が「B層」向けとされてバッシングされる。しかし、適菜は「B層」を莫迦と罵るものの、よりよい価値観や行動規範などは示そうとしていない。

 適菜に限らず、このような自分を高みに置いて他人を罵倒するような議論は、たびたび一定の支持を得る。しかしそのような議論は、自分を「奴ら」とは違うエリートだというカタルシスを与えるものではあっても、決してよりよい社会の構築につながるものではない。

 私は、未曾有の震災や、あるいは震災前から広がっていたニセ科学の蔓延などの中で、改めて、責任のある「市民」のあり方について考える必要があると思っている。

 私の考える市民とは、自らできるだけ科学的に正しく、コンセンサスのとれた情報を積極的に集め、そして社会や政治のあり方に対して深く考えたり、あるいは参加・発言し、社会に責任を取ろうとする主体である。そしてそれを裏付けるものとして、知識と行動が挙げられる。

 まず知識の面で我々を強化してくれる本として2の田崎本を挙げたい。これは元々インターネット上で無料で公開されていたものだが、こうして書籍としてまとめることにより、見やすくなっている。放射線に対して基礎的な説明を心がけるこの本からは、多くの人に「市民」の知識を与えようとする意欲が感じられる。

 行動の面でモデルとなる本としては3の五十嵐らの本を挙げたい。これは所謂「ホットスポット」と名指しされた千葉県柏市における、文化運動団体と農家、そして行政の試みを挙げたものだが、情報を多角的に捉え、対話を重視し、最終的な「安心」の形を住民が決めるというのは、まさに主体性を持った「市民」のロールモデルとして打ってつけだ。

 大上段からの空疎な物言いや、あるいは単純な実感をベースとした反科学ではなく、情報への意欲と、社会への責任を持った「市民」として成長することが国民には求められている。今はそれが注目されなくても、近い将来その重要性は認知されるはずだ。
 (1164字)
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解題という名のネタバレ
 ワースト次点1とベター次点2冊です。ベストやベターからの選出ではありませんが、最近の私の関心事項をテーマに書くならこんな感じになります。

 2012年、というよりは震災以降のテーマとして私が重要だと考えているのは「市民」と「科学」です。特に原発事故以降、専門家は信用できない、科学は最早限界なんだ、という言説が一部の左派や反原発方面から出てきています。ある意味「極左」的な議論なのですが、このような八つ当たり的な「極左」がもてはやされて消費されるという状況には、異常を感じざるを得ません。特に震災と原発事故以降、このような反科学的な議論が一部の社会学者からも発せられるようになってしまった。

 また、これは震災前から一部でくすぶっていたのですが、日本人には西洋型の民主主義や「熟議」は無理なんだ、だからそんなの辞めてしまおうとか、もっと「日本的」な民主主義のあり方を目指そう、という議論が出てくるようにもなっています。典型的なのは東浩紀の「一般意志2.0」論、そしてそれをベースにした「民主主義2.0」論ですね。

 しかしそれらの議論は、むしろ専門家やエリート層と一般の国民の分断を進行させるものでしかないのではないでしょうか。東などは自分の考えによって民主主義のコストや参入障壁は大幅に下がると主張していますが、東の言説を見る限り、それは「多様性」の単純な礼賛でしかなく、ともすれば多数決が全て正しいという所謂「学級会民主主義」に堕落する危険性が非常に高いです。東の称揚する「無意識民主主義」というのは、一見すると「誰でも政治に参加できる!」ということで魅力的に映るかもしれませんが、慎重に検討してみると、むしろカスケード(集団極化)による少数派や地方などへの弾圧を正当化するものでしかないのです。その点が考慮されているとは言い難い。

 適菜収的な議論については、最早「言わずもがな」です。彼の議論は、「B層」という「下層階級」を捏造して、それよりも自分たちが偉い、優れているという優越感に浸るだけの極めて不毛なものでしかなく、ある意味ではニーチェ的な「ルサンチマン」を自ら体現して見せたものと言うことができるかもしれません。しかしこのような議論は、一部のインテリぶりたい読者層のカタルシスにはなったとしても、果たしてそれが専門知や、さらに言うと社会の成員としての責任を持つ方向に向かわせてくれるかについては、強い疑問を持たざるを得ません。

 これらの言説が「受ける」状況があるのですが、一方で、特に2000年代後半以降、ニセ科学が社会的な脅威として一部で取り沙汰されるようになったり、あるいは東日本大震災以降での単純なデマゴーグが問題視される中で、国民が社会に参加する上で必要な科学的な知識や態度について述べる議論も、少しずつではありますが確実に出てきています。

 特に2011年に出た、戸田山和久の『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書、2011年11月)はその中でも極めて洗練された議論と見ていいでしょう。また一般向けの科学解説書(特に放射線・放射能関係)や、あるいは良質なニセ科学批判の書物も充実してきました。田崎の本はまさにそれですね。それは一昨年や昨年のベストやベターにも現れています。数学や科学の知見や考え方は、高度に専門化した社会において「市民」として責任を持つために不可欠なものであると考えます(私も2008年から統計学の同人誌に「市民のための」ってタイトルをつけてましたからね)。『紅魔館の統計学なティータイム』は私の考えてきた「市民のための統計学」の、現時点での完成形と自信を持って言うことができます(宣伝乙)。

 ただ知識だけではやはり足りないのも事実です。最終的に政策などに対して関わっていくのは市民であって専門家ではありません。そして今まではそのあたりの議論があまりなされていなかったような気がします。そのような状況下において出されたのが、五十嵐泰正らの『みんなで決めた「安心」のかたち』でした。五十嵐の本来の専門は社会学であり、それも計量と言うよりは理論方面なのですが、学者としての活動と並行して、1990年代から千葉県柏市での原宿系の文化活動グループに関わってきたという経歴があるようです。そしてその活動の中で、柏という地を千葉県のカルチャーにおいて無視できない存在に育て上げたと同時に、カルチャーのみならず農業など(柏は近郊農業でも有名です)でも地域に根ざした活動をしてきたといいます。

 それが2011年3月11日の震災から発生した原発事故、そしてその影響で「ホットスポット」として取り沙汰され、農作物への信頼が地に落ちた中で、いかに信頼を再構築していくか。詳しくは同書を読んでほしいのですが、行政や農家と協議したり、データを集めたりして、そして最終的な責任は決して回避しないでみんなで持っていこうとする様に、「市民」としてのあるべきロールモデルがあると思います。

 しかし、科学の知見をわかりやすく示したり、あるいは「市民」のあり方を示したりしている本は、それこそ適菜収みたいな他人をバッシングしてカタルシスを与えたり、あるいは社会的な変数を無視した「生き方指南」本に比べれば、商業的には劣っていると言わざるを得ません。しかし、将来の評価に耐えうる議論はどっちかと言われれば、私は前者の議論であると思っています。そして新聞などでは、こちらのほうが採り上げられていますし、もっと積極的に採り上げるべきだと思います。

CM
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Free Talk2――小谷敏氏の批判に答える
 さて、Free Talk2におきましては、本来であれば『中央公論』2013年2月号掲載の海老原嗣生論考を検証してみようと思ったのですが、ちょっと臨時の案件が出てきたので、それを取り扱うことにします。

 『若者論を読む』(社会思想社、1993年)などの名著もある、社会学者の小谷敏氏(@binbin1965)が、ツイッターで私に言及しており、そしてそれがいくつか多くの人にリツイートされているのですが、私の活動のみならず、科学についてもいろいろと誤解をしている点が多いように見えるので、ここで検討してみます。
後藤和智さんには敬意を払っている。統計学の啓蒙活動も意味のあることだろう。しかし、「科学する心の欠如」が「粟粒若者論」を繁茂させた原因なのだろうか。「科学する心」が虚偽の支配に対する防波堤たりうるとすれば、なぜオウム教団の幹部のなかに多数の理系エリートがいたのか説明できなくなる。https://twitter.com/binbin1956/status/289368977107480576
学生と話していて、「少年犯罪がものすごく増えていて」というから、「実はものすごく減っているんだ」とデータを示して話したら、「それでも増えています。減っていても増えているんです」という反応があった。つまりはこれなのである。自分のなかにある思い込みを支持するような情報を皆が求めているhttps://twitter.com/binbin1956/status/289370076845584384
何故理系エリートが麻原に帰依したのか。麻原は彼らの前で空中浮遊や水中に1時間無呼吸でとどまるという「奇跡」を演じた。いずれもニセモノなのだが、これらは、彼らの科学万能の世界観を崩すインパクトをもった。理論や知識で武装した人は、その武装を破られた時に、実にあっけなく籠絡されてしまうhttps://twitter.com/binbin1956/status/289371329432535040
「科学する心」が欠けていたから戦争に負けたというのはおかしな話だと思っていた。なまじゼロ戦など作れる科学力があるからアメリカに無謀な戦争をしかけたのではないか。戦後、「科学する心」を連磨してアメリカとの経済戦争に80年代には勝利したが、なまじの科学力が今度はフクイチの悲劇を招いたhttps://twitter.com/binbin1956/status/289377377241423872
私が中高生のころには、「この公式を暗記せい!」と叫んで、暗記を怠ると生徒を平気でぶん殴る数学教師は珍しくなかった。こうしたスパルタ指導が日本の子どもの「高学力」をもたらしたのだが、それでは合理的精神という意味での「科学する心」など絶対そだたないだろうと思った。体育会的理科教育¨。https://twitter.com/binbin1956/status/289689572303069184

 まず私の立場として明らかにしておきたいのですが、科学というものはイデオロギーと言うよりは、現時点で最もコンセンサスが取られている思考及び検証のツールであると言うことです。そして一般的な科学は、歴史的、理論的な積み重ねのほか、新奇な議論に対しては既存の理論に適合しているかということが真っ先に検討されるという保守性と、そしてそれで正しいと見なされれば積極的に受け入れられるという開放性によって、その正当性を強めていっているものだと考えています。

 そのため現代の科学というものは高度に専門化されて一般の市民に対してはなかなか触れることができないものであるという見方もあるかもしれません。しかし、少なくとも基礎的な部分にかんしてはそれほど難しいものではないかと思います。難しさを感じるところがあるとすれば、それはむしろ教え方の問題ではないでしょうか。ツールの提供に関しては、物理教育については、昨年出た『科学をどう教えるか――アメリカにおける新しい物理教育の実践』(丸善出版、2012年6月)という本を参照してほしいのですが、知見をいかに伝えるかについては、ツールの構築が重要なポイントとなっています。

 さて、小谷氏の議論を見ていきましょう。まず、小谷氏は《「科学する心」が虚偽の支配に対する防波堤たりうるとすれば、なぜオウム教団の幹部のなかに多数の理系エリートがいたのか説明できなくなる》と言っていますが、ここでオウムが出されるのは若干唐突な気がします。確かにオウムの幹部には理系の修士が何人かいました。しかしそのような、理系修士全体からすれば(たとい衝撃的であったとしても)少ない事例をもってして科学への懐疑を述べるというのは、短絡的ではないかと思います。

 小谷氏は《麻原は彼らの前で空中浮遊や水中に1時間無呼吸でとどまるという「奇跡」を演じた。いずれもニセモノなのだが、これらは、彼らの科学万能の世界観を崩すインパクトをもった》ことをもってして《理論や知識で武装した人は、その武装を破られた時に、実にあっけなく籠絡されてしまう》と述べていますが、そもそもここで述べられている「科学万能の世界観」なるものの定義が不明です。真に科学的であろうとすれば、むしろ科学というものが万能ではないということに気付かざるを得ません。科学というのはあくまでも世界を見通したり分析したり、あるいは意志決定のサポートに使うツールであったとしても、意志決定そのものではないからです(これはFree Talk1で示した五十嵐泰正らの本にも現れています)。理系の修士のような学生は「科学万能の世界観」を持っているという見方は、それこそ、言葉は悪いですが「人文系」的な偏見でしかないのではないかと思います。

 しかし第3ツイート以降からはさらに議論が混乱しているようにも見えます。例えば《「科学する心」が欠けていたから戦争に負けたというのはおかしな話だと思っていた》とありますが、少なくとも後藤和智はそんな話はまったくしていない、と強調しておきます。さらに小谷氏の言うような、零戦などに代表されるような科学への過信が敗戦を招いたという話も、少なくとも私はそのような歴史認識に依拠した議論は寡聞にして知りません。さらに《なまじの科学力が今度はフクイチの悲劇を招いた》とありますが、福島の惨劇でさえ、適切にリスク管理や対策を行っていれば防げたという指摘もあります。現に同様に大津波を被った、宮城県の女川原発は助かっているのですから。もちろんこのような物言いは、原発にはなんの問題もない、という主張ではまったくありません。しかし福島の原発の問題は、明らかにリスクの見積もりや建て替えないし廃炉に関する政策の失敗であって、決して科学の根本に関わる議論ではありません。小谷氏の議論は、かなり教条的に過ぎるきらいがあります。

 第4ツイートについてはさらに論点が不明瞭です。小谷氏は《私が中高生のころには、「この公式を暗記せい!」と叫んで、暗記を怠ると生徒を平気でぶん殴る数学教師は珍しくなかった》と言いますけど、まずは「珍しくなかった」ということを裏付ける何らかの根拠を示すべきだと思います。また《こうしたスパルタ指導が日本の子どもの「高学力」をもたらした》と小谷氏は書きますが、この物言いを見ると、現代の若年層の学力は低く、過去の子供の学力は高かったという通俗的な議論の焼き直しでしかないような気がします。

 さらに言うと、指導法は日々進化していくものです。数万歩譲って、小谷氏の時代においては《私が中高生のころには、「この公式を暗記せい!」と叫んで、暗記を怠ると生徒を平気でぶん殴る数学教師は珍しくなかった》としても、現代においてはもっと少ない労力でより効果を生み出す教育法が開発されていてもおかしくないでしょう。

 それとも、小谷氏は、私の書いた『紅魔館の統計学なティータイム』がそのような「教師」のような本だと考えているのでしょうか?だったら、私の同人誌にはそんなシーンはない、と断言しておきます。同書には激しい弾幕や暴力の描写はありません(原作は弾幕シューティングなのに)。せいぜい第7章で古明地さとりが同書の主人公であるレミリア・スカーレットを言葉責めしているくらいです。

 小谷氏の一連のツイートを見るに、小谷氏には科学というものそのものに対する懐疑があるように見えます。それは、小谷氏より20歳近く若い社会学者である北田暁大との次のような応答にも現れています。
北田:分かる気もするんですが、それが科学を身に付けた効果なのか、カルト的な行為空間に居た効果なのかは微妙かと。理系文系、エリートであるないに無差別に、後者で説明できてしまえる気もします@binbin1956 「理論や知識で武装した人は、その武装を破られた時にあっけなく籠絡されてしまう」https://twitter.com/a_kitada/status/289373275736379392
小谷:@a_kitadaおしゃるとおりです。しかし、「科学する心」が非合理で忌まわしい信念に対する防波堤には必ずしもなりえないということの例証にはなるだろうと思います
https://twitter.com/binbin1956/status/289374604307341312


 北田の疑問は至極真っ当なものですが、それに対する小谷氏の返答に、小谷氏の科学というものに対する認識が現れているように見えます。小谷氏は「科学する心」について明確な定義を行わないまま疑念をぶつけているのですが、少なくとも人間は完全に合理的であろうとすることは不可能だと思います。

 なぜか。小谷氏の第2ツイートの学生の話について見ていきます。実を言うと、こういうメカニズムも、科学(心理学)で解明されています。菊池聡は、ニセ科学や陰謀論が支持される素地について、それが不安になけなしの根拠を与えてくれるからだということを指摘しており(ASIOSほか『検証 陰謀論はどこまで真実か』文芸社、2012年10月)、決して信奉者が愚かだから支持されるのではないことを示しています。人間の中の非合理の心性を排除するのは大変難しいものです。しかし、それは科学に対して正しい理解を持っていれば、誰でも気付かざるを得ないものではないでしょうか。

 小谷氏のこのような私への論難は、小谷氏において、「理系は世の中が全て科学で解明できると考えており、非合理をまったく許さない心性を持っている」という偏見が根強いことを示していると思います。そしてそのような議論は、一部の反原発派などによる専門家バッシングにも見ることができます。

 多くの科学バッシング、あるいはニセ科学批判批判、そしてニセ科学は、科学というものを正しく理解せず、教条的なものと最初から決めつけた上で叩いているような、虚無に叫ぶような議論であることが多く、小谷氏の議論もその範疇を出ていないものだと言うことができます。そしてそれは、実のところ通俗的な若者論と共通している態度でもあるのです。

 また福島第一原発の事故やオウム事件を持ってして科学の限界を語るのも極めて問題が大きいと言わざるを得ません。オウムについては科学教育の敗北と論ずることも可能ですけど、原発に対しては完全に的外れなものと言わざるを得ません。震災以降、「ニセ科学批判者は原発をニセ科学と主張しない」という非難が片瀬久美子などに寄せられましたが、当たり前です。原発はニセ科学ではありません。原発をめぐる問題は運用とリスク管理の問題であって、決して科学の根本の問題ではないし、原子力をめぐる科学はこの原発事故を奇貨として成長するポテンシャルを持っており、それは科学のあり方として正しいものです。

 大上段から「科学」を非難する人たちは、得てしてその中の「科学」のイメージが、一般的な科学者や、あるいは科学をそれなりに理解した市民の認識とはかけ離れています。そしてそのような態度こそが、市民を科学から遠ざけているのではないでしょうか?これは、我が国の、特に社会学・哲学・文学系の論者における、根本的な問題として今後とも考えていきたいと思います。

奥付
後藤和智の雑記帳 こみっく☆トレジャー21出張版
著者:後藤 和智(Goto, Kazutomo)
発行者:後藤和智事務所OffLine
発行日:2013(平成25)年1月15日
連絡先:kgoto1984@nifty.com
チャンネルURL:http://ch.nicovideo.jp/channel/kazugoto
著者ウェブサイト:http://www45.atwiki.jp/kazugoto/

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