第17回 ミッキー、いよいよウンコ的毎日をアスファルトに投げつけるの巻〜『カジノフォーリー』旗揚げ前夜その2〜
名古屋での中部読売新聞の新聞配達店を経営する話は、結局、実現せず、27歳後半のオレは大きな挫折感と疲労感をかかえて東京に戻った。
「このままじゃダメだ」という焦りと不安は、名古屋に行く前の数倍に膨れあがっていた。
東京に戻ったオレは、池袋駅から徒歩5分のボロアパートの四畳半の部屋を借りて再出発した。
意欲だけは凄くあり、毎日文庫本1冊読破、1週間に映画4本以上鑑賞、毎日原稿用紙10枚以上を書くという「知識人トレーニング」だけは続けていた。
《※編集部注:「文庫本かよっ!」「1冊かよっ!」(三村調)》
が、バイト人生という生活の基本は前と何も変わっていなかった。挑戦したのは前に書いた「文学座の応募」「アングラ劇団での端役」ぐらいで、フリーター人生という名のボンクラ人生は何も変わっちゃいなかった。
そんなオレを冷静に観察していた彼女は、「この男とは結婚できない」と決意し、他の男に乗り換えてオレをパスしていった(この彼女とのバトルや確執や首を絞められたり、彼女を脅したりした修羅場は、別の回に詳細に書くつもり)。
《※編集部注:「別の回に詳細に書く」は原文ママ。知識人トレーニングの賜物》
これはショックだった。
自慢じゃないが、それまで交際した女を振ったことはあっても、オレが振られることは皆無だったからだ。
オレはあの時の悔しさを今も忘れられない。
そして、心に誓ったのだ。
「つきあったのが3年半だったから、3年半後にはオレは何かを成し遂げ、アイツに落とし前をつけてやるぞ!」と。
この失恋は、大きなターニングポイントだった。
オレは暗中模索のなか、自分が好きな業界の現場にまずは入り込むことだと決意した。
映画業界の次に好きだった出版会に何が何でも入ることを考えはじめた。
《※編集部注:好きなわりには「出版界」ではなく「会」になっているが、愉快なので原文ママ》
友人のコネや新聞広告に載った出版社の募集(これが実に少なく、条件も大学卒業者で高卒のオレは応募することさえできなかった)を探したが、糸口すらなかった。
そんなある日、ある雑誌に「日本ジャーナリスト学院(当時、専門学校ではなかった。今回、ネットで確認したらなんと2010年3月に廃校になっていた)」の広告を見つけた。
ワラどころかクソでも掴みたかったオレは、バイトを頑張りカネを作って、秋9月にルポライター科に入学した。
いろんな講師がいて、それなりには面白かったが、つまらん授業も多かった。
特に、当時トップ記者だった内藤なにがし(ネット検索したが発見できず)なんて、記者の仕事より自分の自慢話ばっか。
もっと、ひどかったのが当時、校長だった青地しん(パソコンの文字になし)。
《※編集部注:「青地晨」のことだと思われ。ふつうに「しん」「あき」「とよ」でも出てきますが…っていうか、ネットでジャナ専を検索したんなら、そこに出てくるんだから、コピペなりなんなりすればいいじゃん!》
講義中に居眠りはするわ、授業内容をチェックすることがない。
ある授業のとき、モーパッサンの名作短編「脂肪の塊」をテーマにしたのだが、再読してねーから間違いだらけ。
たまたま、オレは1ヶ月前ぐらいに読んでいたので、「先生! あらすじが違いますよ!」と訂正する始末だった。
“こんなアホ学校を卒業しても、ロクな出版社にも入れねーなぁ”とあきらめていた。
しかし、運命はわからない。
そんなときに、同じクラスだった業界新聞の記者をしていた年上の人が「竹本、オレにきた転職の話だけど、俺は行く気がないから、お前、行かないか?」と、できたばかりのタウン新聞の記者の仕事を紹介してくれたのだった。
オレはその話にすぐに飛びついた。
彼がオレを紹介してくれたのには、背景としてこんなことがあった。
当時、ルポライター科のそのクラスで「もぐらの突撃」という名のクラス新聞を有志で作っていた。
やる気半分でつきあいで参加していたオレは、1〜2号を見て、激怒した。
「なんじゃこりゃー(松田優作っぽく)! こんな小学生新聞みたいな低級なものは。オレが編集長になって、もっとちゃんとしたもんを作ったるわ!」
大見得を切った手前、オレも必死だった。
バイトを控え、徹夜もし、「もぐらの突撃・3号」を完成させた。
ページ数が1〜2号の10倍、イチオシ特集が「年代でわかる昭和年表」(これが受けた)。
巻頭原稿がオレの「広告イメージに翻弄される現代人(タイトルは違うが、そんな内容)」。
このクラス新聞でまわりの目が変わった。 就職を紹介してくれた人は、そのクラス新聞でオレを評価していてくれたのである。
だが、好事魔多し。
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