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小説『神神化身』第二部 三十八話 其の二  「舞奏競 星鳥(果てし夢への千年記)」

2022/02/04 19:30 投稿

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小説『神神化身』第二部 
第三十八話 其の二

「舞奏競 星鳥(果てし夢への千年記)」


 九条鵺雲(くじょうやくも)は回想しない。

 栄柴巡(さかしばめぐり)が再起不能になったのは、櫛魂衆(くししゅう)と御斯葉衆(みしばしゅう)の舞奏競(まいかなずくらべ)の直前だった。あまりに突然の出来事に、社人(やしろびと)も観囃子(みはやし)も──そして九条鵺雲も驚きを隠せなかった。
 御斯葉衆は栄柴巡一人だけが所属する舞奏衆(まいかなずしゅう)である。従って、栄柴巡が舞えないのであれば、舞奏競の勝者は必然的に櫛魂衆となるのだった。これは鵺雲にとっては不本意な結果ではあった。舞奏競においての不戦勝には何の価値もない。カミに実力を見せることも、観囃子の歓心を得ることも出来ないからだ。
 栄柴巡の舞奏(まいかなず)は素晴らしいものだった。誰一人寄せ付けず、たった一人で舞う孤高の舞奏は、観ている者を竦ませるような凄絶な迫力があった。理解を拒み、こちらをただ圧倒してくる舞奏だ。
 あれだけのものをたった一人で奉じていたからこそ、栄柴巡の肉体が限界を迎えたのだろう。
 九条鵺雲は戦うことの叶わなかった栄柴巡を見舞いに、遠江國(とおとうみのくに)へと参じた。断られることも想定していたのだが、意外にも巡は鵺雲の面会を受け容れた。
 大きな屋敷の縁側で、車椅子に乗った栄柴巡が皮肉げに笑った。
「……お前からしたら、俺はさぞかし惨めなんだろうな」
「まさか。僕は栄柴巡の舞奏にも、栄柴家の血にも敬意を払っている。御斯葉衆と競えなかったことを、心から残念に思っているよ」
 鵺雲が言うと、栄柴巡は引き攣(つ)り気味の笑みを浮かべた。微笑もうとしたのかもしれないが、鵺雲には判別が付かない。
 舞台を降りた栄柴巡は、想像よりもずっと消耗していた。栄柴の烈(はげ)しい舞奏に身も心も捧げ尽くした覡(げき)は、ここまで摩耗するのだろうか。その手の内に宿った化身(けしん)だけが、やけに扇情的に見えた。
「……流石は九条家。舞奏に取り憑かれた名家様の言いそうなことだ。栄柴は今や、没落するしかない落日の徒だ。いずれ忘れ去られるだろう」
「僕はそうとは思わないけれど。もし君が駄目だったとしても、血を繋いでいけば次代に素晴らしい覡が生まれるかもしれない」
「誂(あつら)えられたような言葉にいよいよ反吐が出そうだよ。今の俺に会いたがる物好きが、どんなことを言うのかと思っていたが」
 修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)の時でさえ、栄柴巡とは一言も言葉を交わさなかった。櫛魂衆が修祓の儀を終える頃には、彼はもう社(やしろ)を離れていたからだ。
 ささやかな交わりすら徹底して拒む彼は、遠江國の誇り高き孤高の王だった。
「ご期待に沿えなかったのなら申し訳なかったな。僕なんかと雑談して楽しい人間の方が珍しいとは思うけど……それでも、九条家の嫡男と言葉を交わしていること自体に価値を見出してくれると嬉しいな」
「卑屈なんだか不遜なんだかどちらかにしろよ」
 そう言いながら、巡は初めて笑顔を見せた。
「……同じくらいの歳の人間とこうして会話するのも久しぶりだ。それだけでも多少気が晴れる」
「あれ? 外と交流しないとはいえ、秘上(ひめがみ)の家とは親交が深いと思っていたのだけれど……違うのかな? あの家には、君と同じくらいの歳の社人がいるはずだけれど」
 鵺雲が言うと、巡は先ほどの笑顔の名残すら見せず、またも冷笑を浮かべた。
「親交が深い……親交が深い、か。お前は足元に伸びる影と仲がいいと嘯く類の人間か?」
「そう問われれば、違うと言わざるを得ないけれど」
「俺と当代は栄柴に生まれた者と、秘上に生まれた者同士でしかない。それ以上は何もありはしないさ」
 巡が遠い過去を懐かしむように目を細める。そして、ゆっくりと語り始めた。
「……小さい頃に、俺があいつを拒絶したんだ。俺はお前がいなくても平気だ、ってさ。そうしたら──それ以来あいつは、ただ秘上家の人間として、栄柴家の従者として振る舞うようになった。まともに会話をした記憶すらない」
 秘上の家はあくまで栄柴の家を支え、社人としての職分を全うする為にある。なら、その秘上当代の対応は正解であるはずだ。だが、巡は失われてしまったものを慈しむように静かに言った。
「──想像することもある。もしあそこで、秘上の当代が俺から離れなければ──栄柴家の嫡男ではなく、栄柴巡の傍にいてくれたとしたら──……俺と当代は、ただの主と従者ではなく、何か別のものにもなれていたんじゃないかって」
「それでも、身の全てを捧げて打ち込んだ君の舞奏は素晴らしかった」
 これは同じように舞奏に心血を注いできた鵺雲の、心からの言葉だった。巡はまた、どこか皮肉げな笑みを浮かべた。
「……俺は、舞奏に身を窶(やつ)すことで、あいつに復讐をしているのかもしれない。お前が選ばなかった人間がどうなったかを見せつけてやろうと、そう考えている節もあるのかもしれない。お前が観たかった舞奏はこれだろう、と。あいつは社人としては完璧に俺を支え続けてきたからな。それに報いたい気持ちもあるのかもしれない」
 言いながら、巡は化身の宿った左手を強く握り込んだ。
「話しすぎたな。もう会うこともないだろう。お前は大祝宴(だいしゅくえん)に歩みを進めればいい」
「そうだね。僕は……九条家の人間として、それに相応しい舞奏を奉じることにするよ」
「俺の舞奏を褒めるお前の言葉には嘘が無かった。その一点において、俺もお前に敬意を払うよ」
 そう言って、巡はゆっくりと鵺雲に背を向けた。話はこれで終わりということだろう。鵺雲の方にも異存は無い。鵺雲は一礼をすると、彼から離れる。
 栄柴家を出たところで、鵺雲は門の傍に一人の青年が立っていることに気がついた。
 彼はとても精悍(せいかん)な面構えをしており、鍛え上げられた刀のような印象を覚えた。覡ではないようだが、そうであってもおかしくはないような、妙な存在感がある。彼の姿は、修祓の儀の際にも少しだけ見かけたことがあった。
 その時から気になってはいた。彼の目は底すら見えぬ常闇の泉だ。表情には常に張り詰めたものがあり、息をつくことすら自らに許していないようだった。有り体に言って、彼はあまり幸福な人間ではないように見えた。というより、幸福から意図的に距離を取っているような節すらあった。
 彼は自らに枷を嵌めた咎人のようであった。
「君は、秘上家の社人だね」
「はい。私は秘上家の──秘上佐久夜(さくや)と申します」
 佐久夜はそう言って、丁寧に一礼をした。
「僕は相模國(さがみのくに)櫛魂衆の九条鵺雲だよ。ここには、御斯葉衆の覡主(げきしゅ)に挨拶をしに来たんだ」
「存じております」
 その口振りからして、佐久夜は全て知っているようだった。その上で、鵺雲が栄柴の家にいる間、ずっとここで控えていたのだろう。主人に何かあった際、すぐに自分が動けるように。
「……修祓の儀では、ご挨拶をする機会に恵まれませんでしたが、貴方様のお姿は拝見していました。こうして言葉を交わすことが出来たことを、ありがたく思っております」
「僕はそんなかしこまられるような存在じゃないよ。……今回のことは、とても口惜しい」
「──……あの方の舞奏が失われることは、耐え難いことです。私にとっては、天が墜ちるに等しい」
 そう言って、佐久夜は目を伏せた。そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「……巡様は天才です。長い栄柴家の歴史の中でも、比類無き舞奏を奉じられておりました。あの方の舞奏を観る度に、私はこの為にこの世に生を受けたのだと思いました」
 佐久夜の言葉には確かな喜びと、同じだけの苦しみが滲んでいた。
「あの方は孤高の主です。そして、その玉座を誂えたのは、私です」
 鵺雲は巡が話していたことを思い出した。言葉は違えど、彼らは同じ日のことを追想し続けている。栄柴巡と秘上佐久夜は、同じ日を分岐点に据えている。
「私はこの世の何よりも巡様の舞奏を貴んできました。あの方が、その才を磨いてくださったことに、感謝と尊敬の念を抱いていました。ですが、私は──」
 それきり、佐久夜は口を噤(つぐ)んだ。それ以上何と言っていいのか迷ったのか、分かりきったその先を口にすることこそ罪深いと思ったのか、どちらにせよ同じだろう。分かっていてなお、彼と共に沈みゆくことを選んだのなら、それもまた潔い忠義だろう。人間性すら廃すその様には、鬼気迫るものがある。
 鵺雲はかつての栄柴家が夜叉憑(やしゃつ)きと称されていたことを思い出した。
「これからも君は秘上家の人間として、彼に付き従っていくのかな」
「はい。秘上家に生まれた人間として、……いえ、血も家柄も関係ありません。私は生涯を懸けて巡様にお仕えするでしょう。私の命の全ては、巡様の為にあります」
 その声にはまるで迷いが無かった。暗く沈んでいた瞳の底に、揺らぐことの無い意思の光を見た。
「覚えておくよ。君の主人のことも、君のことも」
 鵺雲がそう言うと、佐久夜は一瞬だけ泣きそうな表情を見せた。いや、表情と呼ぶのは正しくないのかもしれない。佐久夜は相変わらず従者然とした無表情を浮かべており、鵺雲の前ではそれを欠片も崩さなかった。
 それでもそこに涙の影を嗅ぎ取ったのは、鵺雲が彼に誠実に向き合っていたからだろう。あの時の佐久夜は、きっと彼の主人と自分の罪深さの為に泣きたかったのだ。
 九条鵺雲が佐久夜に何気なく言った言葉は、叶えられなかった。九条鵺雲が遠江國の彼らの行方を知ることは終(つい)ぞ無かった。


 *


 舞奏競の当日、会場の社には多くの観囃子が集まっていた。佐久夜は社人として何度となく自國の舞奏披を手伝ったり、他國の舞奏披を観に行ったりしていたが、それとは比にならない人の入りである。この盛況ぶりを見るなり、巡ははしゃいだ声を上げた。
「うっわー! 見てよ佐久ちゃん! 観囃子席に女の子いっぱいいるんだけど! あれって御斯葉衆の観囃子だよね? うはー、流石俺じゃん! 愛されすぎててどうしよう! この中に俺の運命の相手とかいちゃったりするのかなー?」
「必ずしもお前だけに歓心を向けているわけではないと思うが」
「えー、でも俺の舞奏はみんな観たいでしょ!」
「それは……そう思うが」
 佐久夜は納得したように言う。ここに来ている観囃子達は、栄柴巡および九条鵺雲の奉じる至高の舞奏を目に焼き付けにきたのだ。ここで行われることを見逃せば、今後千年に悔いを残すこととなるだろう。御斯葉衆の舞奏の様子を伝え聞けば聞くほど、我が身の不運を嘆くに違いない。
 そんなことを考えていると、巡が不意に笑った。
「こう言うのもなんだけど、あそこにいる観囃子の中には佐久ちゃんを観に来た人もいると思うよ」
「……そうか?」
「そうだよ。俺ほどじゃないけど、佐久ちゃんもそこそこ格好良いし、見栄えするし、声もいいし、全然歓心集まってると思うけどなー!」
 巡が悪戯っぽく笑うので、何と返していいものか迷った。そのまま、付け足すように「俺は佐久ちゃんの舞奏好きだしね」とも続けられる。
 自分の舞奏が鵺雲や巡には遠く及ばない自覚がある。だが、舞奏披(まいかなずひらき)で自分が見せた自我の強さは──あるいは欲深さは、誰かを引きつける魅力になっていたのだろうか。そうであれば、佐久夜のそうした性質にも赦しが与えられるような気がした。
 覡主である鵺雲は、なかなか舞台袖に現れなかった。勿論、あちこち動き回って疲弊するよりは、控えの間に居た方がいいのかもしれないが。そろそろ先番である水鵠衆(みずまとしゅう)の舞奏が始まってしまう。
「そうだ、佐久ちゃん。鵺雲さんがいない隙にちょろっと雑談いい?」
「さっきまでのは雑談じゃなかったのか」
「さっきまでは運命の予感に胸を高鳴らせる巡くんの真剣な話でしょ! ……ねえ佐久ちゃん。お前に言ってなかったことがあるんだけどさ」
 雑談という単語に似つかわしくない、密やかで熱を持った声だった。
「何だ」
「俺ね、本当は結婚する予定だったわけ」
 思わず、佐久夜の身が強張った。佐久夜の反応を知りながらも、巡は敢えて淡々と続ける。
「まー、結婚っていうのは大袈裟だったかもしれないけどさ。家が推薦するどっかの名家のお嬢さんと会う予定だったの」
「そう……だったのか」
「相手方のお家に恥掻かせらんないからさ、会うだけは会う予定だったの。俺も女の子と会うのは吝かじゃないし? ていうか女の子はみーんな可愛いし、その子が俺の運命かもしれないし!」
「……俺はまるで知らなかった」
「そりゃそうでしょ。秘上家に通すような話じゃないもん。こっちが決めて、結論が出てからそっちに伝える。流れとしてはそれが正しい」
 巡の言う通りだった。あくまで決定権は栄柴の家にあり、秘上の家はそれを受けて従うだけだ。本来ならば、ここで佐久夜が動揺することすら、秘上の家の人間としては不適格である。
「そうは言っても、結婚とかは断るつもりだったけどね? 俺はまだまだ出会いを諦めたくないもん。いや、どうかなー。覡になってない俺なら、言われるがままになってたのかな……」
 巡は今まさに可能性の狭間を覗いているかのような声で呟いた。
「御斯葉衆の覡じゃない俺が栄柴家に出来ることと言ったら、次に託すことくらいだからね」
 それもまた、巡の言う通りではあった。鵺雲が来ず、巡が御斯葉衆の覡とならなければ、巡はほぼ確実にその期待に応えていただろう。そして、佐久夜は期待を掛けるべき方であったはずだ。そのことを考えると、胸の奥が苦しくなる。
「……そうならなかったことに、俺は感謝している」
「えー、それってどうなの? でもまあ、佐久ちゃんは俺の舞奏をまるで諦めなかった人間だもんね。そうなるか」
 巡が笑った瞬間、観囃子席の方から歓声が上がった。どうやら、水鵠衆が舞台に登場したらしい。舞台袖にいたはずなのにすれ違わなかったな、と思ったが、それもそのはず、彼らは奈落から登場したらしい。型破りで派手好みな彼ららしい趣向だった。そのまま舞奏が始まったが、佐久夜は巡から目が逸らせなかった。
「そうして家に縛り付けられるのが遅くなったのは、御斯葉衆に入って良かったことの一つかな」
「………………」
「でもさ、こういうことは続くじゃん」
 巡、と肩を掴みそうになった。こうしている今も、巡はあの公園にいた時のような苦しみから解放されていないということなのだろうか。すると、巡が呆れたような慈しむような笑みを浮かべた。
「今はもう苦しいだけじゃないよ。九条鵺雲と競うのも、舞奏をやっている俺に、佐久夜が食らいつかんばかりの目を向けているのも好ましい」
「……その言葉以上に、救われる言葉も無いが」
「ほんと素直な奴だな、お前」
 今度はいよいよ呆れの方が強い調子で溜息を吐かれる。ややあって、巡が言った。
「こんなことになるなんて思わなかった。そんなこと言うのも妙な気分だけどさ。俺は今の状況が奇跡だと──二度は無い奇跡だと、そう感じられてならない。お前と舞台に立っている今は、露と消える夢みたいに思えるよ」
 それは、佐久夜も同じことを考えていた。九条鵺雲が現れたことも、自分が御斯葉衆の一員となったことも、そして何より──栄柴巡が覡として舞台に戻ったことも、全てが得難い奇跡であり、自分が見果てぬ夢のように思える。
 自分は変わらず欲深く罪深いが、今の全ては佐久夜にとっての救いでもあった。もし何かが違っていたら、成立しなかった夢だ。許されるなら、目の前にいる巡が幻ではないことを確かめてみたいと思うほどに。
「でも、夢は終わる。舞奏競で勝とうが負けようが、大祝宴に辿り着こうが辿り着くまいが、俺は遠江國の栄柴巡だ。逃げ続けた俺が、結局皆さんの期待に応えることになるなんてな」
 巡の口調は皮肉さと、どことない諦めの念が滲んでいた。
「御斯葉衆の俺を求める観囃子を見ると、なおのことそう思うよ」
 水鵠衆に向けられた歓声が耳の端に届く。その中でも、巡の声は掻き消されず、佐久夜に打ち付けられるかのようだった。
「俺のやることは変わらない。お前の中に、俺の舞奏を刻んでやる。水鵠衆にも、九条鵺雲にも、その他どんな舞奏衆にも負けない舞奏を、お前にきっと魅せてやる。一夜の夢が骨の髄まで刻まれるよう、来世まで忘れ得ぬものを奉じてやる。だから──」
 巡がそこまで言った瞬間、佐久夜はいよいよ巡の両肩を掴んだ。
「えっ、何何、こないだからこういうの多くない!?」
「終わらせてもいいんじゃないのか」
 え、と巡がまたも戸惑いの声を上げる。佐久夜の方も、言葉が口を衝いた時点では、自らが何を言っているのかを分かっていなかったほどだ。呼吸を整え、思考を──栄柴巡にずっと言いたかった言葉を口にする。
「お前は責任感が強く、誇り高い。だからこそ、遠江國の為に栄柴家を捨てることも出来なかったんだろう。だが、お前が家に縛られたくなかったことも知っている」
「……佐久ちゃんってば今更何言ってんの? そんなの分かってたことじゃん。そんな俺を舞台に引き戻したのも、秘上家当代のお前のくせに」
「ああ、そうだな。俺はお前の舞奏を諦めきれず、自らが見出した至高に憑かれた欲深い男だ。俺はお前の舞奏を失い難かった」
「は、だから何だよ。そのお望み通りになってるだろ」
「ああ、そうだ。俺は俺の求める至高を取り戻した。俺は、栄柴巡の舞奏が好きだ。たとえこれから栄柴の家の血が継がれていったとしても、お前が俺の至高だろう」
 巡の目が大きく見開かれる。言葉を続けながら、佐久夜はこれこそが自分の選び取る道だったのだと思った。今の状況は、秘上佐久夜にとっての奇跡であり、夢だった。
 そこから醒める必要など、何処にも無い。喉笛に食らいつき、自分のものにしてしまえばいい。人にも自分達にも──とこしえに醒めぬ夢を見せ続けていればいい。
「栄柴家を継ぐことも、遠江國に身を窶(やつ)すこともしなくていい。その為にお前が──いや、御斯葉衆が、至高になるんだ。今後千年敵うものの無い、至高の舞奏を奉じればいい。本物の頂に次は要らない」
 そうだ。次に繋げる必要が何処にある? ここにあるものが至高にして寡二少双(かじしょうそう)だ。なら、栄柴も──ともすれば舞奏すらも、ここが頂にして終着点で構わない。今後の千年は、当代の御斯葉衆の素晴らしさを語り伝えるだけでいい。舞わぬ語り部に血など要るものか。
「ちょっ、佐久ちゃんってば、言ってることは確かにそうかもだけど、なんでそう突飛なことを……」
「大祝宴に到達した後は……それから考えるべきだとは思うが。栄柴の家から完全に自由になる為に、遠江国から離れるというのは、特段悪い選択肢だとは思えない。お前が遠江國にいる以上、あれこれ言われるのは避けられないだろう」
「いやいやいや俺がいなくなったら、正直栄柴家って終わりよ? 当代であえなくおしまい、さよなら没落名家その影すら無く! って感じだよ? いいの? いいわけねーって! 佐久ちゃんのばーか! ふざけんな」
「何なんだお前は……」
「佐久ちゃんが言ってるのはそういうことなんだっつーの! お前は俺達が継いできたものを何だと思ってんだよ! 」
「それを軽んじているわけじゃない。だが、お前がそれを憂いているなら、こう言うが最善だろう」
「……いやいやいや、いいのかよそんなの。お前、秘上の家の人間なんだよ? えっぐい怒られ方するって。前以上に何で止めなかったのって責められると思うよ? 秘上の家のお前の立場も最悪になるだろうし」
「俺は秘上の家に生まれた人間だ。栄柴の家が滅びる時は、秘上の家も滅びる時と覚悟している。それが惜しくないと言えば、嘘になるが」
 そこでようやく、佐久夜は巡の両肩から手を離した。
「それでも俺は、栄柴家の長い歴史の後にも先にもお前より素晴らしい舞奏を奉じる人間は現れないと思っている」
「……そんなこと言ったら、俺マジでどっか行っちゃうんだけど。それでもいいわけ」
 巡の声が、彼の手を取った時と同じ響きを纏っていた。
「……所在が分からなくなるのは困るが」
「でも俺が栄柴家を捨てるなら、佐久ちゃんなんて俺とはもう関係無いでしょ」
「俺は最早、栄柴家ではなく栄柴巡の従者だ。それに、今の俺はお前の親友でもあるんだからな。お前がどうだろうと、こちらも勝手にさせてもらうぞ」
「はー? ほんと、……あー、佐久ちゃんってば、本当にさあ……」
 巡が苦々しく言う。
「……今後千年を、ただ語る為のものに堕す。お前らしい傲慢で欲深い話だよ」
「元よりだ。こうなったなら、そこまで求めるのも悪くない。それに、千年記を綴る生も、なかなかのものだろう」
「なら、千年に耐えうる不朽の頂を見せてやらないとな」
 巡はそう言って、自身の化身に目を向けた。
「……どうなろうと、お前はきっと、俺を逃がさない」
 ぽつりと囁かれた言葉は、きっと佐久夜に聞かせる為のものではなかったはずだ。だから、佐久夜はそれについては何も言葉を発さなかった。
「そろそろ出番みたいだね」
 その時、鵺雲がゆっくりと歩み寄ってきた。遠江國の舞奏装束は、余所の人間であるはずの彼によく似合っている。彼こそが遠江國の雷を纏うに相応しいのだ、と知らしめるように。
「鵺雲さんはどちらにいらっしゃったのですか?」
「観囃子席だよ。彼らの舞奏を観るのには、それが一番いいと思ったから」
 鵺雲はそう言ってにっこりと笑った。
「今日この日を迎えられたことを誇りに思うよ。僕は御斯葉衆のことを、とても誇らしく思っている。さあ、行こうか」
 鵺雲は全てを見通したかのような顔で、朗々と言う。その様に、佐久夜は一瞬の既視感を覚えた。どこかで自分は、同じように九条鵺雲に救いを求めたのかもしれない。ややあって、佐久夜は自然と口にしていた。
「貴方もこの全てを、夢だとお思いになられますか」
「そうだね。これは確かに夢のようなことだと思うよ。だが、これは見果てぬ夢じゃない。僕らが辿り着いた果てし夢だ」
 鵺雲は昔を懐かしむかのように目を細めた。
「僕らに焦がれる者であるなら、千年を舞う胡蝶たれ」


 御斯葉衆の舞奏は、重ねてきた歴史の重みそのものである。およそ舞奏を求める者にとっての最上を、与え得る舞奏である。
 そう、真に正解であるのならば、この場所が到達点であって構わないのだ。今後千年、舞奏とは今宵の追想を示す言葉になるように。
 觸鈴(ふれすず)を手に持ち、鵺雲が朗々と言い放った。
「遠江國舞奏社(まいかなずのやしろ)所属御斯葉衆、九条鵺雲及び栄柴巡、秘上佐久夜」
 鵺雲が行ったのは、ただ名乗り上げることだけだった。それで構わなかった。観囃子達は、もう既に自分達が何を観に来たかを知っている。自分達がすべきことは、改めて彼らの中に名を刻むことだけだ。鵺雲が觸鈴を鳴らすと、舞が始まった。
 御斯葉衆の舞奏は美しく、統制の取れたものである。何一つ乱れは無いのに、観囃子は御斯葉衆の舞奏を観ると、感嘆と共に恐怖を抱いた。
 真の美しさは恐怖と不可分である。
 鵺雲の動きには一分の隙も無く、その美しさは人間が畏怖する『自然』の美しさに似ている。油断をすればこちらを呑み込む、容赦の無いものだ。観囃子を楽しませるのではなく、従わせるものだった。九条鵺雲の舞奏を観ている時、観囃子は彼に命を握られているに等しかった。だが、誰一人舞台から目を逸らすことが出来ない。雷華を捉えた者が、人の命を奪うその光に心を奪われたように。
 栄柴巡の舞奏もまた、鵺雲の舞奏と近い性質を持っている。巡の舞奏は酷く危うく、鮮やかなまでに苛烈だ。今この瞬間を目に焼き付けよと、観囃子に命ずるものだ。九条鵺雲の前で霞むことなく、むしろ完璧に競り合っている。それが驚嘆に値することだと、御斯葉衆の舞奏を目の当たりにした者なら誰でも分かる。
 舞奏披の時とは違い、今回は一般的な舞台での舞奏だ。それが故に、佐久夜はこの二つの異才に呑み込まれそうな感覚を味わった。貪り喰らうは浅ましきこの身の役割であるはずなのに、気圧されてしまう。
 だが、臆してはいられなかった。この二人が舞奏を終わらせる才であるなら、自らが今後千年を語る者となろう。今ここにあるのは、秘上佐久夜が追い求めた夢である。なら、自分は勝ちたい。何があろうと、御斯葉衆を大祝宴に到達させたい。
 そうして勝って、この夢を永久に伝える礎となろう。佐久夜は自分の存在が掻き消されぬよう、必死に声を張った。
 御斯葉衆の舞奏が終わった瞬間、辺りから音が消えた。
 熱狂していた観囃子達も水を打ったように静まり返り、まるで時が止まったかのような錯覚に陥る。素晴らしいものを見た、という感覚と同時に、見てはいけないものを見た、という感覚も覚えているようだった。
 その沈黙の中で、鵺雲が一歩進み出た。そして、ゆっくりと一礼をする。そこでようやく、世界に音が引き戻され、観囃子達が喝采を送った。
 これが、星鳥(せいちょう)の幕引きだ。だが、夢は醒めさせない。勝利するのは自分達だ、と佐久夜は心の内で言う。また微かな既視感が、頭の端を微かに駆けていった。



著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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