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小説『神神化身』第二部 三十五話  「舞奏競 星鳥・修祓の儀(前編)」

2022/01/14 19:00 投稿

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小説『神神化身』第二部 
第三十五話

舞奏競 星鳥・修祓の儀(前編) 


「君はまた同じ過ちを犯すつもりなの?」
 九条鵺雲(くじょうやくも)にそう問われた瞬間に、七生千慧(ななみちさと)は改めて舞奏競(まいかなずくらべ)というものを理解する。

   *

 七生千慧に味覚が無いことを、半ば騙し討ちのような形で阿城木(あしろぎ)が暴いてしまってから、しばらくが経った。
 何だかんだ言っても修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)を控えている状況だ。七生もその内機嫌を直して──自分を赦してくれるだろうと、そしてなし崩しに全てを話してくれるのだろうと、最初は楽観的に考えていた。
 だが、阿城木のそれは楽観的に考えているというよりは、むしろ切実な願いに近いものだった。そうあってくれ、と思ってしまっていたというだけの話だ。
 翌日から、七生は阿城木に話しかけてこなくなった。同じ家にいるにもかかわらず、一言も会話が無い。一つ屋根の下で言葉を交わさなくても生活が成り立ってしまうことに、阿城木は初めて気付かされた。阿城木の母親である魚媛(うおめ)とは何事も無かったかのように会話をしている辺り、七生が引いた一線は確かなものなのだろう。
 たまに鉢合わせれば、七生はふっと視線を逸らし何処かへ行ってしまう。そのあまりの徹底ぶりに、声を掛けることすら出来なかった。
 変化はそれだけじゃなかった。むしろ、一番大きな変化があった。──七生が甘い物を欲しがらなくなったのだ。
 阿城木の知っている七生と言えば、一も二も無く甘味を欲しがる生粋の甘党だった。どんな時でも貪欲に菓子を求め、暇さえあれば阿城木に甘い物を寄越せと喚いてくるような人間だ。それがぱったりと止んだことは、阿城木にとって衝撃だった。
 魚媛から与えられるお菓子を受け取ってはいるが、食べている様子が全く無い。冷蔵庫にあるプリンもケーキも手つかずのままだ。食事の後にデザートを欲しがることもなく、さっさと何処かに行ってしまう。あの様子だと、隠れて食べているようなこともないだろう。
 何も欲しがらず、真の意味では何も受け取らない七生を見ていると、自分のしてしまったことの大きさに押し潰されそうになった。頑ななその背が、自分には何も食べる資格が無いと言っているみたいだ。
 味すらまともに分からないのにあれこれ食べていた、だなんて思ったことはなかった。味なんか分からなくても、何だって食べて欲しいと思っている。そんなことすらもう言う資格が無いのだ。
「………………うう~……我これ辛い」
 間に挟まれて一番辛そうなのは去記(いぬき)だった。七生は去記のことまでは無視していない。だが、阿城木が傍に寄ると七生が何処かに行ってしまうので、どうしたらいいか分からないのだろう。この状況で阿城木のことを放っておけず、七生の後に着いていくことが出来ないのも、やはり水鵠衆(みずまとしゅう)の九尾の狐らしい。
「入彦(いりひこ)~。千慧にホットケーキとかフレンチトーストとかそういうの全部作ってあげるのはどうだ? 千慧ならきっと大喜びしてくれると思うぞ」
 去記は妙に明るい声で言った。去記が廃神社ではなく自分の家に滞在してくれていることに感謝しながら、阿城木は答える。
「普段ならそれもアリかもしれなかったけどよ。今はもうそれじゃ無理だろ。それに……」
「それに?」
「……何でもねーわ」
 阿城木は言いかけた言葉をすんでのところで留める。──それに、そういったものを全部作って、それで七生に食べてもらえなかったら、自分は恥ずかしげもなく傷ついてしまうだろう。
 出来てしまった溝は埋まらず、こうしてそのまま修祓の儀を迎えることになった。
 だが、そもそも自分達の間に溝が無かったのだとどうして言えるだろう? と、そんなことまで阿城木は考えるようになっていた。


 舞奏競が行われる前には修祓の儀と呼ばれる催しがある。舞奏競で競い合う二組の舞奏衆(まいかなずしゅう)が舞台となる社(やしろ)に集まり、お祓いを受けてカミへの宣誓を行うのだ。これを以て正式に舞奏衆の参加が認められ、二衆は全霊を以て舞奏競に臨むこととなる。
 修祓の儀の場所に選ばれた社は阿城木の暮らす馬屋橋(まやばし)からも、御斯葉衆(みこしばしゅう)が本拠地としている遠江國(とおとうみのくに)──祝大からも、ある程度の距離を取った舞奏社(まいかなずのやしろ)だった。
 山の中腹にあるその舞奏社は、かなり特異な形をしていた。社自体が大きく広い上に部屋数が多く、長い廊下がそれらを緩やかに接続している。入り組んだ場所の地図を脳内で作るのに長けている阿城木ですら迷いそうな社だ。
 聞けばこの舞奏社は、創建者がカミの託宣を得て創り上げたものなのだという。カミからの声とやらには懐疑的なものの、ここの設計に何らかの思想が働いているのだろうとは感じられた。壮麗な迷宮のような社は、まるでこちらを囲い込む檻のようだ。
「おい──……」
 境内に入るなりずかずかと社に向かう七生の背に、迷うなよと声を掛けようとして、やめた。たとえ迷ったところで、修祓の儀の準備が始まれば社人(やしろびと)が探してくれるだろう。どうあろうと、修祓の儀は三人で行わなければならないのだ。
 だから、ここで七生はふっと消えてしまったりはしない。阿城木は、七生とはぐれることを恐れなくていい。そう思わなければ、蔵で偶然出会えたこの男の背が心許なさすぎた。
 引き留める言葉を持たないまま、七生が社に入って行くのをただ見守った。横で、去記がそっと阿城木の服の袖を掴む。
「大丈夫だぞ、入彦。入彦の心配もよく分かるが、千慧はしっかりしているからな。儀式の始まる時には全員集合万々歳だぞ」
「だといいけどな……」
「それに、我は入彦とはぐれぬようちゃんとお袖を掴んでおるからな。入彦が寂しかろうと大丈夫だ。万々歳だぞ」
「なあ、その万々歳っての流行ってんのか?」
 気まずい空気の中、思わず笑ってしまう。すると、去記もへにゃっと柔らかい笑みを浮かべた。それだけで、入彦は少しだけ救われたような気持ちになるのだった。

 だが、救われたような気持ちになったのも束の間、七生どころか去記も消えた。
 あの大きさにフェイクファーだ。まさか見失うとは思わなかったが、あっさりとはぐれてしまった。阿城木を元気づけようと無理矢理はしゃぐ去記を止めなかった所為だろう。襖(ふすま)を開けたり閉めたり部屋を出たり入ったりしている去記を放っておいている内に、完全に迷子になってしまった。
 何が『お袖を掴んでいる』だよ! と、阿城木は八つ当たりのように思ってしまう。こんなことになるならリードでもつけてちゃんと見張っているべきだった。長い廊下を苛立たしく歩きながら、自分だけでも儀式の間の近くにいよう、と阿城木は改めて思う。
 案の定七生とは出くわさない。七生は一体何処に行ってしまったのだろうか。廊下を見渡し、部屋を開けてみるが、もうすっかり見慣れてしまった水色の片鱗すらそこには無かった。七生千慧はどこにもいない。
 そうしている内に、阿城木は奇妙な音を聴いた。
 いや、奇妙な音というのは正しくない。正しくはここにはそぐわない歌、だ。修祓の儀を粛々と待つだけの場で、誰かが伝統舞奏曲を口ずさんでいた。阿城木も幾度となく舞い、稽古をした曲だ。殆ど懐かしさすら覚えるそれを、この場で舞っている人間がいる。
 何枚かの襖を隔てて聞こえる歌は、美しかった。決して耳障りではなく、うるさくもなく、まるで場の空気に溶け込んでいるような──鳥のさえずりのような声だ。無視出来てしまうほど稀薄な存在感ではないのに、鬱陶しくはない。
 その声を頼りに、阿城木は社の奥へと足を踏み入れる。誰かが舞奏(まいかなず)を奉じている。これは稽古ではないのだ、と強く思った。この人物には、最早稽古と呼べるものは存在しない。彼が舞う時は、全てカミに奉じている。
 いよいよ声が近くなり、阿城木は襖を一枚隔てた向こうに歌の源が在ることを悟る。何故か阿城木は、気付かれないよう数センチだけ襖を開けた。目当ての人間はそこにいた。
 一人の覡(げき)がそこで舞っていた。長身ながら軽やかな身のこなしで畳を鳴らし、静かに響くよう歌を歌っている。華やかで整っている顔立ちの男だと思った。遠く離れているのにもかかわらず、彼の目元と口元にある黒子がやけにはっきりと見える。動きと共に彼の黒髪が優雅に揺れた。
 貴きものを覗き見るような形で、阿城木は男の舞を見た。そして、彼の動きがすっかり止まった時に、阿城木はようやく彼の名前を思い出した。阿城木はその男を──一方的に知っていた。自分達ノノウは、彼の舞奏こそ目指すべき至高だと──数年前から仰ぎ見させられていたのだから。
「入ってきてくれて構わないよ。尤(もっと)も、舞奏を終えた僕なんかと話す価値があればだけれど」
 語りかける声さえ囀(さえず)っているような、独特な喋り方をする男だった。舞っている時の印象とは違い、得体の知れなさを覚える。鵺(ぬえ)、なる漢字が彼の名前に入っていることを唐突に思い出した。いくつもの動物が組み合わされた怪物の名だ。
 阿城木は、襖を大きく開いて九条鵺雲に相見えた。彼が目を細める。
「君は──」
「俺は水鵠衆の阿城木入彦だ」
「へえ、君が七生くんの率いる水鵠衆の一員なんだね」
 鵺雲がどこか可笑しげに言う。ややあって、彼が続けた。
「やあ。僕は遠江國御斯葉衆の九条鵺雲だよ。不束者だけど、どうぞよろしくね?」
 鵺雲は小首を傾げながら、そう言って笑った。そのどことない屈託の無さに、阿城木は逆に気圧されるような気分になる。
「……いや、その……こう言っちゃなんですけど、あんたのことは知ってますよ。九条家っていったら舞奏をよく知ってる人間なら、知らない方がおかしい名前だしな。直接じゃないけど、舞奏自体も何度も観たことがある」
「わあ、それはとても嬉しいことだね。九条家の名に恥じない舞奏が奉じられていたということだから。僕が信じる舞奏を、君のような人にまで届けることが出来たことはとても喜ばしいよ。ありがとう」
 鵺雲がそう言って、阿城木のことを手招いた。もっと中に入って来い、ということだろうか。阿城木はどこか空恐ろしいものを感じながら、もう一歩中に踏み込む。何か悪いことを言われているわけでも、敵意を向けられているわけでもない。だが、何故か阿城木は言い様のない不安を覚えた。
 舞奏を観ている時はあんなにも心を惹かれたのに、阿城木の前に居るのはちぐはぐとした印象を与える一体の鵺だった。
「もう少し近くで君を見せてよ。気になるんだ」
「……それこそ俺なんかにそんな興味持ったって、別に普通ですよ。俺は舞奏の名家の出じゃない」
「それに化身(けしん)持ちでもない」
 鵺雲がはっきりとそれを口にする。目に見えるところに化身が無い可能性だって、化身持ちの彼には折り込み済みのはずだ。だが、彼の口調は確信に満ちている。上野國総掌の横瀬と同じだ。じわりと嫌な汗が出る。九条家は、代々化身持ちを輩出してきた家柄だ。そんな人間が化身の無い自分に向ける視線のことを想像すると、やはり身が固くなる。
 そんな阿城木の不安を察したのか、九条鵺雲はゆっくりと首を振った。
「大丈夫。君のことは元より知っているよ。勿論、こうして見ているだけでも窺い知れることではあるけれどね。七生千慧くんと、拝島(はいじま)去記くん。そして君──阿城木入彦くん。とっても不思議な組み合わせだと思っていたけれど、こうして会ってみて理解したよ」
「会ってみて……?」
 どういうことだろうか。まだ阿城木の舞奏を観てもいないはずなのに。阿城木がそう疑問に思えたのは一瞬だった。鵺雲はすぐに答えをくれた。彼が更にもう一歩距離を詰めてくる。
「なるほど。一人は化身持ち──本物の実力者──……そうでなければ水鵠衆は御秘印(ごひいん)すら得られずに去って行くことになる。そして、もう一人は郷愁(きょうしゅう)か。君は才ある覡にはなれなかったけれど、七生くんを奮い立たせるよすがにはなれた」
 殴られたような衝撃があった。才ある覡になれなかった、というところよりも、七生を奮い立たせるよすがの部分に。ここから先は、自分の聞きたくない答えが待っている。その予感がしてならなかった。乾いた声で、阿城木は辛うじて返す。
「あんた……何言って」
 果たして、鵺雲は驚いたような顔で言う。
「知らなかったの? 君、本当に……全部が三言(みこと)くんに似てる」
 ミコトクン、という聞き慣れない響きはすぐに変換された。ミコトは三言だ。彼の名前もまた、阿城木は知っていた。相模國にいる、有数の実力を持った覡の名前だ。カミに愛された当代一の覡の一人。
 確か、名字は六原(むつはら)。──六原三言。
 彼の堂々たる舞奏と、手の甲にある化身は阿城木の脳裏に焼き付いている。数年前に見た晴れやかで明るい笑顔を、阿城木はフラッシュバックのように思い出した。
「俺が……俺の、どこが、」
「上手くは言えないんだけど、雰囲気かな。僕は三言くんと親交が深かったから、余計にそう思うのかもしれない。だから、全ての納得がいったよ。七生くんは君を見る度に、決裂と憎しみを、あるいは郷愁の全てを思い出すだろう。それは、寄る辺なき彼の中で一つの北極星になる」
「さっきから何言ってんのか全然わかんねえよ」
「あは、ちょっと分かりづらくなってしまってごめんね? 抽象的な話で君を煙に捲きたいわけじゃないんだよ。ただ、僕と七生くんにしか通じないところが多くて……。目の前の君を蔑ろにしてしまうつもりはなかったんだ」
 そう言って、鵺雲が阿城木の手を取った。勝手に抱いていた印象と違い、やけに熱い手に戦く。七生とは正反対の温度だった。
「水鵠衆との舞奏競を、僕はとっても楽しみにしているんだ。けれど同時に、何も分からないまま巻き込まれてしまった君のことを心配もしている。僕なんかの言葉じゃ数分の一の切実さすら感じられないかもしれない。でも聞いて。君はここからまだ逃げ出せるんだ」
「どうして俺が逃げ出さなきゃなんねえんだよ。……ようやく辿り着いた舞台だぞ」
「ここは君の舞台じゃない。君はきっと後悔することになる。そうなってからじゃ遅いんだ。僕はその後悔を何度も見てきた」
 鵺雲が冗談を言っているようには見えなかった。彼は確かに切実だった。その根源が何処にあるのかが分からないだけで、鵺雲の言葉自体には嘘が無い。そのことが一層不気味だった。
「……だからって、俺はもう退けない。あんたみたいな奴には想像も出来ないだろうけどな」
「ふふ、そんなに睨まないでよ。憎まれ役も慣れているから問題は無いけれど」
 鵺雲が微笑んだ瞬間だった。
「僕のチームメイトから離れてくれる?」
 この数日のお陰で、随分懐かしくなってしまった声がした。
「ああ……ようやく会えたね。久しぶり」
「僕はもう二度と、お前なんかに会いたくなかったよ。九条鵺雲」
 七生千慧は、今までに無いくらい敵愾心(てきがいしん)を露わにした顔で言った。途端に、鵺雲の手が離れる。熱さから解放された手が、七生の冷えた肌を思い出させた。
「別に変なことはしていないよ。ただ、話をしていただけ」
「僕が目を離している隙に、阿城木に妙なことを吹き込んだだろ。お前の遣り口はいつもそうだ」
「そんなことはないよ。むしろ、僕にとっては七生くんの方が分からないんだ。君は一体何をしようとしているの?」
「お前には関係無い。僕は二度とお前なんか信用しない」
「酷いな。僕は君に何の敵意も持っていない。むしろ逆だよ。この世で唯一君を助けられるかもしれないと思って、嬉しかったんだ。こんな僕でもやれることがあるんだって」
 鵺雲が静かに言う。一体、何の話をしているんだろうか。そもそも、九条鵺雲と七生千慧は知っている仲なのだろうか? 阿城木家の蔵に急に現れた七生千慧に、過去を知る人間がいるだなんて思いもしなかった。
 その時、ハッと気付いたことがあった。
 七生の舞奏には妙な癖があった。長年に渡って身体に染みついた舞はなかなか離れるものじゃない。だからこそ、七生は上野國水鵠衆の舞奏にあまり馴染まなかったのだ。
 どうしてもっと早くに彼の舞奏のルーツに気がつかなかったのだろう。あれだけ日々舞奏の稽古に励んでいたのに、すぐ結びつけられなかった自分に歯噛みする。
 七生千慧の舞奏は、相模國(さがみのくに)のものに似ていた。
 阿城木入彦に似ているという六原三言のいる、相模國のものに。
 阿城木のことを余所に、七生は一心に九条鵺雲のことを睨みつけていた。
「お前のやろうとしたことを全部忘れない。それだけは、絶対にだ」
「そんなことを言うなら、君がやったことだって忘れていないよ。むしろ、全てのことは君が引き起こしたことだ。僕はそれに対応しようとしただけだよ」
 鵺雲はあくまで穏やかだった。そんな鵺雲を見て、七生は一層怒りを募らせていくようだ。
「相変わらず、自分は選ぶ立場だって思ってるんだろ。化身持ちの血の濃い遠江國をわざわざ選んで、その中から名家を選んで。そして理想の舞奏衆を創り上げた」
「……そうだね。御斯葉衆はとても理想的だと思うよ」
 鵺雲が何故かそう言ってから目を伏せた。
「七生くんも本当は分かっているんでしょう? こんなことをしちゃいけないって。君はまた同じ過ちを犯すつもりなの?」」
「決めつけるな! これは過ちじゃない。そうやってお前は……常に裁き、選ぶ立場でいる。だからこそ、お前はいつだって……誰からだって選ばれない。僕はお前を選ばないよ、九条鵺雲。……お前なんかに助けを求めてたまるか!」
 七生が憎しみの籠もった口調で言う。こんな七生の姿を見るのは初めてだった。七生は殆ど掴みかかりそうだ。いや、あと数秒遅ければそうなっていただろう。勢いのままに振りかぶった手が、宙に投げ出される。
「それ以上は容認出来ない」
 部屋に入ってきた男が、七生の手を掴む。七生の肌は人間のものとは思えないほど冷たいはずだ。だが、武人めいた男は全く動揺することなくしっかりと七生のことを掴んでいる。男はそのまま冷たく低い声で言った。
「従者とは主を選ぶものだ。俺はこの方を選んだ。この方の率いる御斯葉衆に忠義を尽くし、覡として大祝宴に辿り着くと決めた。俺は選ばれたが、選びもした。事実に即していない言葉で鵺雲様のことを誹るのは控えて頂こう」
 七生が信じられないものを見るような顔で男の方を見ていた。永遠にも感じられる膠着の中で、今度は場違いに明るい声が響く。
「ちょっとちょっと、相手が怖がってるじゃん。佐久(さく)ちゃんってば見た目に威圧感あるんだから愛想良くしなよねー!」
 続いて入ってきた男が、七生と『佐久ちゃん』を引き剥がす。明るい顔つきの男に促されると、彼は大人しく従い傍に控えた。その渾名で分かった。彼は上野國の秘上佐久夜(ひめがみさくや)だ。代々社人の家系に生まれ、栄柴(さかしば)家に仕える運命を負った男だ。
「ごめんねー、佐久ちゃんのことは後で叱っとくからさ! あ、申し遅れちゃったね! 俺は栄柴巡(めぐり)! 遠江國栄柴家のお坊ちゃんだよー。よろしく!」
 栄柴巡はウインクをしながら軽やかに笑った。
 栄柴巡は舞奏の名家に生まれ、化身を宿しながらも舞奏から離れていた人間だ。阿城木が持っていなかったもの、欲しくてたまらなかったものを持ちながらも、それを生かさなかった人間だった。
 どうあってほしい、という具体的なイメージは無かった。化身を持っていながら舞奏を選ばなかった男に、贖罪の意識と共に生きていてほしいと願っていたわけじゃない。
 だが、あまりにも明るく笑っている栄柴巡を見ていると、阿城木の中に得も言われぬ感情がわき上がってくるのが分かった。阿城木が欲しかったものを捨て、思うままに生きてきた男の姿だ。
「でも七生くんが怒るのも分かるよ? どーせ鵺雲さんが変なこと言ったんでしょ。あはは、マジでごめんねー!」
「……別に、こっちはそういうわけじゃ」
 七生が小さく言う。それに合わせて巡が笑う。
「ま、俺はそういう場外戦闘についてはどうでもいいんだけどさ。俺達は御斯葉衆と水鵠衆。舞奏競で全てを決めることを是とする覡どもだ」
 栄柴巡は何故かそこで皮肉げな笑みを浮かべて阿城木のことを見ていた。どうしてそんな目を向けられるのか分からなかった。自分が栄柴巡に向けるならまだしも、と阿城木は思う。彼は阿城木に無いものを全て持っているだろうに。
「……名家、名家ね。伝統破りの水鵠衆。因習を否定する進歩的な姿勢は大いに結構! 俺も栄柴の家もこの血も、きっともうこの時代にはそぐわない。お前らはきっと自由に舞えるんだろうさ」
 一拍置いて、栄柴巡が言う。
「けど、それって価値あることか? 俺達は御斯葉衆。鎖に繋がれども星に届く。御斯葉の覡主(げきしゅ)に言いたいことがあるのなら、舞台で語れ」
 その言葉を受けて、七生が一歩後ろに下がる。鵺雲が妖艶な笑みで言った。
「遅れてしまったけれど紹介するよ。これが僕の──遠江國御斯葉衆だ」
 鵺雲が晴れやかに言う。
 これが、と阿城木は思う。これが、自分達がこれから戦う相手。臨むべき敵──御斯葉衆だ。
 その時、襖がゆっくりと開いた。
「あの、我ってちょっと遅かったりする?」
 フェイクファーの耳を揺らした去記が、ひょっこりと襖から顔を出す。それに対し、阿城木は心の中で言った。いや、完璧だよ。完璧だ、と。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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