小説『神神化身』第二部 
第四話

「咎人(とがびと)

 化身(けしん)が出て覡(げき)になっても、佐久夜(さくや)の行動は変わらなかった。巡(めぐり)がいつも把握している通りだ。この時間帯なら、佐久夜は舞奏社(まいかなずのやしろ)近くの道場にいるはずだ。佐久夜は社人(やしろびと)としての仕事が終わると、ずっと続けている柔術の稽古に向かう。日によってはここが別の鍛錬になったり、あるいは筋トレに変わったりはするが、大枠は変わらない。覡となったことで、このルーティーンすら変わってしまったらどうしよう、と巡は思う。
 果たして、佐久夜はそこにいた。靴すら揃えずに駆け込んできた巡に対し、少しだけ驚いた顔を見せている。
「化身出たんだって?」
 何かを言われる前に、先に言った。すると、佐久夜は物々しく頷いた。どうやら、何かの間違いではないらしい。
「……そんな急に出ること、あるんだ」
「舞奏(まいかなず)の技量を認められたノノウが化身を賜(たまわ)った例はいくらでもある」
「でも、佐久ちゃんは社人じゃん!」
「そうだな」
「ちょっ、化身見せて! 夢じゃないの!?」
「おい! ベタベタするな」
 佐久夜の化身は腹にあった。鍛えられた腹筋の上に、巡のものと似た形の痣が浮かんでいる。それを見て、少しだけ嬉しくなってしまった。これは、巡と佐久夜の日々を決定的に変えてしまうものなのに。
「なあ、あの鵺雲(やくも)……さんが、佐久ちゃんが御斯葉衆(みしばしゅう)に入るとか、そんなこと言ってたんだけど……」
「ああ、そうだ。鵺雲さんは、化身のある覡を御斯葉衆に迎えたがっている。俺も舞奏の素養が無いわけではない。技量が足りない部分はこれからの稽古で補填していくことになるだろう」
 淡々と佐久夜が返す。誰も佐久夜の技量が足りないとは思っていない。社人として勤めるにあたって、佐久夜は自らも一通りのことを身につけている。家の方針上、舞奏衆(まいかなずしゅう)を組むことにはならなかったが、正直、井領(いりょう)や小榊(こさかき)よりもずっと舞奏は上手いだろう。
 なら、何が問題なんだ? と巡の中で声がする。どうして自分はこんなに狼狽しているのだろう?
「だ、だからって……化身があるからって、別に覡にならなくてもいいだろ」
「社は俺が覡になることを歓迎している。俺は遠江國(とおとうみのくに)の舞奏社に所属している社人だ。覡となることが社の為になるのであれば、俺はこの身を喜んで窶(やつ)そう」
「そ、それ、ほんとに佐久ちゃんの意思かよ!?」
「ああ、そうだ」
 はっきりと佐久夜が答える。こういう時の佐久夜は意思が固く、嘘が無い。揺らぐことのないその瞳が眩しかった。佐久夜はただの一度だって後悔をしないだろう。選び取った道に誇りを持っている。そこが、佐久夜の中で一番好きな部分だった。
 だから、もう変わらない。揺らがない。佐久夜は、九条鵺雲(くじょうやくも)と御斯葉衆を組むのだ。
「俺は御斯葉衆に忠節を誓う。これは俺の決めた一線だ」
「……佐久ちゃん」
 止めることは出来なかった。止められるような相手じゃない。そのことを知っている程度には、巡は佐久夜の親友だった。

 
 九条鵺雲が仮住まいにしているのは、駅前の大きなホテルだった。本来は家族で使うのだろう大きな客室で、彼は巡を待っていた。待ち合わせを申し入れたのはほんの数時間前なのに、まるでずっと昔から待たれていたかのような気分になった。
「やあ、わざわざ出向いてくれてありがとう! ご足労を厭わず僕に会いに来てくれて嬉しいな。さっきまで比鷺(ひさぎ)にメールをしたためていたところなんだけど、巡くんの為ならいくらでも時間を割いちゃうよ。よければお茶でも──」
「俺も御斯葉衆に入る」
 お茶などするつもりはなかった。ここに来るまでに、どれだけの煩悶と覚悟を要したことか。鵺雲の前に立つまでに、今までの巡は一度死んだ。本心の代わりに笑顔を見せて、言葉を続ける。
「……化身があればいいんですよね? なら、俺だっていいはずでしょう?」
 わざわざ化身のある掌を晒す。今まではずっと握りしめて、誰にも見せないようにしていたところだった。けれど、九条鵺雲が価値を見出しているのはこの掌だ。あるいは、そこに流れている血筋だった。
「勿論! むしろこちらから三顧の礼でお迎えしなくちゃいけないところだもの。嬉しいなあ、あの栄柴(さかしば)と舞奏が出来るなんて」
 巡の言葉を受けて、鵺雲が心の底から嬉しそうな表情を見せる。その後、少しだけ声のトーンが落ちた。
「それにしてもどうしたの? 急に心変わりなんて。僕はとっても嬉しいけれど、巡くんは舞奏に積極的ではないようだったから」
 完璧な微笑みを浮かべながら、鵺雲が言う。白々しい、と思った。
 目の前の男は、巡の感情を察している。──鵺雲と佐久夜が御斯葉衆を組むことを耐えがたく思う巡の気持ちを、理解している。その上で、それを利用して自らの理想郷を実現させたのだ。
「だって、佐久ちゃんが覡になるって言うんですもん。親友の俺としては、佐久ちゃんばっかりにいいかっこさせられないかなーって。なんだかんだで、佐久ちゃんが覡として歓心集めてたらずりーってなっちゃうかもだし。俺も、昔取った杵柄で観囃子(みはやし)ちゃんたちにきゃーきゃー言われたいし!」
「うんうん。どんなモチベーションであっても、舞奏への意欲が高いのは嬉しいことだよ! これで僕達は最高の御斯葉衆になれるね!」
 そう言ったのも束の間、鵺雲はわざとらしく表情を曇らせた。
「でも、無理はしなくていいからね。僕はあくまで巡くんの選択を尊重したいし、大祝宴(だいしゅくえん)に向かう為には一丸となることが必要でしょう? だから万が一にでも君の舞奏に躊躇いや甘えなんかがあれば──」
「無理なんかしてないですよ」
 巡は鵺雲の言葉を遮るようにして言う。
「俺は栄柴の血を引く覡です。勝利も大祝宴への鍵も、俺のものだ。何人たりとも手出しはさせない」
 はっきりと言葉にしてしまうと、随分楽になった。目の前の男が現れてから幾許(いくばく)も経っていないのに、全ては変わってしまった。だが、目の前の男が空を裂く雷であろうとも、巡からこれ以上何かを奪うことは赦(ゆる)さない。自分の中に猛(たけ)る炎がある。天まで届き、雷鳴すら呑み込むような炎だ。
「あなたに、栄柴の夜叉憑(やしゃつ)きを見せてあげますよ」
 巡の幸福は脅かさせない。秘上(ひめがみ)佐久夜は巡のものだ。 

 *

 自分が咎人(とがびと)となった日のことを、佐久夜は今でも覚えている。


 社人の家に生まれた佐久夜と、舞奏の名家に生まれた巡は幼馴染だ。それもただの幼馴染ではない。特別な相手だった。初めて巡の舞奏を観た時のことを覚えている。何年も研鑽(けんさん)を積んだノノウ達よりも、年若い巡の舞奏の方が際立って華やかで、美しかった。彼の舞奏は優雅でありながら、烈(はげ)しかった。自分が社人として支える覡が彼で良かったと心から思ったし、親友でもあれるこの身が誇らしかった。
 だが、ある時期を境に、巡は段々と調子を崩していった。栄柴の家の名前と周りからの重圧に負け、笑顔を見せることすら少なくなった。巡は折れかけていた。虚ろな目には光がまるで無く、今まで気にならなかった外の声に惑わされるようになった。痛ましくて見ていられなかった。そうして、終いには佐久夜のことまで拒絶しようとした。物心のついた時から共にいる相手が一人で弱っていくのは見ていられなかった。
 だから、口下手であるにも関わらず、言葉を尽くした。舞奏をやらなくてもいい。覡でなくとも、栄柴巡には価値がある。覡でなくなっても、自分は変わらず傍にいる。
 あの時の思いは嘘ではないのだ。佐久夜にとって巡は、覡である前に大切な親友だった。巡があんな風になるくらいなら、全て捨ててくれて構わなかった。
 だが、いざ栄柴巡が舞奏を辞めた時、佐久夜は自分が何をしでかしてしまったかを──何をこの世から奪ってしまったのかを思い知らされることになった。
 栄柴巡の、あの美しい舞奏はもう観られない。この世で一番価値あるものを、佐久夜は何も考えずに失わせてしまった。
 それ以来、佐久夜は消えない罪を背負って生きている。

 

「全て君の思惑通りでしょ? どうして喜ばないの?」
 稽古場の椅子に腰掛けながら、鵺雲がにこやかに言う。
 その屈託のない瞳に耐えられず、佐久夜は目線を逸らしながら言った。
「俺は……今でもこれで正しかったのだろうかと悩んでいます」
「あは、悩むなんて今更でしょう? だって、君が御斯葉衆に入るのであれば、巡くんが追ってくることなんて予想が出来ていたじゃない。彼はそういう人間だもの。なのに、君は巡くんの加入に強く反対したりはしなかった。そうでしょう?」
 鵺雲の言う通りだ。佐久夜はあそこで、巡に言い含めておくべきだった。自分が覡になるからといって、御斯葉衆の覡にならなくてもいい。舞奏をやらなくても、栄柴巡は何も変わらない。いつものように、求められる言葉を掛けてやればいい。
 ──なのに、佐久夜はあくまで自分が覡になることを言うに留め、巡に選択を迫った。ずっと一緒にいた自分が、よりによって舞奏衆を組むとあって、舞奏から逃げ出した巡が傷つかないはずがないのに。覡となる佐久夜に一線を引かれることに怯えないはずがないのに。孤独だった彼が、佐久夜を手放すことなんて出来るはずがないのに。
 そのことを分かっていて利用したのだ。覡としての責任を、隠れ蓑(みの)にして。
「……申し訳ありません。白々しい言葉を吐きました」
「いいんだよ。舞奏には本性が出るんだもの。言葉くらい、いくらでも飾ってくれれば」
 鵺雲が笑う。微笑むと、泣きぼくろが一層目立つ。彼の涼やかな声と、こちらを包むような微笑を見ていると、まるで異形のものに魅入られたような気分になる。実際に佐久夜はその誘惑に乗って、巡が今までよすがにしてくれた言葉を裏切ってしまった。
 いや、ずっと裏切り続けていたのだ。そのことが運良く明らかにならなかっただけだ。
 舞奏をしなくてもいい、なんて嘘だ。佐久夜は今でも、彼の舞奏に焦がれている。巡が舞わなくなって以来、佐久夜が本当の意味で舞奏に心を震わせられたことはない。
 巡の代わりはいなかった。あれほど美しく、烈しく舞える人間なんかいなかった。自分が最も愛していたものを、佐久夜はたった一時の慰めの為に手放してしまったのだ。その価値を最も理解していたのは、他ならぬ自分だったのに。
 九条鵺雲がやって来たことと、自身に化身が出たことは、栄柴巡の舞奏を取り戻す最初で最後の機会だった。
 だから、そうした。果たして佐久夜は、自分の愛したものを取り戻したのだ。
「涼しい顔をして、腹に一物を抱えているんだね。そこに化身が出るわけだ」
 鵺雲は責める風でもなく、ただ事実として言う。その温度が、今は心地よかった。改めて彼のことを見据え、佐久夜は言う。
「俺は、咎人です」
 浅く息を吐いて、続けた。
「浅ましい人間です。口では巡の幸せを願いながら、我欲に負けてあいつを逃がしてやれなかった男です。心の内では、かつてそこに在った栄柴巡に焦がれ続けた男です。俺はきっと報いを受けるでしょう。ですが……巡が大祝宴に辿り着くところを見られるのなら──いいや。あいつの舞奏がもう一度見られるのなら──生皮を剥がれても構わない」
 もし、この本心が知られれば、巡は自分のことを見限るだろう。ずっと信頼していた相手の腹の内を目の当たりにして、今までに無い悲しみを覚えるに違いない。
 だから、こんなことを言う資格なんて本当は無いのだ。それでも、言わずにはいられなかった。
「ですがどうか、俺の仕える主人に──御斯葉衆のリーダーに、乞い願わせてください。……巡のことを、これ以上傷つけないでください。……俺のこの浅ましい胸の内を、巡にだけは明かさないでください」
「いやだなあ。当然じゃない。同じ衆の仲間になったんだから、とっても大切にするよ。それに、僕は巡くんを傷つけようと思ったことなんてないよ」
 嘘だ、と直感する。いや、嘘ではないのかもしれない。九条鵺雲の思う『大切』と、自分が望む待遇が違うだけだ。この男にとって、化身持ちとして覡になること──舞奏競(まいかなずくらべ)に勝って大祝宴(だいしゅくえん)に辿り着くこと以上の幸福は無い。だから、その過程でどれだけ巡の心を踏みにじっても、それは必要なことだと思っている。当然のことだと。だから、佐久夜の願いは叶わない。
 この男の価値観と佐久夜の価値観は相容(あいい)れないだろう。その相手の力を借りてまで、幼馴染を舞奏の世界に引きずり戻したのは自分なのだが。
 それならば、佐久夜と鵺雲は同類の共犯者だ。
 この男に──佐久夜は尽くさなければならない。
 佐久夜の内々の決意を知ってか知らずか、鵺雲は麗しく笑ってみせた。
「大丈夫だよ、佐久夜くん。確かに君は愚かな間違いを犯したかもしれない。でも、今や君はかつての栄柴巡を取り戻した。僕は栄柴の血を引く覡を手に入れた。これで、御斯葉衆の舞奏は至上のものになるだろう。君はようやく、その罪過を浄(きよ)める機会を与えられた。今こそ、僕が赦(ゆる)そう。もう二度と過(あやま)たず、君の大切なものを──価値あるものを守るといい。これからの嵐の中で」
 あなたに言われずとも、と佐久夜は思う。いつか報いを受けてもいい。然るべき罰を甘んじて受け容れよう。だが、それまでは。栄柴巡は──彼の舞奏は、佐久夜のものだ。

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著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。





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©神神化身/ⅡⅤ