小説『神神化身』第四十二話

EverydayClothes in Fuchu


「ねえねえ所縁(ゆかり)くん。今度の日曜日、ちょっとばかりお買い物に付き合ってもらえません?」
 昏見有貴(くらみありたか)がそう言った時、面倒なことになったという感想が出た。プライベートがよく分かっていない相手が、わざわざ自分を誘ってくるのだから、これはもう何かあると予想して然るべしだろう。少し悩んでから、皋(さつき)は一応の抵抗を試みる。
「…………ぜってえやだ」
「私はいつも所縁くんの為に時間を割いているじゃないですか」
「お前の時間、大体押し売りじゃねえか」
「なんてことを言うんですか。私は忙しい日々の合間を縫って、時間をサクサクに仕上げているというのに」
「仕上げてほしいって一回も言ってねえだろ。バターを塗ってオーブンに入れんな」
 第一、こうして自宅の中に入れるのでさえ、まだ一度も許可していないのだ。『気づくといる』という状態を拒まない時点で皋の負けである。
「というか、あの多忙な萬燈(まんどう)先生ですら来てくださるんですからね! それでも日がな舞奏(まいかなず)の稽古以外やることのない皋・余暇の王・所縁が断るんですか?」
「えっ、萬燈さん来んの? 最近あの人マジで付き合い良いな。全力食堂のエビフライを食べに行く為だけの浪磯(ろういそ)の旅にも来たし……」
「まあ、あれは……萬燈先生は萬燈先生で別のお目当てがあったようですから。個人的なお楽しみがね」
 昏見が意味ありげに言う。恐らくは、萬燈が浪磯に着くなり単独行動に向かった件を示しているのだろう。どこに行ったのかは結局尋ねなかったが、何か目的があったに違いない。戻って来た萬燈は六原三言(むつはらみこと)と九条比鷺(くじょうひさぎ)を連れていたから、単純に二人を呼びに行くのが目的だったのかもしれないが。
「あの時、何してたんだろうな」
「気になるなら萬燈先生に尋ねてみたらどうですか?」
「や、なんかそれもな……って。浪磯って海綺麗だし、そういうところを歩くことで小説のアイデアを得たりしてたんじゃないの」
「そうかもしれませんねえ」
 特に感心もしていなさそうな声で昏見が言う。こうしてすげなくあしらわれるのも、なんだか悔しい。推理を適当に流されていた駆け出しの頃を思い出す。ややあって、皋は言う。
「……わかった。行く。どうせ萬燈さんほど忙しくもないし、やることもないし」
「本当ですか! やったー! 言質だ!」
「言質だ! じゃねえよ」
「それじゃあ待ち合わせの場所と時間は後でご連絡しますので」
 昏見が楽しそうに言う。その様を見て、なんだかちょっと気分が沈んだ。

 

 そして当日、待ち合わせ場所に向かう時も、沈んだ気分と居心地の悪さが抜けなかった。稽古のために舞奏社(まいかなずのやしろ)に行くとか、ミーティングの為にクレプスクルムに行くのとは話が違う。今日は完全にプライベートの外出なのだ。だから、気を張ってしまう。
 待ち合わせ場所には、既に昏見が来ていた。
「あ、所縁くん。おはようございます! 今日も喪服か就活生みたいなスーツがお似合いですね」
「うぐ……」
 昏見がにこやかに笑う。その横で、綺麗に結われた三つ編みが揺れた。
 これだ。これが嫌だったのだ。プライベートな外出だと、絶対に私服の問題が出てくる。
 基本的に、皋は服をスーツしか持っていない。探偵をやっていた頃は、どこに行くにも同じデザインのスーツを着ていた。
 どこで事件に遭うか分からない世界だから、プライベートですら気が抜けなかった。近所のコンビニに行くようなスウェット姿の男が推理を披露しても説得力が無いし、皋所縁の名前が売れた後はパブリックイメージ的にもゆるい格好が出来なくなった。
 その結果が、私服を用意出来ない今の皋である。クローゼットに入っているのはずらっと並んだ黒いスーツだけであり、探偵を辞めた後も惰性で着続けている。上に羽織るアウターだけは防寒性の高いものを買い足したが、中身はここ数年変わり映えがしない。
 いざ好きな服を着ろと言われても、何を選んで良いかわからない。唯一良かったことは、この国では成人男性が毎日スーツを着ていても目立たないところである。
 そんな皋のことを、昏見は容赦無く弄ってくる。だから来たくなかったのだ。お出かけ用の服など持っていない。ここに来ただけで負け戦だ。悔し紛れに皋は言う。
「……お前はまたご機嫌な髪型してるな。なんだそれ」
「可愛いでしょう。綺麗に三つ編みが出来ました。私くらい髪がサラサラだと、逆に編むのが難しいんですよ」
 ウェスペルじゃない昏見と初めて街中で会った時も、その髪に目が向いたことを思い出す。最低限の変装しかしていない彼を見て、その艶めいた長髪が地毛なのかと素直に驚いたことも。
 あの頃といえば、皋が限界まですり減っていた頃だった。
 あの時と今では、状況も関係もまるで違う。思い出す度に苦しくなっていた日々が、今思い出すと少しだけ柔らかいものになっていることを感じる。その変化が単に良いことかは分からないが。
「私は背が高くて顔が綺麗なので、こういう髪型も似合っちゃうんですよね」
 まっすぐに言われると否定が出来ないのも悲しい。薔薇の付いたダークグリーンのジャケットも、三つ編みも、昏見だからこんなに似合うのだろう。独特な非日常感が、かつて思い描いていた怪盗の休日っぽいところは好感が持てた。
 おまけに、昏見は服にそこそこお金を掛けるタイプだ。ファッションのことはよく分からないが、お金が掛かっているかどうかは何となく分かる。被害者の着ているもののグレードで身元を推量していたからだ。金回りが良さそうな人間が殺されたのなら、その時点である程度の人間関係や動機が絞り込める。我ながらあまり嬉しくない杵柄(きねづか)だが、探偵時代の癖はそうそう抜けない。
 断言する。ファッションに対する価値観は昏見とは一生合わないだろう。
「萬燈さんはまだ来てない?」
「いえ。もういらっしゃってるんですが……あそこですね」
 指を差される前に、もうファンの応対をしている萬燈が見つかった。彼はどこにいても分かりやすい。格好が目立つのだ。上等な生地を使った白いコートの中に、七宝(しっぽう)柄の和服を着込んでいる。帯にオレンジ色を選んでいるのは、闇夜衆(くらやみしゅう)を意識しているのだろうか。
 おまけに、本人自体のオーラも凄い。あそこだけ光の当たり方が違うような気すらする。サインを終えてこちらに来る時に、思わず身構えてしまった。
「おう、皋」
「応対お疲れ。今日も和服か」
 萬燈夜帳(よばり)の私服は和装が多い。
 勿論、シチュエーションや要望に応じて洋服も着ているようだ。この間インタビューを受けていた時の服装は、黒のテーラードジャケットに濃紺のシャツを合わせるという、どこぞのハリウッドセレブのような格好をしていた。そちらも様になっていたなという気持ちと、小説家兼作曲家ってこんなキメキメに写真撮るもん? という気持ちで複雑な顔になってしまった。
 いずれにせよ、萬燈は惚れ惚れするほど見栄えがいい。
「似合うだろ? こいつは浪磯に行く時に仕立てたもんだが、帯と半衿を替えてみた」
「いや、本当に似合う。それはもう否定のしようもないわ」
 前に「文豪って和服のイメージだよな」と、適当なことを言ったことがあるのだが、萬燈には真面目な顔で「だろうな」と、答えられた。恐らくは、そういうイメージを反映して選んでいる服装なのだろう。萬燈の趣味というよりは、周りの趣味を反映した結果、というか。しかし、周りの期待に応えることが萬燈の趣味であるということは、逆説的に萬燈の趣味であるということなのだろうか?
「萬燈先生はお洒落ですね! 一緒に歩くと気後れします」
「お前の伊達男っぷりも負けてねえよ」
 こういう時、萬燈は皋の方に話題を振らない。一度、皋が苦虫を噛み潰したような顔で応じるのを見てから、気を遣っているのだ。ありがたいはありがたいが、これもまた別の辛さがある。
 今から、この個性豊かな面白人間博覧会達と並んで歩くのだと思うと、さっさと逃げ出したくなってしまう。
「さあ、行きましょう! 私達のドリーミング・トワイライト・ジャーニーへ!」
「もうそのネーミングだけで帰りてえんだけど……ていうか萬燈さんは普通に歩いていいのかよ。また初詣の時みたいにパニックが起こるんじゃ」
「初詣ほど一所に集まってるわけじゃねえからな。上手い具合に応対していきゃあ平気だろ。目的地もここからそう遠くねえしな」

 

 そうして連れて来られたのは、とある洋品店だった。一言で言えば、皋が絶対に入らなそうな店だ。
「何? 俺に対する新手の拷問か何か?」
「お店に失礼ですよ。私、新しいネクタイが欲しくて。一緒に選んで欲しいなって」
「なんでそれで俺なんだよ。萬燈さんだけでいいだろ。まだおすすめの小説とかのが役に立てるっつーの」
「俺が選んじまうと似合うもんになっちまうからな」
 萬燈が顎に手を当てたまま、思わしげに言う。いや、だからそれでいいんじゃないか? と思うのだが、どうなのだろうか。皋にはファッションがわからない。
「だから、所縁くんに選んでもらおうかなと。闇夜衆のリーダーなんですから、ネクタイの一本くらいバシッと選んでくれますよね」
「それ絶対関係ないだろ……」
 この店に並んでいるネクタイはどれもこれも洒落ていた。皋がいつも着けているような、単色の地味なものではない。暗い色を選んでおけば間違いないという経験則も役に立たなそうだ。一口に暗い色といっても、ここには数多のバリエーションがある。
「どうですか? 所縁くん。随分悩んでるみたいですけど」
 揶揄うように昏見が言う。悩むに決まっている。なんだかんだで、昏見が何かを欲しがるのは──怪盗の時のターゲットはともかくとして──初めてだった。なら、不本意でも真剣に選びたい気持ちがある。
「よし、これだな」
 選んだのは、オレンジ色のラインが入ったネクタイだった。萬燈の帯を見たからだろうか。舞奏装束と揃っているかのようで、見ていて嬉しい、気がする。少し派手だが、昏見なら似合うだろう。
「やったー、ありがとうございます! お会計してきますね」
 嬉しそうにレジに向かう昏見に付いていく。意外なほど喜んでいる昏見を見ると、何かよくわからないが良かったな、と思った。その時、不意に昏見がこちらを向く。
「折角なら着けていきますか?」
「え?」
「あ、じゃあ着けていきましょう。店員さん、箱は要りません」
 そう言ってネクタイを受け取ると、昏見はまっすぐにそれを渡してきた。思わず素直に受け取ってしまう。
「流石に結び方は分かりますよね?」
「いや、分かるっていうか……それじゃあ今のネクタイどうやって締めてんだってことに……じゃなくて、お前ネクタイ欲しいっつってたじゃん!」
「えー、欲しかったので入手しましたけど? 購入したネクタイを着けたいですとは言ってないので?」
 小首を傾げながら昏見が言う。事件以外では殆ど発揮されない推理力が、正しい答えを導き出す。最初からそのつもりだったのだろう。何でいきなりプレゼントなんだよという気持ちと、だったらこんな回りくどいことしなくていいだろの気持ちが綯い交ぜになって、ネクタイを突き返してやりたくなったが「そのネクタイのライン、私達の色ですね」と言われると、何だか手が動かなくなった。代わりに、言われるがまま新しいネクタイを締めてしまう。
「似合ってるじゃねえか。お前は瞳の色が深いからな。明るい色が一つあると綺麗に映える」
「はあ? マジで? 昏見とか萬燈さんならまだしも、俺に似合うか? これ」
「舞奏装束に袖を通した時に気づかなかったのか? 世界にはお前に似合う色がごまんとあるぜ」
 そう言うと、萬燈はさっと店員の元に行って、何着か服を持ってきた。嫌な予感がする。あるいは、何らかの期待だろうか? 身体を引こうにも、背後には昏見が控えている。逃げられない。
「とりあえず、そのネクタイに似合うよう何着か見繕ってやる。そんだけ決まるなら、ボトムスも変えた方がいいだろう。試着して気に入るものがあれば、そのまま引き取れ」
「確かにそうですね! 萬燈先生のセンスなら間違いないです。いやー、心配してたんですよ! 私達! いつまでも所縁くんにペイントソフトでバケツ塗りしたような格好をさせられないなと思って!」
「うるせえ、別にいいだろそれは! いや、こんな見繕ってもらっても困るっていうか」
「日頃の感謝もあるからな。あまり深く考えるな」
「考えるんだよ普通の人間は!」
 そう、普通の人間である皋は考えることが色々ある。プレゼントをもらうのは気後れするとか、洒落た服をもらったところでどうせ外に出る用事なんか殆ど無いとか。
 あるいは、この服を貰い受けるのであれば、時間が止まったままのクローゼットを片付けなければならないだとか。
 いつ事件に行き当たっても大丈夫なように、死を悼まなければならない場面でも相応しいように見繕った黒いスーツは、名探偵・皋所縁のお気に入りだ。あれらを手放す機会が出来てしまうことは、皋にとって大きすぎることなのだ。

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著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。



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