2014年02月13日発行 第0784号 特別
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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「僕の“禁じられた遊び”」(1998年)

 どうしてもひとつのことに集中できない、という不安がいつもあった。夢中
になることを見つけなければいけない、そんな掟があるように思われた。だが
自分は未だ何も選びとっていない、その端緒すらつかめていないではないか。
入学したばかりの高校のグラウンドでは野球部やサッカー部、バレー部の連中
が大きな声をはりあげて、青春真っ盛り、とこれみよがしに叫んでいるように
聞こえた。

 やれやれ義務教育を終えたのにまた三年間もつまらぬ学校へ通うのか、それ
から大学へ行って、それから……、めんどうだな、ため息をついた。

 床の間の隅に薄汚れたギターが立てかけてあることに気づいた。僕は石原裕
次郎ブームに遅れて来たが、長兄が憧れて買ったもので二、三度、ボロンボロ
ロンと弦をいじっただけで、ずっと前から埃をかぶったままだ。

 それからたびたび、軽いけれど大きなこの楽器をやさしく膝の上に載せ、弾
く真似ごとをした。魅せられたけれどほんとうの弾き方がわからない。

 昼休み、廊下の窓から挑発するような響きが洩れてきた。見下ろすと、緑の
クローバーを敷きつめた中庭の一隅でギターを練習しているグループがいる。
吸い寄せられるように急いで階段を降り中庭に出た。陰りを帯びた音色が近づ
いて来る。映画「禁じられた遊び」の主題曲だった。

 翌日、僕はもう中庭のグループのなかにいた。「禁じられた遊び」の主題曲
「愛のロマンス」ののギター奏者がナルシソ・イエペスであること、原曲はス
ペイン民謡で作者不詳であること、などを初めて耳にした。イエペスの演奏は
甘くゆったりとしている。映画監督ルネ・クレマンの着想で意図的にテンポを
遅くしてみたのである。別にすでにヴィンセンテ・ゴメスの演奏した盤があっ
て、こちらはスピード感があり力強く原曲に近い。

「手製のギターが置いてあるんだぜ」

 仲間の一人がうっとりしたような眼でつぶやいた。学校の帰路、繁華街の楽
器店に寄り道する習慣がついた。ピアノやエレクトーンを並べた大型店でなく
間口の狭い専門店で、管楽器とギターばかり、所狭しと吊るしてある。ショー
ウィンドーに恭しく一台のギターが飾られていた。穴を覗くと筆文字の署名が
見える。僕たちのギターの十倍以上もする高い値札がつけられており高校生の
分際ではとても無理だ。僕らは、生唾を呑みこみながらいつまでもガラスの向
こう側のギターを眺めていた。奥に気難しそうなミュージシャン然とした顔の
若い主人が坐っている。

「ちょっとだけ弾かせてください。お願いします」
 店主の機嫌がよさそうなときには鍵を開けて出してくれる。僕らは先を競っ
て「愛のロマンス」を弾いた。レコードで聴いた音色がいまここにあるのだ。
頬が紅潮した。束の間の居心地のよさを見つけた気分である。

「手製のギターって、なんて奥深い音が出るのだろう」
 店主は留守がちであった。目的は手製のギターから、代わりに店番をする鼻
っ柱の強そうな、けれど美しい娘に移っていた。店主の妹だった。

 ある日、娘と僕しかいなかった。
「またあのギター、弾かせてください」
 娘は微笑んで横に坐った。高校を卒業したばかりなので、僕より年上になる。
頬を寄せてきた。好意を抱いてくれている、とすぐにわかった。どちらからと
もなく手を握った。娘の掌は汗ばんでいた。

 毎日、通った。夢中になるなんてむずかしいことでも何でもないのだ。
 その日もいつものように店に行った。髭面の青年が店主と親しそうに談笑し
ている。娘は故意に僕を無視した。
「あの人はね、兄の友人よ。わたしなんか相手にもしてくれないわ」
 翌日、そう言われた。それからしばらくの間、僕は甘くもの哀しすぎるイエ
ペスよりも男性的なゴメスの演奏の真似をして弦を強く弾いていた。

              (猪瀬直樹著『僕の青春放浪』文春文庫所収)


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